セレスト・アーヴィングは朴念仁である。
通常の生活を営むにあたって当て嵌まることではない。実際、男にしてはまめに気が付きすぎる程に気が付くし、他者に対してはいっそ腰が低い程に礼儀正しく愛想も良い。しかし、事が恋愛となると朴念の極みにある。と代々そう多くはないかつて恋愛の対象だった人物たちと、数多い親しい人物たちの証言がある。
鈍いわけではない。彼だって人並みに心をときめかせることだってあるし、人並み以上に相手を大事にする性質でもあるし、下世話な話、性欲もちゃんとあるからそれなりの恋愛経験は積んで生きてきた。そう表立って騒ぎになる程ではないが、密かに静かにもてていたりもする。彼の隣、という地位を夢見る乙女やお姉さんは、実は一人や二人や三人ではないらしい・・・というのが専らの噂だ。お兄さんもいるかもしれないが、差し当たって今は例の赤いヒト一人を除き、後は未確認の情報である。
にもかかわらずその尽くが潰え、朴念仁というある意味気の毒な三文字の称号を冠されることになった原因が、ただひとつだけ存在する。彼の恋愛遍歴、まあ平たく言えば彼とオツキアイしていて後にすぱっとフッた人物は、皆口を揃えてこう言うのだ。
「だって、王子さまには逆立ちしたって敵わないじゃない」と。
要はセレストにとっては主君である第二王子が一番なのである。不器用なのだ。主君と恋人、両方均等に心を砕くことが出来ない。それが彼を朴念仁たらしめる根源であることは間違いがない。
何せかの王子がこの世に生を受けてからずっと傍に居り、幼馴染、遊び相手から従者、兼護衛と役目を微妙に変えながら関わってきたから、それはもうそんじょそこらで結べる絆ではないのだ。セレストにとっては何を置いても優先するべき人物だから、せっかく彼女が出来ても恋人イベントなんて端から頭に無いし、デイトの約束が反故になることなど茶飯事、久しぶりの休みに会って話すことといえばカナン様カナン様、常時これでは一体何を思って自分と付き合っとるんじゃこの男は、そう思われても仕方のないところだろう。張り合おうにも相手は一国の王子である。いくらセレストが顔良く性格良く収入も良く、前途も明るい近衛勤務だとしても普通は退く。退きまくりである。
ふっ、とセレストは息を吐いた。たった今まで縋るようにして肩に指を立てていた華奢な手が、散る花のようにぱたりと落ちる。容の整った爪の先が、仄かに赤い。無理に力を込めるから、と何だか憐れに思えてそっと掬い上げた。
「・・・痛みますか?」
指を絡めて撫で擦ると、懸命に息を整えていたひとがゆるりとその薄い目蓋を開く。光を散らすようにして僅かに首を振った。
「ん、・・・へいき、だ」
こんな様子の、こんな姿の第二王子を、セレストは今でも信じられない心持ちで見下ろしている。
幼馴染、遊び相手から従者、兼護衛、・・・おまけについ最近、新たな関係へ発展してしまった。ずっと大切に見守っていた筈の、未だ子供だと思っていたひとのはじめてを貰ってしまった上に、思っていたよりこのひとが子供ではないことを知ってしまった。唇の味、吐息の温度、滑らかな体躯の匂い、・・・それから知らない間に遥か遠くを見ていた瞳。実際触れなければ知りもしなかっただろう、このひとの心の中。
まずいな、と思った時には遅かった。只でさえ自分の中を占める割合の大きかったひとが、中枢を支配してしまった。惹きこまれるようにして恋におちた。
どうしよう、といつも思う。触れる度にそう思う。
どうすればこのひとにとって一番良いように時間は進むのだろうか。こんな、抱き合って想いを刷り込むようにして己をぶつけて、本当に良かったのだろうか。好きなのに、それが息をしていない気がする。本当は見ているだけで満たされていたものを、このひとの眼をこちらへ向けたことで汚してしまった気がする。
けれどもう後戻りは出来ない、理性の後悔は少しあるけれど恋の愉悦がそれを上回る。
この朴念仁が、恋愛をしてこのかた未だ嘗て無いほどの懊悩である。こんなに悩んだことは正直今までになかった。
一番大事だったひとが、一番大事なひとになった、それだけの事なのに。朴念仁返上どころか、こんな苦さを含んだ甘さを味わう羽目になろうとは、思いもよらなかったのだ。
「セレスト」
乞われて、ゆっくりと唇を重ねる。謝罪のような口吻けを交す。少し力を回復した両の腕が上がり、戯れのように髪をかき混ぜられるのが心地よい。せめて同じ、否それ以上の悦楽を返したいと、崩れ散る理性の端で咽喉の輪郭を辿った。
「ン・・・っ、・・・な、にを、考えてる・・・?」
「・・・ぇ・・・?」
掠れた声での疑問に、微かな問いでの応えを返す。途端、ぎゅう、と頭ごと肌に抱き締められた。
「か、カナン様・・・?」
「何か、変なこと考えてるだろう、お前」
「えっ・・・?あの・・・っ」
狼狽えて、手の平に触れるカナンの肌が柔い。先程よりも湿度を増した肌目の細かさが、赤子の腹のような弾力を返す。
「こんな時に、・・・っ僕以外の事を考えるな」
意図せず脇腹にあたったセレストの手に息を飲みつつも、カナンは言う。
「カナン様」
「色々難しく考えすぎなんだ、お前は・・・っ」
「私は、・・・何も」
眩暈がする程つよく近いカナンの香りに意識を持って行かれそうになるのを漸う踏みとどまり、セレストは埋めさせられていた胸元から顔を上げた。
「・・・カナン様、の事しか、・・・考えてません」
それは本当にそうだったから何故こんな事を言われるのか、困ったように言い募る恋人にカナンの眉が寄る。
「それが駄目だと言ってるんだ、この朴念仁め」
「・・・?」
矛盾した言い様に、セレストは困惑する。更にはまた朴念仁と言われてしまった。他の誰に言われるより、このひとに言われるのが一番効く。
朴念仁、朴念仁、と頭の中での輪唱に目を回しているセレストをよそに、むう、とカナンは唇を尖らせた。
「・・・まあこれも性分だから、今すぐに改善するのは無理だろうがな。
まずは、手始めに・・・、セレスト」
「は、はい」
未だもって意義を掴みかねるセレストにもう一度カナンは腕を伸ばし、引き倒すようにして口吻けを誘った。
「簡単なことだ・・・ちゃんと"僕を"、見てろ」
理性を保って言う通りにするのは少し、難しかった。