“そんなわけで二人は、末永く幸せに暮らしました”
しかしそれはもう少し後に語られること。
夜半、目覚めたシンデレラは暗闇の中、すくりと身を起こした。そっと隣を窺うと一週間前に伴侶としたこの国の王子が、静かな寝息をたてている。
広い寝台の端と端、同じ場所に横たわっているとはいえ自分が密かに抜け出したくらいでは、そうそう気付かれはしない。青い前髪の掛かる端整な横顔に安らぎを見出しつつも、複雑な心境で寝台を降りた。脇卓の水差しから硝子の杯へ注ぎ、ぺたぺたと裸足で窓際に寄る。
身を包むのは上質の絹、贅沢な設えの椅子に掛けると耳触りの良い衣擦れの音を微かに立てて、月光に美しい影の襞を見せた。
結婚して一週間、求婚の際に約束した「三食昼寝、従者付き」の生活を、この王子は違えることなく叶えてくれた。
王族のものとしては質素なのだろうが、これまでの生活で与えられていたものとはかけ離れた食事。生鮮な魚肉や野菜が、丁寧に調理され滋養を整えられ、それらが一汁三菜、きちんと朝昼晩に出されてくる。
民間から王室に嫁いで色々と学ばなければならない事は多々有るけれど、元々の好奇心旺盛さもあって知識や行儀作法を吸収するのは早いと自負している。教師もよく教えてくれる。
勉強が終わればお茶の時間で、公務を終えた王子が手ずから茶菓子を携えて部屋へやって来る。
何呉となく世話を焼き、不自由なことは無いか欲しいものは読みたい本は、と訊ねて気を遣ってくれる。時には庭の散策に付き合ってくれる。
成る程、聞いた時には三食昼寝に意識が行って何の事だか解らなかったが、従者を付ける代わりに王子自らが面倒を見てくれるということか。今までが小間使いのような、というか小間使いそのものの生活だったから、自分の事は何でも出来るし特に不自由があるとは思わない。最初は何となく悪く思って固辞したのだが、お嫌ですかと訊かれて思わず首を横に振った。嫌だなんてこれっぽっちも思わなかったし、それにかえって四六時中侍従に張り付かれるよりは王子が傍に居てくれる方が、ずっと良かった。
そして王太子妃としてするべきことは、今はまだまだ勉強中であるから然程公務も多くない。だから三食に付け加えて、昼寝も好きな時に出来る。
眠くなれば寝室や日向の長椅子へ王子が手を引いてくれ、導かれる侭に横たわればお休みなさいと優しい笑顔を向けられ、・・・それだけで。
くぴ、と杯の中の水を含む。
それだけなのだ。
結婚して一週間、実は手を握る以上のことをしたことがない。
式を挙げた一週間前、流石に初夜は緊張した。真夜中まで続く祝いの酒宴を一足先に引き上げ、湯浴みを済ませて髪を乾かせば、青白い程に血の気の引いた顔が鏡に痛々しく反射した。母親のような年頃の侍女が何も心配されることはありませんよ、殿下はお優しい方ですからと微笑って薄桃色の粉を肌に叩いてくれた。甘やかな香りにほっとしたのも束の間、侍女が下がって広い寝室に独りきりで取り残され、あんなに心細い思いは今までしたことが無かったというのに。
とんとん、と自らの寝室だというのに扉を叩いて迎え入れられた王子は、出迎えた新妻を何ともいえない表情で見詰め、その後すぐに今日は疲れたでしょうと新緑のような瞳を細めた。
此方へ、と大きく暖かい手で導かれ、幅広の寝台へ横たえられ、余りの心音に目を開けていられなくなったところでふわりと羽根の詰まった上掛けを被せられた。
驚いて見返せば、お休みなさい良い夢を、と穏やかに微笑む王子が居り。
はてと訝しんでいると直ぐに夜着に袖を通した王子が隣に滑り込んで来て、さあいよいよかと覚悟を決めたところですうすうと寝入る息遣いが聞こえてきた。
それだけだった。
それから一週間、朝餉に勉強、昼餉とお茶と談笑と。夕餉の後に湯浴みをして。ふたりで夜具に収まって眠る。眠るだけの夜。そして朝、目が覚めれば早朝からの公務で王子の姿は無い。
窓から潅ぐ月明かりに、眠るセレストを見詰める。顎まで上掛に埋めて微動だにしないその姿を、ただ見詰める。
お茶の時間以降、自分に付き合ってあれこれと相手をする為に仕事の時間を繰り上げているのは知っている。そこまでして自分との時間を取ってくれようとする厚意は素直に嬉しかった。けれど。
身動ぎをするとさやさやと肌の触りも良く、夜着の丈長が膝からすべり落ちる。今は荒れたところの無い手の平を見るともなしに見る。何不自由の無い暮らし、望んだのは自分。なのに。
解っている。
婚礼の式典の直前、王子は一生を共にしようと心に決めた人間が男だと知って、ひどく驚いたようだった。それはそうだろう、そうでなければ硝子の靴を持ち、国中の一軒一軒を尋ね歩くなどという茶番を演じてまで自分を探しに来る訳が無い。
