ざあ、とつめたい風が薔薇の海を薙ぐ。
今、この場所はまだ明るいというのに向こうの空はどきりとする程に暗い。空気は微かに水の匂いを含んで硬く流れ、薔薇の毟りとられる以外、一切の音が消える。
舞散する花片の壁を透かして、紺碧の双眸が此方を見ていた。
「もう、お終いにしようセレスト。僕は此処を出る」
すぐ傍に居る筈のひとの声は、遠くて。
「な、・・・にを」
何を言っているのだろう、このひとは。
「もうこんな、偽りのような結婚生活はやめよう。国にも貴殿にも、相当の負担を掛けたことは詫びる。けれど、」
「待って下さい!何を、何を仰っているのですか!?」
驚愕の余り、声を抑えることが出来なかった。叫ぶように発せられた王子の言葉に、かつて灰被りと呼ばれていた王太子妃は何の拘りも無さそうに言ってのける。
「何をって、うーん、ぶっちゃけて言えば離婚話なのだが」
「・・・!!」
棒を呑んだように立つ王子の姿を、王太子妃は忘れじと目に焼き付ける。自分の言葉に少なからず驚き、引き留めてくれようとするその気持ちだけで嬉しかった。涙は見せまい。つとめて明るく言葉を創り出す。
「そもそも無理があったんだ。男同士で結婚などと、市井では認められていても世継ぎでそれが許される筈もない。貴殿はこの国の第一王子ではないか、僕のような者を未来の王妃に立てて何とする」
「それは」
「黙って聞け」
言いかけた王子を片手で遮る。今はその口から、側妻の可能性など聞きたくはなかった。我知らず、多弁になる。
「確かに僕は優秀だ。手前味噌のようだが、ゆくゆくは貴殿の行う政の良き片腕として働ける自信も有る。けれど、」
一旦言葉を切り、王子を見上げる瞳は何処か哀しい。
「・・・けれど、・・・結婚とは、愛し合う者同士でこそ成り立つものではないのだろうか」
「・・・っ」
声が出なかった。表情が歪むのが分かる。王子にとってそれはまさに痛い処を突く言葉で、しかしその動揺は王太子妃へは違うものとして伝わった。
「王侯としての婚姻ならば政略的な意味も有るのだろうが、でも僕には政治的な価値など無いし、何より、・・・ふふ、貴殿には政略結婚など似合わないな」
そう言って微笑いを洩らすひとが、泣き出しそうにも見えるのは何故なのだろう。
「だから・・・本当に感謝しているんだ」
束の間の夢を。
それだけは、心からの言葉。
対するセレストは金縛りに遭ったように動けない。青天の霹靂、今こんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。否、落ち着いた幸せを望みながらも、心の何処かでいつかこのひとを解放しなければならない時が来る、そんな予感めいたものは有ったけれど、それがまさか今この時だとは。
手を離すべきなのか、そうでないのか、判断が出来ない。このひとにとって本当の幸せを願うならば自由にして然るべきなのに、己の感情が幾許かの昏みを帯びて目の前に立ちはだかる。放したくない。
結果、魂の篭らない声音で問うことしか出来なかった。
「此処を出て・・・どうなさるおつもりなんですか?」
「うん?そうだなあ、とりあえず実家に戻ってパンでも焼くかな」
問われた方はあっけらかんと笑う。
「継母やら継姉やら継子分やらが色々とぞろぞろ居るが、あやつらもそう根っこから悪いやつらでもないしな」
そう言って、先へ向けての笑みはもう何かを振り切ったように清々しいものがあった。
「でも、いずれはこの国を出る」
夏の明け方の遠い空のような、澄んだ瞳で
「魔法の修行をもっと積んで、・・・そうだな、冒険者になるのも悪くない」
夢を語る笑顔は、大人びて。
そして正面から向き合う。
「色々と迷惑をかけて済まなかった」
「そんな・・・、迷惑など何も」
セレストには、引き留める言葉が無い。このひとからこんな謝罪をされる謂れが無い。元はといえば心の求めるままに王太子妃という名でこのひとを拘束した、己の身勝手さに非が有ることだ。迷惑を被ったのは、むしろこのひとの方だろう。
「うん、でも・・・ありがとうな」
「・・・」
薬指から静かに抜き取られる銀の指輪をただ為す術もなく見守り、受け取る。手の平へわずかに触れる指先が切ない。
「貴殿は他の、誰かと、・・・幸せになるべきだ」
そしていつか言われた言葉を、もう一度聞くことになろうとは。
何よりセレストの幸福への願いが込められた言葉、けれど、それはこのひとも違う誰かと幸せになるということなのだろうか。
