「従者の日、なんだそうだ」
「は?」
突然言われて面食らった。
驚いて見返す主は椅子に踏ん反り返って、何かの紙をぢょきぢょきと鋏で切っている。
「だからな、今日」
「聞いた事がありません」
「僕もだ」
面食らったまま首を傾げると、カナンはあっさりとした同意を示して羽根ペンを引き寄せ、横長に切り終えた何かの紙へ小切手にサインをするが如くさらさらと文字を書いた。その一連の所作の、流れるようなこと。
「ほら」
「・・・何ですか?」
そうして渡された、何かの紙。綺麗なヒアシンスの色に未だ乾かないインクの色は紺。それでもって見事な手蹟でカナンの署名と共に“従者の日/特別優待券”と記されている。
「従者の日/特別優待券だ」
「そのまんまじゃないですか」
椅子に踏ん反り返ったまま、カナンはふふと微笑う。
「うむ、たまにはこんな趣向も良いじゃないか。要は今日に限り、何かひとつお前の願いをきいてやろうという、所謂”肩叩き券”のようなアレだな」
「・・・!そんな、畏れ多い」
「そう言うと思ったぞ。いらないのなら、誰か他の者にやれ。何もこの城に”従者”はお前一人だけではあるまい」
カナンは素っ気無くそう言って、呆れる程に分厚い本の栞を開いた。
「・・・」
両手でその券を押し頂いたまま、セレストは立ち尽くす。その向こうに文字を追って伏せられた金の睫、つまらなさそうに唇を閉じて、あからさまに文章を素通りした速度でぱらりと頁を繰る。
・・・流石に子供っぽいことをしたと、思っているらしい。そういった様子が更に稚くてセレストの笑みを誘うのだが。
「・・・何でも、私の言う事を聞いて下さるのですか?」
笑ってしまわないよう、注意して柔らかく問うてみる。少し驚いたように丸く上げられる蒼の眼に、視線を合わせて。
そうすると嬉しそうにぱあっと頬を紅潮させて、ぱむっとカナンは本を閉じた。
「うむうむ、何でも良いぞ。言ってみろ」
「そうですねえ・・・」
わくわくとこちらへ向き直る主君から、窓の外へとセレストは眼を転じた。初夏の風にざわざわと揺れる大木の影、剪定はとうとうしないままだから露台近くまで太い枝を伸ばし、今や王子の恰好の脱出ルートを確保している。
「ちなみに脱出するなというのは却下だ」
先手を取られて脱力してしまった。
「何故ですか」
「今日に限り、と僕は言った。ならば有効期限も今日が終わるまでの間だ」
「はあ」
気の抜けた相槌を打つ従者に、カナンはぷいぷいと人差指を振ってみせる。
「別にお前がそれで良いというのなら僕は構わないが。何しろそれは今日だけの事だから、明日以降に関してはその限りではない」
「な・・・っ」
何という、狡賢い規約のある優待券であることか。思わずまじまじと、そのヒアシンス色の紙切れを凝視する従者である。
そんな様子を見遣り、「そう小難しく考えることも無いだろう」とカナンは笑い含みの溜息と共に立ち上がった。
「まあ、お前が朴念仁なのはとうに承知していることだが」
更にぷいぷいと振っていた人差指の先を、従者の胸にずびしと突きつけた。
「もっと気の利いた“お願い”は出来無いのか?」
言われた方は、間近から見上げられる勝気な深い蒼にどきどきと狼狽するばかり。
「気が利くも何も・・・」
「では何でも良いから早く言え。今日は抜け出すなと、もうそれで良いぞ別に」
面倒になったのか、そう言ってカナンは投遣りに息を吐いた。
そもそもどうして従者の日とかそんな疑問は残るけれど、自分の手にある綺麗なチケット、使わず置くにはあまりにも勿体無い。
「えー、あー、」
「何だ」
「そ、そのう・・・」
「?」
これくらいなら、言っても許されるだろうか。
「あの、職務中なんですが・・・」
「うん?」
「さ、触っても良いでしょうか・・・」
「・・・」
みるみるうちにカナンの頬に朱がさして、呆れたように口を開けた。
「お前それ・・・」
「え、いえそのすみません」
やっぱり駄目かと改めて恥ずかしい従者へ、まあ良い来いと大様に肯いて王子は手招いた。
「は、あの」
「いーぞ、触れ」
やっぱり踏ん反り返って、偉そうに。
「えーと・・・」
こんな場面で触れと言われて手軽に触れる程、セレストにとってこの主君は容易い相手ではない。それでもつい言ってしまったからには。
「し、失礼、・・・します」
恐る恐る、手を伸ばした。
「うむ」
いつも無体が過ぎる度に引っ張る絹肌の頬。そっと手を這わせると、「最初に頬へ触れるのは癖か」と擽ったげに笑う。その笑みに安堵して、惹かれるように髪へと滑らせた。
すべらかな手触り、耳朶の冷たさと項の熱。指先に伝わる感触だけで、肌目の細かさがわかるほどの滑らかさ。
顎の下、細い骨格、親指で掠めるくちびるは花弁のよう。少し押すと、花芯を潰すように艶めかしく開く。
「・・・せれすと」
その発音で、舌先が指に触れた。
「はい」
思わぬ熱で、痛みを感じる程に鼓動が強い。
頤を捉えられたままに、カナンはその蒼碧で見上げてくる。少し潤みはしているものの、呆れたように微笑う色は相変らず其処に在った。
「お前、優待券を使わないと恋人にこうして触ることも出来ないのか?」