目覚めないで。
哀しいまでに儚い柔らかさと、触れた箇所から伝えられる想いと。
夢は、いつも光の色をしていた。
金色の細かな燐光がちらちらと眼裏に翻る。蝶の羽ばたきのような水面の揺らぎのような、光の正体を捉えようとして目を開けると、既に朝が訪れていた。
もう癖のように、睡眠が途切れると一番に隣を見る習慣が付いている。夢の名残も近く、目と鼻の先に目映い金糸が散らばっていた。閉じた目蓋を同じ金の縁取りが飾り、僅かに開いた花弁のくちびるが涼やかな寝息を漏らしている。仄かに漂う檸檬の香り、それが横で眠る金色と相俟って楽園の果実の印象を持つ。
余りにも近い距離にあるそれをぼんやりと眺めて、一瞬の後に慌てて離れる。刺激の強い目覚めだった。
王子の朝は早い。独身時代は公務が終わった後も、かなりの仕事を部屋に持ち込んで真夜中まで処理することも多かったが、仕事の時間を繰り上げてみるとその方が思ったよりも効率が良い。毎日午前中いっぱい仕事をして、午後は妻との時間を過ごすことに決めている。
いつも、王子が訪れると嬉しそうに微笑う幼い妻、たまに扉の陰に隠れていたり木の上から声を掛けられたりして度肝を抜かれることもあるけれど、そのお転婆さもまた、これ迄知らなかったこのひとの新たな一面を見せられたようで何だか嬉しい。朝は一緒に居ることが出来ない分、昼食の後ゆっくりとお茶を楽しむ。勉強の成果は、読んだ本の感想は、国内の情勢は、他国を訪れた時の話、家族の話、たくさんの話をして。新たな知識を得る度にきらきらする表情を、間近に見る。
このひとの傍で日々を過ごす幸せ、そして夜は相変わらず長い。早く夜明けが来ることを祈って、最近は気絶に近い眠りを得るのが普通になってしまった。いつも知覚の無い夢を見る。
靡く金と、揺らぐ海と、薔薇の赤。目覚めるといつも朝で、檸檬の香りの溶ける光が寝台一面に蕩っている。
それは脇卓に毎夜用意されている檸檬水の所為だろう。真夜中に起きてその水を口にするこのひとの、まるでそれは移り香のようで、不思議な気分の高揚を覚えた。思わず伸びる腕を留めることが出来ない。眠り姫の指をそっと握り、艶やかな髪の一房に触れて柑橘の香を楽しむ。いつしか密な毎朝のそれが、目覚めの儀式のようになってしまった。
そしてその移り香が自らの唇の上にも有ることを、王子はまだ気付いてはいない。
子供の頃、猫が家に居たことがあった。その時はまだ両親も兄も健在で、貧しいながら暖かい暮らしがあり。いつの間にかふらりと住み着いた猫、寒い季節になると部屋の中へ入れてやって、よく一緒に眠ったものだ。
猫はまるで何かの遊びのように、人の眠りを見守る生き物だと思う。時には身体に飛び乗って来て起きるかどうかを試し、時には気付かれないよう丸くなっていた足元から、そっと立ち上がって抜き足差し足、布団を踏んで枕元に来る。其処で目を開けると、さっと床へ逃げてしまう。気付いていても、目を開けてはいけないのが我慢比べのようなルールだった。
今、すこし猫の気分で眠る夫の顔を見詰めている。いつもの習慣で檸檬水を飲んだ後、しばらくは目蕩みもせず夜具に包まっていた。しかしやがて何かの衝動のように起き上がり、眠る王子の傍近くへ寄る。
気付かれたくはないのに、気付いて欲しいのは何故なのだろうか。
せれすと、と声に出さず唇だけで呼んでみた。目蓋に掛かる青い前髪、そっと摘んで退けてもぴくりとも動かない。
緩やかな呼吸を指先で受ける。熟睡しているらしい。
