神保家の系譜

神保家の系譜

文章 神保 道雄

(神保 輝雄 父)

第一部 祖先

第二部 江戸期の神保家

第三部 祖父 周助

第四部 父 周一

神保家家紋「抱き鷹の羽」


第一部 祖先  わが家は神保助右衛門をもってはじまる。  越中守山城(現高岡市)の城主に神保氏張がいる。 能登國守護大名畠山氏重の次男といわれている。 はじめ上杉謙信に従ったが、のち織田信長に通じ、佐々成政の臣となった。 成政が肥後國に移ったとき、これに従い、國人一揆と戦ったという。 成政の改易自殺後、浪人したが、その子孫は徳川氏に仕えた。 蛇足だが、氏張の子孫は現在、茨城県で農産物の加工業を営んでいる (北日本新聞による)。  助右衛門は氏張が肥後國へ移ったとき、これと別れ、山田(現黒部市)へ移り、その地 の肝煎(キモイリ)役となった。 助右衛門と氏張の関係は、はっきりしないが、助右衛門はおそらく氏張の一族だったので はなからうか。 とすれば、神保家の遠祖は畠山家ということが考へられる。 あるいは、越中守護代神保氏の一族かもしれない。
第二部 江戸期の神保家  助右衛門は山田の肝煎役となった。  亨保の時代に嫡子庄助が山廻組のち十村の才許に抜擢された。 その後四代目 庄左衛門の時に大布施組十村(現黒部市全部と魚津市生地町の一部)の 才許となり、五代庄助 六代祐三郎とつづいた。  また、天明三年から寛政一二年まで宿場町三日市(現黒部市)で本陣をつとめた。 さらに六代祐三郎(のち助左衛門)は加賀藩の命により加賀國石川郡河北郡の 惣年寄となり、金沢市へ移住した。 七代、八代と大布施組を才許し、明治をむかえたのである。  ところで、我が家の本家(七兵衛)が分家となった時期は明確でない。 だが、次表の家系図から、多分、五代庄助か六代助左衛門の時代に、三男が分家したので はないかと思う。代々七兵衛と名乗り、三百石の地主である。 家系図(総本家)    次の表は黒部市在住の郷土史研究家がしたためた家系図で大泉寺の住職からもらった ものである。  家系図(三)とあるから、総本家、筆頭分家につぐものであると考へられる

第三部 周助  周助は神保嘉七郎の次男として生まれた。 神保家は三百石の地主であったので、分家の時に二十石の地所をわけあたえられた という。 生来楽天的な性格だが、又同時に一旗あげようという思いも強かったらしい。 新天地を築こうと北海道へ渡ったが、一、二年で挫折し、故郷山田へまい戻った。 その後、山田でハタ織りの工場をつくり、近在の婦女を集めて絹布を生産した。 たまたま第一次大戦が始まり、無類の大好況となった。 いわゆる「ガチャ千センガチャ萬マン景気」である。 周助は生地町魚津町までも人力車をとばし、紅燈のちまたで大盡(タイジン)遊びを していたらしい。 三百石の地主の坊ちゃんだし、どちらかというとおだてに乗り易い性格なので、 無理からぬことである。  だが、第一次世界大戦の終結とともに、今度は未曾有の不景気に襲われた。 残ったものは多大な借財のみである。 周助は借金取りの攻勢にたまらず、妻子を残して、唯一人東京へと逃げてしまった。 田畑家屋もなくなり、一家は途方にくれただろう。  妻ふさは、実家関口家へ戻った。 ちなみに関口家は代々の土建業で魚津市では屈指の資産家である。 周一の従兄弟は、魚津商工会議所会頭、市会議長、富山県議員などの要職を つとめている。 富山県長者番付によれば、昭和五十年前後幾年も父子で一億円ていどの収入が あった。 東京へ行った周助は料理屋などに住み込んで生活していたが、東京大空襲のさい 山田の本家へ戻った。 昭和二十二年長男周一をたより高岡へ来た。 まさに菊池寛の「父帰る」である。 その後高陵町の事務所で一人生活していたが、昭和三十四年三月亡くなった。 享年八十二才であった。 亡くなる前日少し風邪気味とはいへ、自転車に乗ってパチンコするほど元気だった。 その日の朝もきちんと正座し、御膳の上には湯気のあがったごはん、味噌汁がならべて あった。 死の直前まで元気だったらしい。 波乱にみちた人生である。  妻ふさは昭和八年高岡へ来、長男周一の借家へ身をよせた。 だが、長男周一・その妻・孫との生活はわずか一年有余で亡くなった。 享年五十二才である。  周助・ふさのあいだには八人の子供がいたが、うち三人は幼児のときに亡くなる。  次男忠二は、生地の呉服屋川端家の一人娘と結婚養子縁組みし、川端家の援助で 東京の専門学校を卒業、富山県庁農林部の技師となった。 その後生地町の大火で川端家が消失すると、満州へわたり満鉄へ勤務した。 昭和十九年吉林の近くで吹雪にみまわれ殉死した。  三男清三は小学校卒業とともに大阪の衣料品問屋「べにや」へ丁稚として働くが、 長男周一がコンクリート製品製造業を始めるとその仕事に従事した。 昭和十七年、志浦礼子と結婚、高岡市桐木町に一家をかまえたが、十八年応召となり 十九年フィリピン戦場への輸送中に輸送船が撃沈され戦死した。  四男は肺結核となり若くして死亡、長女は魚津市の大工と結婚一児をもうけたが まもなく死亡。結局周一だけが長寿をまっとうした。

