動かない身体を呪うまでもなく、その瞬間は繰り返されて。
「 !」
何かを踏み外したような感覚がして、目が覚めた。
息を上手く継げなくて、額に流れた脂汗を感じた途端に激しく咳き込む。その苦しさと、末端から血が噴き出そうな程の動悸に夢を見ていたのだと、やっと悟った。
震えの止まらない手で掴んだ時計は、午前2時を指す。だが、逡巡は無かった。
冷たい床に汗の滲んだ素足を降ろすと、そのべたりとした感触に総毛立つ。拍子で上掛けが落ちたのに気付いたけれど、拾う手間でさえ煩わしくて。
部屋を、抜け出した。
ふらふらと地に着かない足を叱咤して、追われるようにして先を急いだ。どこまでも続く回廊、闇が深くて結末が見えない。そうこうしているうちに夢と現実の境界がまたあやふやになってきて、呪縛の夢を、思い出す。
白銀の軌跡と、散った朱色。目の前が塞がったかと思うと次ぎの瞬間には、もう。
「・・・っ・・・」
目の縁が熱くなって、視界が歪む。何処をどう通ったのかでさえ思い出せないだろう、真夜中の迷路。ただ其処だけを目指し、無意識に道を選択して辿り付いたのは、もうひとつの部屋。
手の皮も破けよとばかりに、強く。
「・・・カナン様っ!こんな時間に・・・」
慌てて開けられ潜められた声にも構わず縋り付いて。
その体躯の厚み。胸板を通して響く声と。
困惑して双肩に置かれた大きな手と。
まだ、夢を見ているのかもしれなかった。
そう思うと喉奥から込み上がる嗚咽。たまらなく、胸が痛い。
「・・・どうなさいました」
静かに扉を閉めて、柔らかく問う。
寝入り端とはいえ、突然響いたノックの音に飛び起きた。その音の間隔の特徴、こんな非常識な時間に自分の部屋を訪れる、心当たりの人物との照合。何より直感と。普段ならば扉越しに交わされる密やかな押し問答。だが、その叩き方が尋常でなく切羽詰まったものであった為に、追い返すまでもなく扉を開いてしまった。
途端に飛び込んで来た、案の定それは金色の塊。ふるえる腕で、痛い程にしがみ付いて来る。驚いた。
「・・・っく」
・・・泣いて?
思いもよらない事にどくんと跳ね上がる、根性の無い心臓。自嘲の苦さと同調の痛みが胸中を占める。
こんな夜更けに、どうして。
薄い肩を押して、表情を確かめる。自らの感情はさて置いて、まずは滅多に無いその涙のわけを知りたかった。
見えたものは、痛いほどの哀惜を湛えた夜の湖。また一筋、溢れる。その透明な滴に込み上がる衝動を辛うじて抑え、穏やかに問うてみた。
「・・・どうなさったんですか、カナン様?」
こちらの落着きに引かれたのか、ぼやけたようだった蒼の焦点がゆるりと揺らぐ。
「・・・せ、セレ・・・っ、 っ、 ・・・う、、な・・・、 っ・・・、 〜〜〜ッ!」
しゃくりあげが強くて、うまく喋ることが出来ないらしい。そのことに癇癪を起こしたのか、絶句すると共に両手で顔を覆ってしまう。思わず抱きしめる。
「・・・落ち付いて。もう大丈夫ですから」
我ながら根拠の無い台詞だとは思いつつも、他に言うべき言葉が見付からない。胸が痛い。こんな泣き方をするこのひとを、久しぶりに見た。尤もそれは、ずいぶんと子供の頃のことだったけれど。
折れそうな程にほそい。全身を震わせての声無き慟哭に、小さな子供をあやしているような気分と躯の芯にじわりと湧いた熱がせめぎ合う。えぐえぐと止まらない泣き声に、ぽんぽんと軽く背中を叩いてやって。
自らの前髪を毟るように掴んだ指を傷付けないよう、そっと外してやって。涙にまみれたそれに、くちびるを押しあてた。
痙攣を起こしたように鳴る喉がようやく落ち着きはじめて、気が付いたらパジャマの胸に抱きすくめられていた。そういえばこの青年がパジャマを着ているのは何だか珍しくて、きょとんとしてしまう。
暖かさに目をやると、指先に彼のくちびるがしずかに付けられていて。
雫を啜るような感触に突然目が覚めて、襲い来るのは強烈な羞恥。
違う、パジャマ姿が珍しいのではなく、初めて見る所為だ。
「せ、」
真夜中の彼、その裸体しか覚えていない自分に驚いて。
慌てて胸を押して離れると、涙で濡れた跡が染みていて更に恥ずかしく。
「す、すまない」
思わず謝ってしまう。
「何が、ですか?」
「・・・染みが」
ああ、と自らの胸を見降ろして微笑う翆眼に少し安心するも。
「もう、落ち着かれましたか?」
穏やかに笑む表情に、加速する何か。
「う、うむ。すまなかった、こんな夜中に」
「いえ」
「・・・」
「カナン様?」
ことばが、続かない。
目が覚めてみれば、どうしてこんなことで泣いてしまったのかが解らない。夢を見た、ただそれだけのことだ。それがどれだけ辛い内容であったとしても、所詮夢はただの夢であり、目の前には微笑む彼が居るのに。
けれど、夢の中身を洗い浚い話してしまうことだけは、どうしても躊躇われた。喋った途端にこれもまた夢幻であったら、その考えが頭を離れなくて恐かった。
自分は、あの時あんなにも無力で。
其処に在る存在を確かめたくてゆっくりと手を伸ばせば、それはしっかりとした手応えを返す。そんな些細なことがひどく嬉しく、同時に切なくもあった。
何度か確認するようにぺたぺたと胸に当て、きゅうとパジャマの布地を握り締めた軟い手をつかまえると、真っ直ぐな蒼が見上げてきた。こんなことではいけない、そう思うのに中枢神経がうまく作用しない。先刻より体温の上がった気のする、柔らかな指先にもう一度口付ける。
涙が止まってしまえば其処で簡単に安堵をしてしまう。単純だとは思う。しかし彼が何も言わないのであれば、無理に聞くことはすまいと心に決めた。
泣いていた理由は聞かないから、泣いていても良いから、せめて涙が止まれば笑って欲しかった。そして安らかにあればそれで良いと。
上げられた頬に手を添え、慰めるように金糸の髪を梳けば、それは夢のような手触りを返す。
蕩けるような蒼に、未だ睫毛に留まる涙粒に、祈るような気持ちが胸に湧いた。
もっと近くにセレストの存在を感じたくて、目を閉じる。
涙の跡が早く乾けば良いと、カナンの濡れた目元にくちびるを寄せる。
抱きしめたぬくもりが、現実感を増して。
包み込んだ存在が、夢のように儚くて。
あとに残るのは、愛しさだけ。