しかし騙したつもりはまったく無いし、娘の形はしていても女になりきっていたつもりもまったく無い。言葉遣いも普段通りだし胸だって無いし、
・・・だから王子は全てを承知した上で「どんな障害があろうとも」などと言って自分に求婚したのだと思っていた。
驚く王子の、表情が陰る前に言質を取った形で式を断行した。何故そう焦ったのかその時はわからなかったけれど、今なら解る、と思う。
事実を知って陰る王子の顔を、自分は見たくなかったのだ。
ぼんやりと見る手の平、その指先にちいさな疵。軽く指先を擦り合わせると、ちりと痛んだ。
お茶の後、明るい陽の射す午後の庭園を散策した。共に歩調を合わせてくれる王子は園芸にも通じていて、あの花はこの樹はと此迄自分の知らなかった事柄を教えてくれる。その博識ぶりによく知っているなと驚くと、樹木の緑よりも澄んだ若葉のような瞳を和ませ、植物が好きなんですと言った。おもむろに剪定用の鋏を取り出し傍に咲く大輪の薔薇を一輪、摘む。
薔薇は花のうちに剪定しないと来年の花付きが悪くなるんですと、少し痛ましげにそう言った、翠瞳の翳り。
その表情から未だ盛りと咲く薔薇への情が感じられ、何となくその薔薇が欲しくなり言ってみた。
「あ・・・ええ、・・・勿論、宜しいですよ。此処に在るものは全て、貴方のものでもあるのですから・・・ですが、お部屋に飾られるのでしたらもっと他の」
蕾の有る枝を、と探すようにする王子の袖を、引いて留めた。
「それが良い」
「・・・では」
「有難う」
躊躇いがちに緩やかに差し出される薔薇、指を伸ばして受け取ると僅かに指先が触れ合った。
「・・・!」
自分でも何故動揺したのかがわからない。ひとつ大きく鼓動を打った心の臓。
ぴくりと跳ね、思わず引いた指先を薔薇の棘が掻く。
「えっ」
かりりと皮膚の破れる感触、一瞬の痛みを感じると同時に、ほと、と地に薔薇が落ちた。
「っ・・・」
「も、申し訳ありません!!大丈夫ですか?」
「あ、うむ、平気だ」
大した痛みではない。これくらいなら真冬の雑巾掛けで作った皸の方がずっと痛かった。
「すまない、落としてしまった」
慌てて屈む。薔薇を拾おうと手を伸ばしたら、突然ぐいとその手首を捕まれて引き上げられた。
「!?・・・な、」
何を、と言うより先に顰められた視線に息を呑む。
「血が」
「え、あ・・・、ああこんなの、大した疵じゃない」
舐めておけば治ると笑ったつもりだったのに。
次の瞬間にはその人の唇に己の指先を含まれていて、頭の中が真っ白になっていた。
「何・・・セレ・・・」
驚いて引けた腰は、反対側の腕に抱き込まれてより引き寄せられた。指先のちいさな疵口をいたわるように血を舐めとった暖かい舌頭は、柔らかい感触を与えながら指の腹、そしてその根元にまで到達し、
「や、め・・・!!」
接触箇所からぴちゃ、と聞こえた微かな音に堪らず胸を押した。ひどい動悸に眩暈がする。激しい血流の氾濫、その苦しさに瞳が潤む。
「は、?・・・あっ、す、すみません!」
相手も驚いたように、あたふたと飛び退いた。顔が赤い。
「失礼を・・・」
「う、・・・いや」
何とか応えを口にして、混乱する何もかもを抱えて部屋へ戻る。気持ちを整理するのに大層時間がかかり、そういえばあの薔薇はどうなったろう、と我に返った時にはもう寝台横の脇卓へ生けられていた。棘を、きれいに取り除かれて。
それを見た時、解ってしまった。
飛び退いた時の王子の様子、失礼をと頭を下げて表情を隠し、顔を上げた時にはもう常と変わらない穏やかな微笑を浮かべていた。
否、その微笑みに苦いものを見てしまったのは錯覚ではあるまい。お互いが男の身であることを思い出したかのようだった。
今はもう血も止まり、小さな疵と鈍い痛みだけを残す指先を、親指の爪で掻いてみる。ちりと痛んでまた赤いものが滲んだ。
「・・・ふ」
情けない気分で、その指を自らの唇に運ぶ。
理解したのは今後もこれまでと変わらない、平和で穏やかな日々。三食と昼寝とお茶と歓談、・・・そして眠る夜。
王子が伴侶としたかったのは、硝子の靴を履く娘だったのだろう。
王子の辿った通りに指先を舌で確かめ、蘇る感触に身体が熱る。何を今更、と思った。三食昼寝に飛びついておきながら、今更。
彼は、約束を守ってくれたのに。それ以上を望む自分を知れば、浅ましく思うだろう。軽蔑するかもしれない。
これだけで、満足をしなければならない。三食昼寝、従者付きの約束。
変わらず続く、輪舞のような日常。
自嘲の笑みと共に、杯に残る水を一気にぐいと流し込んだ。
立って、またそっと大きな上掛の中に潜り込んで、心穏やかならぬ夜を明かすことにする。身を縮めて丸くなる。水に混入されていた檸檬の風味が、少し苦かった。
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