「ではカナン様、今日はこれで失礼致します」
「うむ」
そう言って、すすと近付いて来た風呂上がりの夜着姿をそっと包む。
「良い夢を。・・・お休みなさいませ」
「・・・」
応えは無い。顔は上げない。ただ、きゅうと制服の布地を掴んで。
言わんとしていることは、いくら唐変木の字を腕の中のひと当人から頂戴した身とて、すぐに解る。解るが。
「カナン様・・・、明日は早うございますから」
「・・・」
ますますもって力の入る柔い手をそっと外し、だがそのまま踵を返そうとするのは叶わない。この細い腕の何処から、と驚く程の強さでもって、腰の辺りに一周される。渾身の膂力であろうそれもセレストにとっては易々と抜け出せる程度ではあるが、胸に埋められる紅顔、乾かしたばかりの金糸が撓んで肩口にふかりと乗ってしまえば、呪縛のように動けなくなる。しかし。
今夜はまずい。まずいのだ。
明日からは年に一度の大祭、収穫祭が始まる。それは朝も早くから大礼と刈り入れの儀式で息を継ぐ暇も無い程の繁忙期、その前夜に、こんな。
「今夜はもうお休み下さい、カナン様」
うっかり流されそうな意志と溶けかかる理性を滲血のような努力でもって固定し、腰に回された腕をゆっくりと解く。
今夜はまずい。
今日の昼、隊務を終えて参上した時に礼装の合わせを見てしまった。典礼用のそれはかちりとした縫い目の、脇のラインはしかしこの人の持つ独特の華やぎを決して損なうことなく纏われていて。純白に濃青が縁取られた外套、晴れた空の下で翻れば金糸の冠と共に、一体どのようにして自分の目を射抜くことだろう。その時、魅入られたように動けなくなった我が身は侍女に手伝われてするりと脱衣された裸身により、ひどく慌てる羽目に陥ったけれども。
思わず目を逸らす一瞬の隙に見てしまった、衣装とはまた違う上質な白さが脳裏に焼き付いた。やばいと思うタイミングでさえ手後れで。
見えてしまったものは仕方が無いと、何とか今まで堪え忍んで解放の時が訪れるのを待ったというのに。
まずいのだ。
こんな、いい匂いのする身体でくっ付いて来られては。
肉付きの薄い肩を押して引こうとすると、ますます離れてはくれなくて悲しくなってしまう。
「カナン様・・・お聞き分け下さい」
嫌悪されるのを承知で小さな子供に言い聞かせるような口調になる。そうでなくてはいけない。今、なし崩しにこの人を抱き締めてしまったら、歯止めが利かなくなる自信が有った。
自分の事は良い。問題は、このひとの身体の事だ。
「・・・・・・て」
「え」
「どうしてお前はいつもそう・・・っ」
上げられてはじめて見えた顔は、これ以上無いまでに赤く。潤んだ蒼と揺れる金。くらりとする程の艶めき、しかしそれは呆気無いくらいにあっさりと遠のいて、その代わりにひたと見据えられる。自らの身体を抱き締めるようにして腕を組み、震える呼吸を細く吐いた。
「ひとつ、聞く」
「・・・は、はい」
「お前は、僕のことが好きなのか」
「はい」
即答した。それはこの上なくそう思っているのに、彼のひとは柳眉を逆立てる。
「・・・違う、そうじゃなくて。ちゃんと、口に出して言え」
そう言われて初めて、常々思っていることを言葉にするのは、ひどく勇気が要るものだと知った。赤面する。同時に、どうしてこんな事を改めて確認するのか、意図が知れなくて困惑した。
「あの、・・・畏れながらお慕い申し上げ、て」
言葉は半ばで断ち切られる。他でも無い、カナンの掌によって。
「そんな文句が聞きたいんじゃない。僕は好きなのか、と聞いた。ならば答えは二つしかない、好きか、・・・そうではないかだ」
どうなんだ、と見上げられて好きです、と言いかけた唇はしかし動かなかった。
目の前の頼りなげに立つ少年に、昼間の礼装姿が重なる。凛々しく厳しささえ秘めた風情に感じたものは、いっそ信仰に近いまでの畏敬の念。認識したのは600年という長きに渡って綿々と受け継がれてきた王族の血、それがこの少年にも確かに流れている事実。
言うだけならば、容易い。だが、軽々しく口にするにはあまりにも気持ちの入る、その言葉を。
自分などが言ってしまって良いものなのだろうか。
親子代々長年の騎士従者職に染み付いた、無意識の謙譲体質が邪魔をする。その恨めしさについ躊躇っていると、諦めたように息を吐かれた。
「もう・・・良い」
「カナ・・・」
「いいんだ。お前の気持ちは知ってる。ただ・・・、今日はずっと目を合わそうとしないし、近く寄っても逃げるように触れて来さえしない。何か有るのかと思って、・・・不安になっただけだ」
すまない、と自嘲するように浮かべられた儚い笑顔に。何かの箍が、外れた。
「せ・・・!?」
「好きです」
「!」
引き掴んだ腕から背を抱き込んで、力任せに強く。一旦切ってしまった堰は止まらない。
「好きです、好きです好きです・・・好きです・・・っ!」
壊れ物を扱うような常からは想像もつかない程の激しさに、驚いたのはカナンの方だった。
「セレ、いたい・・・」
その驚愕から漸く我に返り、苦しげに呼びかけてみても聞き入れては貰えない。引き上げられて、踵が浮く。
「好きなんです・・・すみません」
食い締めた歯の隙間から絞るように出された声に、しがみ付くようにして抱き締めてくるその背中に、恐る恐る腕を伸ばして抱き返す。涙が滲むのは、苦しさの所為ばかりではない。
「・・・わかったから・・・セレスト・・・」
素直に良かった、と思う。嬉しかった。何故だか避けられていた先程までと違って、今はこんなに近く彼を感じる。もうそれだけで他に何も要らないと思えてしまうのは、自分の単純さと未熟さ故なのだろうか。
翌日の大祭を控え、彼が自分の事を気遣ってくれているのは知っている。けれど何処か余所余所しい態度に、まるで子供に言い諭すような語調にそれこそ子供のような癇癪を起こして詮無い事を言い、彼を困らせてしまったことが胸に痛かった。
背骨が軋む程の抱擁、その報いがこの痛みならば、甘んじて受けようと背を抱く手に力が篭る。それを罰とするには、余りにも甘い感情を湧き起こさせるものだけれど。
もうしばらく。
もう少しだけ。
このままで。
・・・そして、離れるタイミングを失う主従がここに、一組。
「・・・あ、の・・・カナン様・・・そろそろ」
「う、うむ・・・では」
「・・・カナンさ・・・」
「お休み」
「え゛」
「何だ?」
「い、いえ」
「明日は早いからな」
「は、はい・・・そうです、ね・・・」
しかし、悪戯っぽく見上げてくる蒼の瞳、口先だけの言葉に苦笑して額を合わせる。
「・・・明日は早いんですからね」
「うむ、早いぞ」
くすくすと笑いあう、このひとときが掛け替えの無い、幸せの前夜祭。