第四部 周一  周一は周助の長男として山田に生まれた。  三日市農学校(現桜井高校)を卒業、黒部川電力(現北陸電力)に勤めていたが、 母の実家関口家の富裕にあこがれ土木の世界で立身しようと考へた。 東京の私立東京工科専門学校土木部夜間課程に進んだ。 もとより苦学である。 昼間は土工や上野公園の牛乳売り、ゆで卵売りなどで学資と生活費をかせいだという。 無理がたたって肋膜を患った。 だがめでたく卒業し、富山県庁土木部技師となる。  砺波地方の県道(現国道一五六号線)の改修工事のため出町(現砺波市)の鍋島宅に 下宿し、その家の六女ミユキと結婚し高岡市東下関で新居をかまえた。  その後も向上心に燃ゆる周一は役人生活のなかでも何か良い事業はないかと絶えず 考えていたらしい。 当時コンクリート管はほとんど新潟県柏崎市の藤村コンクリート工業所から移入されて いるのをみて、これを県内で製造したら儲かるのではないかと考へた。  遂に昭和十二年高岡市大野(現高陵町)に借地し、コンクリート管の製造をはじめ、 中越式鉄筋コンクリート管と名付けた。 幸い、県庁時代の技師の顔が役にたち、富山県土木部、県内各市町村の土木部にて 藤村式コンクリート管を圧倒し、ほとんど一手販売になったという。  わずか創業二年ほどで桜馬場通りで住宅を購入、その後間もなく弟清三のため桐木町 で一戸を新築したのだから、けっこう儲かっていたらしい。  だが、四、五年で太平洋戦争が勃発、セメントも統制下にはいり従業員もほとんど 応召され全くの休業状態となる。  その後近くで代用ゴムの工場を建てたが許可がおりず失敗した。  昭和十九年富山県工業試験場の委託をうけ魚津市で日本カーバイト魚津工場の廃土を 原料とした代用耐火煉瓦を製造した。 一部出荷したが冬の到来とともに寒さで煉瓦はみんなポロポロと壊れ、廃業した。  その後、関口組を手伝っているうちに終戦となり、一ヵ月後高岡へ戻った。  戦後四年ほどたってコンクリート業を再開した。 昭和三十六年に大門町土合に新工場を建設、昭和四十年頃には従業員六十五人を数える ほどとなる。 又昭和三十八年、四十二年と高岡市市会議員をつとめた。 平成二年七月、前日まで元気だったが未明呼吸不全で亡くなった。 享年八十五才である。 妻ミユキも周一の死後わずか四ヵ月で後を追うように亡くなる。享年七十九才であった。  また、ミユキの実家鍋島家には作蔵、よきの間に一男六女がいる。  長女は高岡随一の美妓とうたわれ、絵姿にもなったという。米沢家へ後妻にはいり、 その後芸者の置屋の内儀オカミをつとめた。  次女は氷見光禅寺住職安孫子耕王に嫁したが早くに死亡、三女も中田家に嫁ぎ二男一女 を残して死亡した。  四女は小矢部市水野家に嫁ぎ、肥料を販売、その後染物の行商などをしていた。  五女ふみは姉の死亡後、光禅寺住職安孫子耕王の後妻に入るが、住職は長女喜多枝が 女学校一年の時に亡くなったので寺を出る。 その後女手一つで苦労しながら子供を育てた。 苦労の甲斐あって長男素雄は「ドラエモン」、「オバケのQ太郎」などで著名な 漫画家藤子不二雄(A)となり晩年は優雅にくらした。  長男作蔵は新聞社に勤務。その後富山新聞社長となった。また、太守庵の名で絵や 随筆をかいた。 晩年京都へ移住、その地で亡くなった。  以上が神保家の系譜である。 尚、一部「祖先」、二部「江戸期の神保家」は角川書店発行「富山県の姓」に 主としてよったものである。
 追記 司馬遼太郎「風塵抄」によれば 『「何兵衛」とか「何左(右)衛門」は本来朝廷の官職の呼称である。  官職を得ていないのにそういう名を名乗るのは僭越である。  従ってそういう名をつけてはならない。』 というおふれが明治初年に出たとある。 従って、右衛門という名は神保氏張のもとではかなり高い地位についていたものだろう。 事実江戸期各藩には、右(左)衛門という名の首席あるいは次席家老が多い。 助右衛門は氏張の重臣だったに違いない。 その観点からすれば助右衛門は氏張の一族的色彩は非常に色濃いものと言はざるをえない。