静かに茶菓子を食んでいた目前の主君が突然「おお、」と言って立ち上がるので、セレストは驚いて給仕の手を止めた。
「どうかなさいましたか?」
立ち上がったまま、彼は目を瞬く。次の瞬間には「ふくくく」と、何とも楽しげな含み笑いを洩らすものだから、怪訝に思って傍へ寄った。
「カナン様?」
「この場面は何だか見たことがあるぞ、セレスト」
「はい?」
言っている意味を掴みかねて首を傾げるセレストに、「既視感というやつだ」とカナンは言う。
「ああ、以前夢で見たかもしれない、という?」
「そうだ。実際に夢で見たという例は少なかろうが、ある日常の一齣に於て以前経験したことが、見たことが有ると脳が勘違いを起こす現象だな。ちょっと小難しく言うと脳の記憶野に於ける、神経組織間の伝達障害だ。人それをデジャヴと言う」
はあたまにそんなことも有りますねえと、のほほんと肯く従者を王子は見遣り、
「そう、こうしてお茶を飲んでいて、お前が横に居て僕が立ち上がる。
・・・そうすると」
窓辺でふわりと膨れて揺れたカーテンへ、すい、と優雅にも見える仕草で指を差す。
「窓から風が」
続いて城内の柱時計が遠く、
「二時半の鐘が」
柔らかな音程で一度だけの時を告げた。
「そして」
いつの間にか間近にある蒼紺の瞳。ふちを仄かに染めたそれで見上げられ和らげられて。
「・・・どうなると思う?」
囁くような言葉に、どきりとした。
恐る恐る右手で頬に触れると、濃い睫毛を伏せて暖かそうに笑う。柔らかな掌と頬に挟まれる右手の温度だけが急速に上がる。
「・・・どうなるんでしょう?」
他に誰も聴くもののいない室内だというのに、小さく内緒話をするような会話が何故だか楽しい。容の整った指が伸びてきてセレストの前髪の一房を、ついと引く。
勢い引かれるまま、顔を寄せる。
傾げる首は、口付けの角度。たった今まで王子が含んでいた、ベルガモットの香が鼻準を掠めた。
唇を触れ合わせる直前に瞼を閉じたカナンが見せる、透明な表情。触れてしまったらもう、切なげに眉根を寄せたり、頬から首筋にかけてを紅く染めたりして見られなくなってしまうから、それは今この時だけの。
このひとは知らないだろう、その一瞬がどうしようもなく思考を狂わせるものであることを。
「あの、カナン様・・・」
限界の距離で発した問いは、今現在すべての状況を考慮した至極尤もな事だったけれど。
「・・・何だ」
「既視感、の通りに?」
職務上の抵抗を示したつもりだったけれど。
「・・・セレスト」
「はい」
情況的に、許可を求めるような表現に変わってしまった。
呆れたように、カナンは微笑う。今更だが、と付け加えて。
「野暮天」
・・・それは確かに、今に始まったことではないのだけれど。
これ以上の伝達障害は、手痛い手刀の元となることだろう。