あと一回。
誰に教えられるでもなく、わかっていた。
「セレスト、セレスト」
「はい、何ですか?」
応える声も目も、いつも変わらない。同じだけの穏やかさと、同じだけの温度で向けられる。ずっと前から。
なのに、前より遠い気がするのは何故なんだろう?
ちいさな縞模様の卵から生まれてもう何箇月経ったのか、何度も新生を重ねてその度にぎゃーとかひーとかこのお人好しの青年を驚かせてきた。
少しずつ少しずつ、目線が高くなって。こういうのを、成長というのだろうと思う。セレストの掌に乗っていた大きさから今はもう、立ってちょっと見上げるだけでこんなに彼が近い。
・・・なのにどうして、笑顔で視線を逸らされるのだろう?
胸の痛みを悟られたくなくて、俯いた。
「今夜は、・・・“バイト”は休めないのか?」
「・・・」
俯くと繻子のような艶を見せて、金の前髪が蒼の双眼を隠してしまう。何より好きな色だったけれど、今はそれが見えないことが有り難い。カフスの釦を留めながら、セレストは殊更に軽く受け流した。
「夜の仕事を休んでしまうと、ごはんが食べられなくなってしまいますよ、カナン様」
そう言ってから、後悔した。生計の為に働くのは嘘ではないけれど、こんな言い方は卑怯だと思う。夜の仕事へ出向くのは、決してこのひとに知らしめたい訳なんかじゃなくて。
目を逸らしてもどうしても視界の端に留めてしまう、金色の光彩。今は少し大き目のパジャマに身を包んで、ベッドの脇に立ち項垂れている。
新しいパジャマの袖が長いのは、もう間もなくこのひとが新生する時期だからだ。それを見越してセレストが買ってきた。最初は掌に乗る程のちいさな卵から生まれたひと。ひとつきに一度、殻に篭って翌朝また生まれる。その度に・・・
「・・・もう、出掛けないと」
息を詰めて微笑みかけ、さあお休みくださいと寝台へ促した。軽く触れた背のなだらかな線、あんなに小さかったことが信じられないくらいにすらりと伸びて、それでも未だ弱く、庇護を必要としている存在。
外側からの圧迫に強い堅い卵の殻は、内側からならばいとも簡単に割れるという。ぱりぱりと乾いた音を立てて割れてゆく王子さまの卵、最初の5回程はぎゃーとかひーとか叫ぶほど驚いたものだったけれど、新生する度に少しずつ成長してゆく健やかな姿に、いつしかわくわくと見守るようになった。
・・・そしてその内、気付いてしまったのだ。
すくすくと伸びるその手足の、まっすぐでしなやかなことに。
その首筋の、白くて細いことに。
ふわふわと蒲公英の花弁のようだった髪が、知らない内に絹糸の艶めきを宿していたことに。
いとけない子供のものだった碧眼が、何時の間にか見蕩れる程のとろりとした深みを増していたことに。
まるで、小さかった蕾が鮮やかな色彩を振り撒いて花開くような、そんな成長を遂げたひとが涼やかな声で自分を呼ぶことに。
敢えて、それらに気付かぬふりでこれまでを過ごしてきた。その理由を問われたところでセレスト自身にもよく解らない。だが、次の新生が近付いてくるにつれ徐々に落ち着かなくなってきた。夜は特にまずい。
もうとっくに小さな水槽を卒業してしまったこのひとは、毎夜セレストのベッドで眠りにつく。もう一組寝具を買おうにも、日々糊口を凌ぐのに精一杯で、・・・だから必然、狭いベッドで寄り添うようにして一緒に眠ることになるのだが。
(・・・眠れるわけがないじゃないか・・・)
ふにゃふにゃと柔らかな、体温の高い生き物と共に眠るというのは、この上ない安らぎを得るものだと思われそうだがとんでもない。
まだ体長10センチの頃の方が、楽だった。寝台が狭い、という意味では勿論ない。
思わず耳を澄まして聞いてしまう寝息、真夜中に時折触れ絡む足先、夢でも見ているのか縋りついてくる細い指。小さく鼻を鳴らすような寝言を耳元に吹き込まれたのも、一度や二度ではない。
(・・・うわ)
思い返した耳朶が熱い。
・・・それに、何ともいえない良い匂いがするのだ、このひとは。
(〜〜〜っ)
これで安らかに眠れと言う方がどうかしている。
ばくばくと血を送り出す心の臓を懸命に宥めて、平静を装う。身が保たない。だから夜はこのひとを一人部屋に残し、働きに出ることにしたのだ。
夜の間中を店で働いて、明け方に店の控え室で仮眠を取る。間が保たなくて昼にも働く。ここ最近は、ずっとそんな生活が続いていた。流石に疲労が深くて少し辛くなってきたけれど、良好な精神衛生の為には仕方がないことだと思う。
いつまで続くのかは判らないけれど。
「・・・し、なら・・・」
「え?」
