ひょう、と積雪の上を風が散って、青空を背景にきららかな雪片を舞い上げるのが見えた。
たったそれだけの事が嬉しくて、冷たさをも厭わずカナンはきっくきっくと雪を踏む。一夜のうちにここまで積もるというのは、ルーキウスではとても珍しい。
「カナン様、おま、お待ちくださいっ」
振り返れば雪まみれになりながら、第二王子付きの従者がぜえぜえと登ってくる。軽やかに雪を歩くカナンとは対照的に、積雪に足を取られてはバランスを崩し、その度にぼこぼこと白に埋まる。そういえばあのダンジョンで、お気を付け下さいとか言い乍ら真っ先にクレバスに落ちていたのはこいつだった、等と少し前の事を思い出した。
「セレスト、無理しなくていい。帰れ」
「そっ、そういう訳には・・・うわっ」
ずぼー、と深みに嵌まってじたばたともがく従者を、王子は呆れたように救出に向かう。
「何やってるんだ・・・まったく」
「カナン様、そのような薄着ではお風邪を召してしまいます」
粉砂糖にまぶされたような姿になってしまった青年を引っ張り上げると、同じく粉砂糖のような白さの外套を差し出される。こんな時でも我が身を省みないあたりが、この従者らしいといえばそうなのだが。
「いらん。お前こそ何だ、そのむくむくに着膨れた達磨のような姿は」
「カナン様は、お寒くはないんですか」
「こんなのは寒いとは言わない。冷たいと言うのだ」
「同じじゃないですか・・・」
「ふん、違うな」
こんなに晴れ上がった空の下、太陽が照っていっそ暖かい程で風の冷たさは然程気にはならない。冷たいのは足元に積もった雪、何処までもさくさくと積もってきらきらと陽光を反射して、白い。
兎に角、と念入りに外套を着せ掛けられるのに逆らわず腕を通した。言う程の寒さは感じないが、着ておかないと寒い寒いとこの従者は煩い。それに心配してくれているのも悪い気はしなかったから、うむと笑って大人しく釦を掛けて貰う。
そして、
「カナン様は本当に雪がお好きですね」
「セレストは本当に寒さが苦手だなあ」
お互い同時に言い合って吹き出した。
ぴかぴか光る樹氷の下、二人の明るい笑い声だけが白の上へ無邪気に広がる。
一頻り笑って、そろそろお茶の時間ですよと促されてもう少し此処に居るとカナンは言ったけれど、今日のおやつはチョコレイトケーキですがと返されてころりと気が変った。折角のおやつをふいにする気は毛頭無いし、今一度遠くに連なる雪雲を望めば、今夜もまた、かなりの降雪を期待出来る。ふふと含み笑いを漏らす王子を、暖かい気持ちで従者は見守った。
そうして眩しい雪野を共に下りかけたその時、
「・・・・・・った、!」
「カナン様?」
ひょう、とまた風が走ってカナンの目を刺した。思わず片手で押さえる王子にセレストが慌てて駆け寄る。
「どうなさいました?」
「たた・・・、何か目に入ったみたいだ」
「擦ってはいけません、お見せ下さい」
「いや・・・、雪?か氷か・・・冷たい」
「手を退けて」
顔を寄せられて、え、と思う間もなくカナンの視界が塞がった。
「ん・・・、な、何?」
瞼に触れる、あたたかな感触。睫毛を唇で辿られるのが判って、肌が粟立つ。
「せれ・・・」
「動かないで下さい」
セレストの両手に顔を挟まれていて身動きがならない。目蓋の継ぎ目で発せられた声に身体が震える。感触に耐えていると更にぬるりとした熱いものに侵蝕された。
「やっ・・・」
思わずぎゅっと閉ざしたけれど、目蓋の力なんてたかが知れている。それは他愛もなく割り裂いて中に侵入ってきて。
「やだ、やめ・・・セレスト・・・!」
