訓練場へ移動する近衛の一団、とある隊員がセレストに向かってふと一方を示した。
「副隊長、・・・あれは、カナン様では」
「あ゛」
見ればこの時間、部屋に居て然るべき王子が遠く、てくてくと歩いて城外へと向かっている。またうまく抜け出したのだろう、思わず落ちたセレストの肩を、同僚の一人がぽんと叩いた。
「・・・ま、頑張ってな」
「・・・」
その笑い含みの声音には、毎度主君に出し抜かれては狼狽え慌てる羽目に陥るセレストの様子を、露骨に面白がっている響きが含まれていた。恨めしげに見返すセレストを置いて、ぞろぞろと隊員たちは移動して去って行く。去り際次々に「副隊長、ファイトです」「早く行かないと見失うぞー」「あんまりきつく叱るなよ」「そうですよー」などと言い、更にセレストの肩を落とさせた。
ふ、と息を吐いてがりがりと後頭部を掻き、気分の転換を図る。
見た限り、今日のカナンはお忍びに出る時の服装ではなかった。という事は、城下町に行くつもりではないという事なのだろう。何処か、近場かそれとも。
「・・・裏山かな?」
あまり、危険の及ばない処であれば良いのだけれど。
そう呟いて、セレストは密かに王子の後を追い始めた。
頭ごなしに叱りつけて有無を言わさず連れ戻す、何故かそうするのが躊躇われたのだ。同僚たちに釘を刺されてしまった所為もあるし、セレストの予想通り、人の目に触れることのない王家所有の土地である裏山へカナンの足が向いていた所為でもある。何より。
大事そうに何かを両手に包んで歩くカナンの様子が、柔らかくて。
楽しそうだったから。
セレストとてそんなカナンを見ておきながら、何もかもを阻止して外界から遮断して籠に閉じ込めるような、それ程に野暮ではない。王子たる者が供も連れず独りで出歩くことには良い顔は出来ない、その事に対しては当然小言のひとつやふたつは言わせて貰う。だがそれは後だ。
何か為したい事が有るのならばそれを見守り、彼の人が本当に困った時に手助けが出来るよう、傍に居るのが従者の役目。危険が及ぶようならその時に留める、見極めるのは護衛としての役目である。
あともうひとつ有るが、それは今は考えないことにした。まずは追う。
空にはぽかりと浮いた厚い雲が太陽を切れ切れに隠し、放射状にその光を散らして静かに流れていた。光源に透け輝く雲の端がどこか、細い絹糸で丁寧に編まれた飾りレエスのようで、風に形を崩されるのが何だか勿体無いように思われた。その、同じ光の色を時折きらきらと靡かせながらカナンはさくさくと歩いて行く。白地に濃藍の縁取りを施されたいつもの長衣に、白い羽毛のケープを軽く羽織っている姿が、まるで冬の小鳥のようだ。見失わないよう、きらきらを見詰めながら少し離れて付いてくるセレストには、まったく気付いていないらしい。
何処まで行くのか、そろそろ城からも離れすぎではないか、声を掛けて引き留めた方が良いのではないか、そうセレストが逡巡し始めた頃、漸くカナンは立ち止まり、冬空に眩しく聳える立木の前で手に持っていたものを取り出した。
(・・・蜜柑・・・?)