きし、と寝台が幽かに鳴って鼓動が跳ねるけれど、ゆっくりと覆い被さるように上へ移動する。落ち掛かる髪を寸前でかきあげて耳へ掛けた。
激しい動悸と感情の高ぶりに、泣きそうになってしまう。
目覚めないで。
盗みを働く時というのは、今この時のような気分になるのだろうか。だとしたら自分に泥棒は向かないと思いつつ、行動を止めることが出来ない。もうすぐ夜が明ける。
そのままゆっくり屈んで、そっと羽根を落とすよりも軽くそのくちびるに唇で触れる。乾いて眠る口唇は何も返してはこなくて、遣る瀬無い切なさと、触れた温もりに引きずり出される溢喜に身体がふるえた。
触れたときよりもゆっくりと離れて、また凝と寝顔を見詰めて。
ふいに襲い来る胸の痛みに視界が潤む。夫はいつまでこうして、自分と枕を並べてくれるのだろうかと。
忘れたことなど片時もない。彼はいずれこの国の王となる。そう遠くない未来、別の寝所へ彼が通うようになるだろうことは、想像に難くなかった。
王家の血筋の為だとして。
果たしてその時、自分はどんな気持ちで夜を明かすのだろう。
そのまますぐ側へ寄り添うように横になって、目を閉じる。ひとりの夜を想像する。
また夜半に目覚めて水を飲んで。
今度は誰も居ない寝台を眺めて。
ひとりで。
解っていた事なのに、こんなに辛い。堪えていたものを身の内へ収縮させるように、上掛を抱き込んで顔を埋めた。
こうして毎夜密に口付けを盗み、僅かな足心と恋慕を手に入れて眠りにつく。ひどくそれは一方的な行為で、王子にはすまないと思う。思うけれど、切なくてどうしようもなかった。
傍に居たいのに、傍に居るのが辛いという事を初めて知った。
妻の様子がおかしいことに気が付いたのは、今日の午後。
いつものように公務の後に昼食を取り、お茶の用意が出来るまでの時間、庭園を共に漫ろ歩く。
思えば新婚の筈、それなのに初めて出逢った幻夜の舞踏会以来、あれ以上に甘やかな時は過ごしていないことに気付き、まるで年老いた夫婦の落ち着きだと自嘲のような笑みが浮かんだ。
それでも秘めるように想う気持ちは変わらない。いつかは本当に年老いて、静かな家族愛へとこの気持ちも変化するのだろうか。けれどそれで良いと思っていた。
薔薇は盛りを過ぎて、僅かに残された花々が風に甘く揺られて花弁を散らす。夏も近いというのに、今日はやけに外気が肌に冷たい。そう思った途端に、くちゃん、と隣から小さなくしゃみが聞こえた。迷うことなく自らの身に纏う肩布を外す。
「これを。・・・今日は何だか風が冷たいですね」
「あ、ああ、うむ。有難う」
肉付きの薄い肩を包むように掛けてやると、少し俯く。金の睫毛が目元に淡い影を落とすその風情は、何処か萎れた薔薇を連想させて、心做しかどきりとさせられた。
「・・・如何、なさいました・・・?どこかお身体の調子でも・・・」
「いや、何とも無い。・・・それより、少し話をしたいのだが、良いだろうか」
「は、」
セレストの肯きを見もせずに、庭園奥の四阿へと先立って歩く。
妙な胸騒ぎがした。
碧翠の瞳を真っ直ぐに見ていることが出来なくて、背を向けたまま四阿の柱へ手を掛けた。繊細に施された彫刻の陰影へ、少し爪を立てる。
逃げのような自らの決断は、多大に悔いを残す。けれど、このままの状態で時間を過ごすことだけは、どうしても甘受できなかった。
静かな足音を背で聴いて、言の葉へ連なる息を吸う。それを吐くことへの抵抗か、きりきりと肺が痛む。
その所為で、震えを悟られないよう律して発せられた声は、自分のものではないような音程を孕んでいた。
「・・・もう、お終いにしないか」
next>>
|