仕事で嫌な目に遭った。
自分もこの仕事に就いて長いから、たまにはこんな日も有るだろうことは承知しているし、ひとつの事柄でいつもまでもくよくよと思い悩む程、暇ではない。けれど、そう直ぐに立ち直れる程に人生を悟っている訳でもなくて。
要は少し、落ち込んでいる。これまでの経験からいって、一晩ぐっすり眠れば明日には持ち直している筈なのだが今日はどうしても気分が下降気味でいけない。
しかし嫌な目のひとつやふたつで仕事を休んでなどいられないし、そんなつもりも毛頭無い。
「セレスト、どうかしたのか?」
「何がです?」
「・・・いや、何がというわけではないが」
読書に没頭していたと思いきや、急にこんな事を訊いてくる主君には全く油断がならない。内心の動揺を悟られないよう冷静に通常にと努めて笑みを向けるが、心まで透き通るような澄蒼の瞳を欺くにはかなりの労力が要る。いつもは何を考えているのか、捉えどころの無い印象が有る割に、妙なところで勘が鋭い。
「・・・・・・お茶をお淹れしましょうね」
そうとは悟られないよう所作に気を配りながら背を向け、密に息を吐いた。
仕えている方に愚痴を溢すなど以ての外であるし、それに、このひとには些末な事で余計な心配をさせたくはない。
「ああ、うむ。・・・いや、」
一度は首肯しながらも、ぽむ、と革表紙の本を閉じる音が聞こえた。
そうして
「セレスト、お茶はまだ良いから一寸こっちに来てくれないか」
「はい?」
振り向けば、寝台の前でひらひらと手招く金の髪の王子。華奢なつくりの手には余るような分厚い本を持ち、言われる通りに近付けば「此処に座れ」と綺麗に整えられた寝台をぱむぱむと叩かれた。
「はあ・・・あの」
「いいから、早く」
「はい。・・・・・・失礼します」
未だ主君の寝台へ軽々しく掛けるなどということには若干の抵抗が有るが、言い出したら聞かない人ではあるし、何を意図したものか興味もあった。
遠慮がちに浅く掛けると、もっと深く座れと言う。首を傾げつつ座り直すと、両の膝に手を置かれてぐいと開かされた。
「かっ、カナン様!?・・・何、何を」
「うむ」
そうして満足気に肯いてくるりと背を向け、そのまま王子は
「カナ…!」
ぼすん、と足の間に腰を下ろしてしまったのだ。
「カナ、カナン様っ!あのっ」
動揺の余り両手の持って行き様がなくて、あわあわと無意味な動作をしてしまう。
「ん〜?」
しかしカナンはぱらり、と何事も無かったかのように再び本を開き。
「あの・・・」
「思うんだが、セレスト」
何を言うより先に話し掛けられて、思わず返事をしてしまう。
「は、はい」
ぱらり、と頁を繰って、
「このような体勢を取るには、近衛の制服は構造上の問題がかなり有るな。座り難い」
「は?」
「座・り・難・い」
ぐらぐらと、半ばハンモック状になった膝の間で身動ぎをする。膝下まで長さの有る騎士団近衛の長衣は無論、膝の間に王子さまを座らせる用途の為には作られていない。
「あの、では、何故」
こんな処に、とおろおろ戸惑うと、一方的に「気の利かないやつめ」と溜め息を吐かれ、二の腕から両の脇を軽く開かれた。
「ん」
「は?」
「んー!」
何かを催促するかの如く、ばたばたと両腕を動かす。そこまでされると、流石に常日頃より朴念仁と冠されている従者にも察しが付く。
「あ、・・・し、失礼します・・・」
恐る恐る背中から両腕を腰に回すと、また「うむ」と満足気に言って体重を掛けてきた。そうすると、すっぽりと華奢な身体が腕の中に収まり安定して、
・・・その重みに、不思議と気持ちが暖かくなって。
そっと、主君の横顔を窺ってみる。頬の産毛が近いその表情は、変わらない。いつも通りの視線で文字を追う。その意識は既に物語の最中へと戻っているのだろう。
けれど、何となく解ってしまった。
いつもはもっと単刀直入で、猪突猛進で、・・・こんな婉曲な甘え方をするひとではないから。
静かに呼吸をすると、さらりとした金糸からは蜜柑のような香りがした。思わず目の前の細い肩に、顔を伏せる。
「んー、こら。くすぐったいぞ」
首筋に髪が触れるのだろう、ちゃんと安楽椅子をしていろとばかりに軽く肩を揺すられるが、心地よい温もりはとても離し難くて。
気を使わせてしまったなと、嬉しく甘く申し訳なく。
「カナンさま・・・」
「何だ」
「・・・」
「・・・?」
「すきです」
告白は、さすがに照れくさくて微笑みを滲ませてでしか言えなかったけれど。
「・・・う」
かあ、と鮮やかな朱を上らせる首筋から頬へ、口付けたい欲求に囚われつつも。
そうしてしまうのさえ惜しい気がして、穏やかに目を閉じた。