冷えた緩い風に乗り、ふわっと柑橘の香が距離を取って立ち止まったセレストへも届く。恐らくは、刃物でふたつに割られてから持ち出された橙色の果実。それをカナンは背伸びをして立木の枝の先へひとつずつ、くいくいと固定するように刺した。蜜柑の果皮がうまく枝に刺さらないのか、慣れない手付きに見ているこちらまではらはらとしてしまう。案の定、伸び上がり過ぎたのかぐらりと傾いだ不器用な姿に、セレストは思わず一歩、足を踏み出していた。
ぱき、と足元で枯れた小枝が鳴る。
危うい所で踏み止まり、上げられた蒼の双眸と目が合う。
間をおかずにすいと上げられる指。
花弁の口唇に添えられた人差指の意味は問うまでもない。「静かに」、だ。
ふうと冬風が柑橘の香を運ぶ。
緩やかに流れる金糸。
僅かに細められた蒼玉の瞳。
滑らかな肌に薄く滲む、朱華の頬。
淡く笑まれた口元に視線を絡め取られたまま、動けない。
其処へ、ちいさな影が降ってきた。
「・・・!」
ちりちりと鈴を振るような囀りと共に、翡翠色の羽ばたきがカナンの周りを彩る。光の裾から零れるように舞い降りた宝石のような小鳥たち、甘い果汁を吸い、ぴりぴりと機敏な動きで枝を渡り、一羽が静かに動かないカナンの頭に留まりその髪を戯れに啄ばんだ。一房を引かれた擽ったげな笑顔が、セレストだけにそっと向けられる。その肩へ更にもう一羽、二羽。
冬木立、そこには呉須色の雲の千切れ目から幾筋もの光が細く降り潅いでいた。舞う翠の羽根と、冬風にきらきらと弄られる金糸。軽く翻る羽毛の白いケープ。
(・・・う、・・・わ・・・)
強い鼓動と眩暈のするような感動。
思いもかけず見ることの出来た、言葉に出来ないその光景にセレストは息を呑んでいた。吹く風の冷たさに、頬の熱りを知る。見る者を魅了するのは外見の美しさだけではなく、その仕種表情に表れる内面の豊かさだ。
不思議なひとだ。どうしてこんなに、綺麗なひとなんだろう。どうしてこんなに、こちらの気持ちを素直にさせるのだろう。考えずにはいられない。あとひとつ、・・・否、役目などではなく。
このひとと共に同じ風景を見、同じ気持ちを共有して、過ごしていきたいと。狂おしいほどにそう願う。
どうしてだろう、何故だかひどく胸が痛くて。
その痛みは瞬く間に過ぎるこの一時を、惜しむ想いに似ている。あと一歩、踏み出して傍に行きたいのに行けない、そんなもどかしさにも似ている。
時なんて、止まってしまえば良いのに。
己の思考に埋没して立ち尽くすしかないセレストへ向けて、風が巻く。風向きが変わった、その途端。
「ぷしっ」
ちいさなくしゃみの音に驚いて一斉に翠の羽音が散り、
「あ」
散々に光る雲の彼方へと消えていった。
あっという間に元の静けさを取り戻した雑木の端に立ち、カナンが無念そうに洟を啜る。
「・・・ううむ、しまった」
そして、こちらを向き「鼻がむずむずしてつい」と恥ずかしそうに言った。
其処に佇むのは光の残滓を纏わりつかせながらも、普段と変わらない風情、ひとときの魔法が解けたように風に吹かれる少年の姿。寒さを感じていないかのように細い頚筋を晒し、そして軽く肩を竦めた。
「・・・怒るか?」
黙って抜け出して来たことを。
何を言ってもいつもの一捻りした応えを返してくるのだろう、悪びれもせず飄々と問うてくるのにただ苦笑して、両腕を広げるとさくさくと駆け寄って来て嬉しそうに「皆には内緒だぞ」と言った。
どこか、ほっとしたような感情がセレストには心地よく、同時に切なくもある。
手袋を取って、冷たく染まった指に絡ませる。温みを与えて凍えを受ける。せめて同じ温度になるまで、そう願わずにはいられなかった。
「次にいらっしゃる時は、私も誘ってください」
「うむ」
それだけを遣り取りして、セレストはカナンを促して踵を返した。
風と雲で構成された空は変わらず静かに動き、その風に攪拌された白く照る光で辺りは満ちている。吐く息も凍る寒気の中、城へと続く小径をさくさくと辿る。
「なあ、あの中の一羽がどんくさくてよく食いっぱぐれてて実はセレストという名前なんだが」
「・・・それはどういう意味ですか」
左の手に、白い小鳥をとまらせて。
不思議と寒さは感じなかった。