【 犬の言い分 】


だいたいが、あいつの臭いが気にいらんかったわけですわ。
まあそれがきっかけでしょな。
ワシら犬族の嗅覚力は人間の3,000倍から10,000倍といわれとります。
さらに特定のにおい(脂肪酸等の臭い)やったら、人間の100万倍以上という話も
あるんでっせ。どうです、ごつっ凄いと思いませんか。しかしながら、人間の言葉には
臭いを表現するボキャブラリーが極端に少なすぎるんですわ。試しに臭いを表す形容詞
をあげてみると、「芳(かんば)しい」に「焦げ臭い」…、
ほら、もう後が続きまへんやろ。
色を表す言葉はいっぱいありますけど、ワシら犬族は色盲やから意味あらへんです。
そやから臭いのことをきちんと伝えるんはまあ無理ちゅうもんでんな。
そこんとこ分かっといてな。

あいつが放っていた臭い、何ちゅうか「犬族の癇に障る臭い」とでも言うんですか。
嗅いでるだけで何やシランがいらいらしてくるっちゅうやつでしたわ。
絶対、あいつはこれまでヨソでも随分と犬にからまれとるはずです。
あれを嗅げばちょっと気の強い雄の犬ならまあ間違いなく吠えるでしょな。

その日はいつものようにご主人さんの車に乗せられて港の方まで来てたんですわ。
ナニ「ご主人さん」なんていうようなそんな上等な男と違ゃうやろて。
まあワシもそう思わんでもないけど、ワシにも立場ちゅうもんがありまんがな。
忠誠、これが犬族の大義でっせ。まさか薄汚れたうちのおっさんと呼ぶわけにも
いきませんやろ。
ともかく、ワシはいつもの港に来てたちゅうことです。
港ではワシは放し飼いです。首輪はしていますが綱はついてはおりまへん。
ワシは自由、自由なのです。港はワシの縄張りです。自由の上に縄張りとくれば
することは決まっております。ワシは気持ち良くクソをたれておったのでした。

あれもやっぱし自転車と言いまんのか、普段見てる中学生やら高校生やらが乗っ
てんのんとはえらい違ったケッタイな形してましたわ。そいつを壁に立て掛けて、
あいつは歩道の段差に座り、煙草を吸ってっておった、これがあいつとのファー
ストコンタクト、第一種接近遭遇ちゅうやつでしたわ。

あいつの臭いに気付いたワシは遠巻きながら警戒の吠え声を出しました。
「ここはワシのシマじゃ。このヨソもんが、鬱陶しいんじゃ。ボケ。」
吠えながらもワシは時折止まっては片足を上げてクソをたれました。
ポロポロ、ポロポロ。ああめっちゃ気持ちいいー。
あいつはそんなワシに非難がましい視線を浴びせかけておりました。
何でも都会ちゅうとこではワシら犬の糞は飼い主が拾って処分することになっとる
らしいですな。そやけどうちのおっさん、もといご主人さんはそんな手間のかかる
こと一回もしたことありまへんで。それどころかワシが家でクソをたれるとめっちゃ
めちゃ怒りよるんですわ。
「家でババする奴がおるかい。外でせんかい。どあほが。」
そやからワシの行為は極めて正当なもので、責められる筋合いは一個もありませんわ。

そうこうしているうちに、あいつはそのヘンチクリンな自転車に乗って港を出ていこ
うとしたんですわ。その姿ちゅうか臭いになんか邪悪ものを感じたワシは、猛然と
ダッシュして追いかけました。自慢じゃありませんがワシの身体能力は半端じゃなく
高いんですわ。あいつは追いかけてきたワシを見てスピードを上げてかわそうと
しよった。しかしワシの方が速い。あっという間にワシはあいつの横を並んで走って
おりました。

あいつに追いついたワシは吠えました。さっきの吠え声が警戒だとすると
今回のは威嚇攻撃宣言ですわ。
「おんどりゃー、しばくー。どつくー。叩っコロスー。」
そうすると、なんとあいつも吠えました。
「ぶぅわぁどぅー、ぐわぁー、どぅだー」
何を言うてんのか意味は不明でしたわ。ただあいつにしてみれば気迫の一吠えだった
んでしょうな。
またも自慢やありませんが、ワシの気性はもう相当荒いんですわ。
ワシの住んでいるあたりでは頻繁に熊が出よるんです。あいつの吠え声ごときで
ビビルようなそんなヤワな性格では、とてもやないけどやっていかれしません。
確かに犬に向かって吠える人間ちゅうのは珍しいことは珍しいけども、まあそんだけの
話ですわ。