幾分げっそりと肩を落としていたら、ぽつと呟かれた言葉を聞き逃した。いつの間にか服の裾を掴まれていて。
「少しなら、ごはんも我慢する」
見上げられる蒼とまともに目が合い、しまった、と思った。
「カナン様・・・?」
「だから」
それはある意味、魔力のような引力を帯びて、セレストを惹き寄せる。目を逸らすことができない。
「だから、今夜はバイトを休め」
そんな魅惑的な科白を桜の唇が吐く。
「そ、・・・そういう訳には参りませ・・・」
口の中に湧いた空気をごくりと呑んで、セレストは弱々しい抵抗を試みた。そうすると、それだけで見詰める蒼がみるみるうちに薄くなり滲んで、溢れたものがころりとひとつ、零れ落ちる。
「!カ・・・」
「最後なのに」
ころりころりと零れる真珠のような粒。
「・・・カナン様?」
「明日・・・卵になるのはこれが最後なのに、出てきた時にお前が居ないなんて、あんまりだ」
「え、・・・そうなんですか?」
「そうなんだっ!馬鹿者!」
「だっ」
間が抜けた問い返しをするセレストの額に、カナンの手刀が命中した。目の前に火花が散る。
「僕を拾ったのはお前だろう!僕をここまで育てたのもお前だろう!なのに何故ここで捨てるような真似をする?そんなに嫌になったのなら、最初から拾わなければ良かったんだ!」
「ちが・・」
認識の違いに驚く。捨てた、と思われていたことに愕然とした。
「何が違う?昼は居ない、夜も居ない、居るのは僕に食料を持ってくる時だけ、そうやってそのうち来なくなるんだろう?僕のことが嫌だから?飼育に飽きたから?・・・それなら僕が此処を出て行く、此処はお前の部屋なのだから」
「カナン様!」
ぼろぼろと泣きながらの自身を切り付けるような物言いに、委細構わず抱き締めていた。知らずにこのひとをひどく傷つけてしまっていたことを後悔すると同時に、腕の中にある温もりに安堵した。動悸が激しくて少し苦しいけれど、いい匂いがする。ほっと息をつく。もっと早くにこうすれば良かった。
「違うんです・・・カナン様・・・」
「うー、離せ」
回された手でぎゅーぎゅーと服の背を引かれるけれど、離すつもりなんて、毛頭ない。
「飼育などと・・・そんな仰りようは哀しいです」
食べるために働いて、いつまで経っても貧しさは変わらないけれど。でも。
くたくたに疲れて帰って開けた扉の向こう、おかえりと言って嬉しげに笑うこのひとに、何度救われただろう。幾度幸せを貰ったことだろう。
洗いたてのシャツに皺が寄る。押し付けられたカナンの頬からまた新たな涙が滲んで染みを作った。
「最近、貴方と居ると・・・どきどきして、どうすれば良いのかわからなくなるんですだから、」
そして自分のこの想いは、どんな風にこのひとへ届くだろうか?
「だから・・・」
指に柔らかな金糸の髪、唇を寄せると思っていた通り、艶々として滑りが良い。
「・・・セレ」
そっと顔を上げさせて、流れた涙の跡へ口寄せた。むずかるように身動ぐ様子が愛しくて、より腕に力を込めて抱き締める。
「此処に、・・・一緒に居てください。・・・離したくないんです」
「・・・」
「カナン様・・・」
「・・・それは、刷り込みなのか?」
「・・・・・・は?」
これ以上ない想いを打ち明けた直後だっただけに、輪を掛けて間の抜けた声が出た。すっぽりと腕の中におさまるひと、いつしか涙は止まり、セレストの胸に縋るようにして見上げている。
「僕の刷り込みも、そんな状態になるぞ。どきどきして、どうしたら良いかわからなくて、むずむずする」
「むずむずですか」
「むずむずだ」
薄いパジャマの生地を通して柔肌の感触が伝わることに気付き、またセレストの顔に血がのぼる。しかし何だか無性に力が抜けて、苦笑が漏れた。
「・・・私もむずむずします」
笑ったり、見詰めたり、突然寄り添ってみたくなったり。甘酸っぱい感情がどこか擽ったい。
それはずっと、最初にこのひとが生まれてきた時から続いていた気持ち。
「む、そうか。同じだ」
ふふ、と楽しげに笑うひとをもう一度抱き寄せる。
明日、最後の新生が済んだら、今度はちゃんと気持ちをしっかりはっきり具体的にわかりやすくきちんと伝えようと思う。このひとの刷り込みからもう一歩、先へと想いを進める為に。
今夜はこうして、眠らずに夜を明かそう。明日また生まれるひとの、一番にその目に映す自分が、ちゃんと見詰め返して居られるように。
卵から生まれる世界の住人の言う『刷り込み』の意義が、実はこちらで言うところの所謂『一目惚れ』に相当することをセレストが知るのは、まだもう少し先の話。