街を歩くのが今日も楽しくて、少し予定の時間を過ぎていたようだ。
慌てて城へ戻る。外の樹をがさがさと攀じ登り露台から部屋へ戻ってふう、と一息ついたところでタイミング良く扉が叩かれた。午後2時丁度、セレストだろう。
しまった、外出着からまだ着替えていない。あーうーと応えを躊躇っていたら少し黙した後、「失礼しますっ」と勝手に扉を開けて入ってきた。
銀盆を片手にこちらの姿を見るなり、はーっと息まで青い溜息を吐く。
「また城下へおいでになってたんですか・・・」
「うむ。無事に帰ったぞ」
「それはそれは良うございましたが私が申し上げたいのは、無事のお戻りをお慶びする内容などではなく」
「ん」
近く寄って顔を上げ、目を閉じて頬を差し出す。薄い秋の光を感じる瞼の向こうで「な、何ですか?」と若干裏返った声がした。
「なんだ、教育的指導は無しか?」
進んで折檻を受けようという、この見上げた心掛けをどうしてくれる。
ぱっちり目を開けると引けていたらしい従者の腰が慌てて戻り、ぴしりと背筋を伸ばして一礼した。そして言う。
「ではお言葉に甘えて」
「ひたたたた」
「何度申し上げたにも拘わらずまた勝手に抜け出された罰ですせめて一言私に仰せになってからといっても全力でお留めさせて頂きますが」
ぎゅーむと頬を引っ張られ、一息に捲し立てられる。
「うーうー」
痛くはないが、比較的、痛い。
「それから!・・・っ」
「?」
唐突に途切れた叱咤説教に、引っ張られて伸びた顔のまま従者を見上げた。
「・・・、そう、容易く、人の前で御目を閉じたりなさらないで下さい」
そうぽつりと溢したセレストは何だか気まずげで、困ったように眉を寄せている。
「うう?」
意味がよくわからなくて唸ると、苦笑いと共にもう一方の頬も軽くむにっと捻られ、「はいおしまい」と解放された。
「お茶に致しましょう、カナン様」
「ん?うむ。着替える」
よくわからないまま終わってしまった。いつもあと3分くらいはがみがみと降る説教が今日は無かったなと、多少物足りない思いで脱いだ上着をセレストに渡す。少し肌寒かったが手早く綿布を縫ったシャツまで脱いでしまうと、さりげなくセレストが視線を逸らすのが見てとれた。目のふちがわずかに赤い。
代わりに手渡された城内服を着込みながら、おかしなやつだと思う。幼い頃からずっと一緒に居て、その時から着替えさせて貰っていたし、風呂に入る時も世話をしてくれていた。何を今更、恥ずかしがることがある。
そう思ってふと、もしこれが逆の立場ならとの考えに至り、途端にかあっと全身に血が廻った。
首筋の線を繋ぐ、広い肩の幅。無駄な肉付きの無い、きれいな腕、背中。この掌に返してくるそれらの感触が、まざまざと思い出される。
(な、なるほど・・・そういう事か)
かかかと頬を熱くしながら、心の中で従者に詫びた。何を考えている助平馬鹿者、とはお互い様なので更に心の中に仕舞っておく。
そして紋章を襟元に付けながら、こっそりと先程の様子を脳裏で置き換えてみた。
・・・もしも相手が瞼を閉ざしていたなら。
(ふむ)
とりあえず鼻を抓んでみたり、その穴を紙縒りで擽ってみたりは必須だろう。いつもされているお返しに、頬を抓ってやるのも面白い。
ふくく、と漏れ出た笑いを慌てて手で押さえた。
「カナン様?どうされました」
「いや、何でもない」
怪訝そうに声を掛けてくるセレストにそう言って、彼の引いてくれた椅子に腰掛ける。
「・・・また何か怪しいことを考えてらっしゃるんじゃないでしょうね」
「ん?ん〜・・・、・・・ふふ」
目の前でこぽこぽと注がれる紅茶。呑気に上がる白い湯気とは裏腹に、愉快な想像は止まらない。
前髪をリボンで結んでやったり、眉間を指で摘んでもっと皺深くしてみたり。閉じた瞼の上に目玉を描いてみたり(これは本気でやってみたい)。
散々遊んで、それから最後に。
(・・・)
煎れたての紅茶を含みながら、焼菓子を皿に取り分けているセレストを横目で窺う。先程のあれは、やはりそういう意味だったのだろうか。
自分なら、きっとそうする。彼もそうだと、少し嬉しいかもしれない。
また、頬の熱さが戻ってきた。熱い紅茶の所為だと思いたい。
試してみても良いが、瞼に目玉を描かれるのは嫌だ(他人にやってこそ、面白い)。しかし固より、セレストはそういった事柄を楽しむ性癖の持ち主ではない。鼻くらいは抓まれるかもしれないが。
(・・・気になるじゃないか)
むう、と一息唸ると「・・・ど、どうかなさいましたか?」と半分引いた状態で、セレストが菓子皿を置いた。
「セレスト」こいこい、と手指で呼び寄せて。
「・・・はい・・・?」
「ん」
恐る恐る傍に来た彼へ向けて、目を閉じて顔を上げた。
「・・・っ」
抓まれるのを覚悟して、むぎゅっと鼻に皺が寄る。
いちかばちか、という気分。
間髪入れず、鼻を抓まれる。案の定だ。予想通りの展開とはいえ、些かがっかりする。
「 試さないで下さいよ」
その囁きは、聞こえるか聞こえないかの低いもの。
それと同時に唇を塞ぐ、暖かいもの。
驚いた拍子に椅子がかたんと鳴るが、眼は、開けなかった。