ようやくあいつは吠えかえしても無駄だと気付いたようで、今度は首にかけていた
タオルを振り回し始めました。もちろんそんなこともワシにとっては全くの無駄
です。そんなんでワシが怯んだり、ビビッたりするもんですかいな。
ワシは人間界のことはよーわからんのですが、それにしてもあいつの性格には問題が
あるような気ぃしますわ。ものごとを解決すんのに、あまりにも直接的にことにあた
りすぎる。気にいらんことがあったら、後先のことやら周りの迷惑やらも考えずに
正面からぶつかっていきよる。もしあいつが勤め人やったとしたら、まあ絶対に出世
せぇへんタイプでっしゃろ。

タオルを振り回すことでスピードの落ちたあいつの正面にワシはおどりでました。
そのワシをかわそうとしたのか、それともタオルを振り回して不安定だったのか。
グラグラグラ、ガッシャン、ズズズー。
あいつは体の左側を下にして思いっきりこけました。最後のズズズーというのは
あいつのヘルメットが地面を擦る音ですわ。

あいつは体の左側を思い切り打ち付け、身動きできないようでした。
思わず吠えるのを中止したワシの耳に後輪のカラカラ回る音が聞こえてきました。
こけたあいつの左足はサンダルごとペダルに固定されたままでした。
どうもペダルとサンダルに噛み合わせの仕組みがあって、咄嗟にはそれが外れん
かったみたいでしたわ。そのことがあいつのダメージをよりいっそう深いものに
したようでした。

しばらくすると港の先の方から一台の軽トラックが、とことことことこと近づいて
きました。いいや違ゃいますって、うちのおっさんやありません。
釣りをしとった人のようです。車を降りた釣り人はあいつに話しかけました。
「にいちゃん、大丈夫か?」
あいつは「うぐ」とか「ぐぐ」とか言ってしばらく倒れ込んだままでしたわ。
2、3分経った頃でしょうか、ようやくあいつは上半身を起こし、左足をペダルから
外そうとしました。ところがペダルとの噛み合わせがきついらしく、うまく外れない
様子です。あいつは仕方なくサンダルをペダルにつけたまま、足の方をサンダルから
外しました。ワシの目にはペダルにくっついたまま揺れているサンダルがなんや知ら
ん滑稽に、それでいてもの悲しく見えました。

あいつは左足裸足のまま、どうにか立ち上がり、体のダメージの具合を確かめはじめ
ました。あいつがまあとにかく動けることを確かめた釣り人は一旦港の方へ引き返し
うちのおっさん、もといご主人さんを連れて戻ってきはりました。

ご主人さん、もというちのおっさんが開口一番言った言葉は飼い犬のワシでさえ耳を
疑うもんでしたわ。
「おまえが犬にちょっかい出すのが悪いんじゃ。」
あいつの目が急にトカゲ目へと変貌し、おっさんを睨み付けました。
ワシがさっき感じた邪悪な気配はこれだったんでしょな。ワシはまた吠え始めました。
「あほんだら、犬が勝手に追いかけてきたんやろが。」
「何言うか、お前がタオル振り回しとったん見てたんやぞ。」
冷静に考えればタオル振り回しとったんを見てたんなら、こけてるのも見てるはず
ですわ。それでもすぐに駆けつけないちゅうのは問題だと思うんですが。
トカゲ目大王に変貌したあいつは、おそらくそんなことにも気ぃついてなかったん
でしょな。
「このヘルメットの傷見てみぃ。これ被っとらんかった死んでたかもしれへんで」
「そんなん関係ないわ」

あいつはうちのおっさんの頭の先からつま先まで、値踏みをするようにジローと
見渡したあげく、ケッと言いました。うちのおっさんの服装はどちらかというと
キレイではない、ちゅうか、はっきり言うと小汚いもんですわ。

そして地獄の底から響くような声であいつは言いました。
「もういいから、お前すぐに目の前から消えろ。犬連れてさっさとどっか行け。」


以上がワシの目ぇで見たあの日の話ですわ。

そんであいつの怪我のほうはどうなりましたぁ?
ナニ、どうにか羅臼の街まで辿り着いたものの、病院で時間外診察すると左手薬指
先端骨折。左肩打撲。旅行中止。翌日実家の富山のほうへ飛行機で帰省。
お盆の時期よく飛行機取れましたな?
ナニ、実家に電話をかけて、休日の妹にインターネットで調べさせた。帰省とは
逆の方向だから空いていたようだと。
そんであのケッタイな自転車のほうは?
宿屋から着払い日時指定で福生へと宅急便。
自転車のダメージはその後乗っていないので不明。見る限りフレームは大丈夫そう。

もうあいつとは一生会うことないと思いますけど、最後に一言いうときますわ。

「悪いのはワシやない。あいつの臭いなんや。」


神保のホームへ