鳩尾に冷えた石を置かれたようだった。
でも、それがこのひとの一番の幸せとなるのなら。
この心を殺してでも、自分は。
押し黙ってしまった王子に対し、シンデレラは締め括りとなる笑顔を向ける。
「最後にひとつだけ、望みを聞いてくれるだろうか?」
「・・・何なりと」
「・・・目を、閉じてくれるか」
「・・・」
一瞬、迷った。目を閉じ、開けた時にはもう夢のように目の前から消えてしまう気がして。しかしそれに肯くしか彼に出来ることは最早なく。
「・・・はい」
目を閉じた王子へ、しなやかな腕が伸ばされる。風に奪われた花弁がその肩に当たって、しろい指に捕らえられた。
深紅の欠片を挟んだまま、それはセレストの後髪へと絡まり、引き寄せる。
つめたい風が気紛れのように、ふと止んだ。
風の残滓にざわめく梢、ゆるやかに時が止まる錯覚。そして、
「・・・さよならだ」
葉擦れに紛れそうな呟きと共に、与えられたのは柔らかな口付け。
「・・・!」
ふぁさり、と肩布が地に落ちた。
浅い眠りと、払暁の夢
薔薇の風に舞う蝶、残した燐粉
蜜金の軌跡
楽園の果実
“ 目覚めないで ”
哀しいまでに儚い柔らかさと、触れた箇所から伝えられる想いと。
再生される記憶は、かすかな檸檬。
切なげに触れて。
願望が見せる夢だと思っていた現。
その意味に 。
「・・・っん」
唇の合わせ目から漏れた声はどちらのものか。
いつしか深いものへ変わった口付けに、驚いたように硬直する身体をセレストは抱き締めた。押し退けようとする腕を許さず、片手で一巡り出来る細さの手首を引き掴んで頽れそうになる腰を支える。
「ちょ、と・・・待・・・っ」
啄ばむくちびるの隙間から弱々しい抗議が上がる。その声、舌先に触れる天鵞絨のような感触、鼻先から抜ける息でさえ、甘い。
まるで乾きを潤すようにして貪り、尚、物足りなさに名残惜しく離れると呼吸を上げる赭顔、驚きに留まっていたものがその片蒼からぽろりと零れ出た。子供のようにしゃくり上げる。
「何・・・、ど・・・っ、して・・・」
言いながら、額の上までもを赤くする様子を見て、王子は密かに息を吐いた。
自分達はどうやら、どうしようもない廻り道をしていたらしい。そのことに、やっと気が付いた。苦笑を以ってその朱頬を指で拭ってやる。
「貴方に、まだ言ってなかった事が有るんですが」
「な、何だ」
慈しむように触れる指が擽ったいのか少し顰められる碧眼を、至近から見詰める。
「貴方を、愛しているんです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
瞬時に点になってしまった瞳に苦笑が深くなる。流石に何度も言うのは面映ゆい。
「ですから」
「あ、いや、言わんでいい」
言われた方も更に赤くなる。
「し、知らなかった、が・・・、今の、でわかった、・・・と思う、けど」
しどろもどろである。
せめて最後に、と触れるだけのキスのつもりだったから逆に絡め取られて驚いた。もう何が何だかわからない。
「信じられん・・・」
呆然と呟くのに、セレストは破顔した。未だ抱いたままの腰を更に引き寄せる。
「でしたら、信じて頂けるまで何度でも」
近くなった笑顔へ、蒼眼が焦点を結ぶ。
「貴方を愛しています」
華やかに艶やかに染まる頬。しかしその色が先までの照れや羞恥とは若干違うものであることを、幸せな王子は気付いていない。
「あの・・・、あの、な」
漸くこの腕に抱くことの出来た大事なひと。彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、話しやすいように少し身体を離した王子は背筋を伸ばす。
「何でしょう?」
そうしてしなやかな腕が再び伸ばされ、五指をきれいに揃えた掌が
「そういう事は、」
ゆるり、と王子の頭上に高々と掲げられた。
「もっと早く言えっ!」
“そんなわけで”
「〜〜〜っ・・・す、スミマセン!・・・であの、離婚は考え直して頂けるんでしょうか?」
「む、そういえば僕の指輪は何処に行った?」
「え。ああっ!」
“二人は、”
「おお、有ったぞ。こんな処に落ちていたか」
「ああ良かった・・・っ、良かったです〜〜〜!」
「ん」
「はい?」
「・・・嵌めてくれ」
「・・・!」
“末永く幸せに暮らしました”
「ふふ、新婚のやりなおしだな」
「・・・そうですね」
おとぎ話の始まりに、相応しく。