飛燕の舞う午後だった。
遥か遠くまで単調に続く鳩羽色の雲の波は、ここと、まだ見ぬ世界とを確かに繋いでいる。そんな現実感に胸躍らせ空を見上げていた。
いつか自分もこの雲を追って、様々な冒険を繰り広げることとなるのだろう。海を渡り、野を行き、雪山の試練を超えて、世界の果てまで。
わくわくする。
憧憬を込めて見上げた眼鏡の端に、ぱし、と水滴が落ちて目を瞬かせた。乾いた石畳へみるみるうちに黒い点が増えていって、街の人々が小走りで屋内へと消えてゆく。
雲は薄い。街路樹の緑がやけに生き返ったような色彩を増して、この翆雨を恵みと受けて佇む。
その中の、一際枝振りの良い樹の元へ身を寄せた。新しい外出着が少し濡れてしまったけれど、この時期に降る雨は間もなく止む。上手くすれば、雲が切れて虹を見られるかもしれない。
濃い土の匂いが湧き立ち、植え込みの小粉團が雨の中で白く滲むように咲いていて、美しいなと思った。
こんなちいさな場面にさえ散りばめられた、世界の美しさ。”外”へ出ればどんなに沢山のものを見付けることが出来るだろう。勿論この世は美しいものばかりで占められているわけではないと、識ってはいるけれど。
雨に霞む緑、それを映す水溜、彼方で輝く雲峰の端。雨上がりまでは、まだもう少し。
ふいに今、この風景を彼に見せたいと思い当たり、密かな笑みを地へ落とした。
見付からないよう黙って抜け出して来た癖に、それでもふとした瞬間に共に居たいと思う気持ちに。
今頃彼はまた慌てて自分を探しているに違いない。城内を隈なく探し、どこにも居ないと知れば隊服のまま飛び出して走ってくる。傘もささずに。
城門からなだらかな坂道の続くこの場所までは、そう遠くはない。ここで待っていれば、程無くして会うことが叶うだろう。
そうして目を上げれば思い描いた通りの姿で、こちらへ駆けてくる彼の姿。本当に思った通り慌てふためいているのが見えたから、思わず吹き出して笑ってしまった。
軽く手を挙げてひらひらと振ってやると、遠目にもそうと判る僅かな憤りと、困却と、・・・あからさまにほっとした顔色を表に出す。その表情に免じて、ここで大人しく待っていてやろうと思う。
でも。
こちらに気を取られたのか、すれ違う人にぶつかって
待ってるだけじゃなくて。
ぺこぺこと頭を下げて謝っている姿が見えて
待ってるだけじゃ、なくて。
足を一歩、踏み出せば形を失う潦。改めてこちらを振り向いた彼が、ぎょっとしたように何か言ったようだけれど、雨音で聞こえない。
見る間に濡れてゆく服、額に張り付く髪、視界の悪さにも構わず彼の元へ駆け込むと思わぬ力強さで腕を掴まれ、近くの路地の軒下へ引っ張り込まれてしまった。
「・・・お風邪を召したら何となさいますか!」
「んー、あーすまんすまん」
開口一番の叱責を聞き流し、眼鏡を外して服の袖でこしこしと拭くと「反省くらいして下さい」と盛大な溜息を吐かれる。
色が変わる程に濡れた近衛の隊服、水を吸って伸びたような青い前髪、同じようにびしょ濡れになったのがお揃いのようで何だか嬉しくて、頬の骨格を伝う水滴を適当に手でぺたぺたと拭ってやると、目に見えてうろたえる。
「カナ、カナン様何を」
「だって、濡れてるし」
すると、まったくもうとか言いつつ制服の隠しから手巾を出してきた。
くい、と顎を持ち上げられて。
「んむ」
ぽふぽふと乾いた手巾で顔を拭われる。日向のような良い匂いがした。
「カナン様も濡れておいでですよ」
「む、む、・・・お前何で手巾なんて持っているんだ」
「嗜みです」
「もが」
さらりと言われた科白に自分だって城内に居る時は手巾くらい持っている、そう言おうとしたけれど口元を塞がれて反論は出来なかった。
彼の顔を拭った手指も逆に拭われ髪の上も軽く拭いてくれて、眼鏡までもをきゅこきゅこと磨いて返してくれる。
「どうぞ」
「むぅ・・・」
「何ですか」
「何でもない」
心の中で、次に外出する時は手巾を忘れずに、と書き留めておく。負けたような気分で面白くない。仏頂面で眼鏡を掛け直して見上げると、如何にも笑いを堪えたような顔とぶつかった。
「何だ」
「いいえ何でも」
また何か妙な事を考えているのだろう、胡乱な目で睨むと白々しく「雨止みませんねぇ」と視線を逸らしてあらぬ方向を見る。
「仕方ないな、止むまで雨宿りだ」
「・・・仕方ない、という感じの仰りようではありませんが?」
「解っているなら訊くな」
これが本当に仕方ないという事ですよと苦笑して、彼は曇天を仰いだ。
雨上がりまで、あと少し。
弱まった雨粒の間を割くようにして、燕がちちと啼いて飛ぶ。
植え込みを飾る雨滴、見つめる先、彼の髪にも。
いつしか雨は、霧のような細かさで街を包んでいた。雲の切れる気配がする。
指を搦めれば、同じ風景を見られる気がした。
虹が出るかもしれない。