必死に訴えても離しては貰えず、そのまま息をのむ。・・・そして背中を這い登るような何かに刺激されて、涙腺が緩んだ。
「・・・うっ・・・く」
痛みは無い。ただ、ゆっくりと目頭から目尻にかけてを、睫毛の間を埋めるようにして舐られる。それを追って涙が零れ、顔を包む両手の袖口に落ちた。
「・・・んっ・・・」
「・・・お泣きにならないで下さい」
はぁ、と言葉の息が掛かって濡れた眼を開けた。壊れたみたいに涙が止まらないけれど、泣いてない、と応える。
「痛くはないですか?」
その頬をまた指で拭われる。屈んで、小さな子供にするように。
「もう痛くない。はなせ」
羞恥の余り血が上った。けれどセレストの手は両の頬から離れようとはせず。
「・・・セレスト?」
怪訝そうなカナンの顔に、そっと暖かいものが触れる。
「溶けるもので良うございました・・・寿命が縮む思いを致しましたよ」
慈しむような唇が涙の跡を辿って頬、目元、額に鼻先に。耳朶を弄られて熱い。
「ん・・・も、やめ・・・、大袈裟に過ぎるんだ、お前は」
子供扱いの科白とは裏腹に燈されるものを誤魔化したくて、カナンは鼻先にぎゅうと皺を寄せた。苦笑の気配が伝わってきて、すいと離れられるのを安堵する反面、少し心許無く思う。
しかし直ぐにふうわりと背を抱きこまれて胸が高鳴った。
「大袈裟にもなります。・・・魔法に掛けられた氷の欠片が眼に入ってしまった男の子のお話を、覚えていらっしゃいますか?」
引き合いに出される寓話に、懐かしいなと思わず微笑う。
雪の女王に魅入られて、心を凍らせてしまう少年の物語。
「・・・僕がその少年だとでも?」
幼い頃、今の自分よりも年若かったこの青年が枕辺で語ってくれた、冬のおとぎばなし。
「万が一の話です」
生真面目な顔をしてそう言う従者を抱き締めながら、王子はまた笑った。要は雪にばかり夢中になるなという事なのだろうか。まったく、これではどちらが子供なのか。
ひどく判り難いけれど、嫉妬をされるのも悪い気がしない。だから、従者の背に廻していた腕を軽く解いて勝気に見上げてやると、あからさまにどきりとした表情をした。
「まあ良い、雪の女王の陰謀を未然に阻止した褒美を遣わそう」
「・・・はぐらかさないで下さいよ」
何処か得意気に言って純白の雪上、元から貴石のような瞳がゆらゆらと青空を映して自分を見上げてくる。たったそれだけの事でどうしてこんなに鼓動が早まるのだろうか。
それを悟られるのも癪な気がしてわざとセレストが渋面を作ると、くらりと蕩けそうになる笑みを寄せられて「要らないのか?」と問われた。
まったく、降参だ。これで計算の無い無意識の表情なのだから、いつもこのひとには敵った例しがない。
「・・・、何を、頂けるんですか?」
とりあえずは密かに上げた白旗を棚にも上げておくことにして、苦笑したセレストは雪に映える金糸を指で梳いた。
冬風に散らばって乱れつつも輝きを損なわない髪と、寒さのためか鮮やかなまでに染まった頬。すぐりの実を思わせる瑞々しいくちびるを勝手にそうと決めて拝領することにする。
両頬の手触りを堪能しつつ、そっと顔を近付けた。
そして唇が触れ合う寸前、その艶やかな口唇が何ともうっとりと甘い単語を発す。
「今日のおやつのチョコレイトケーキだ」
「・・・」
「・・・今日のおやつはそれだと、言わなかったかお前」
「・・・申し上げました」
「よし。一緒に食べよう、なっ」
金に縁取られた満面に広がる、チョコレイトよりも更に甘い笑顔。
眩しさに目を眇めて白息を吐くと、「む、今またコドモだと思ったなっ」とちょっぷを一発、先に拝領してしまった。