Jinbo went to Jinbo

歴史スペシャル旅行記番外編 神保神保に行くの巻


【きっかけ1】
6月から米軍横田基地で英会話を始めた。
US Air Forceに所属する飛行機整備士のMr.Jamesが私の先生である。
毎週金曜の8時から1時間、私は横田基地の中にある彼の住まいに
ホームステイし英会話を学んでいる。
学んでいるなどと書いたがその実体はというと、Mr.Jamesと単なる世間話を
しているにすぎない。彼は割と知的好奇心が旺盛な方で、日本の歴史など
にも興味がある様子だ。
だが私の方はといえば、さして歴史に詳しいわけでもない。
最初の授業の時「漢字はいつごろ日本に伝わったのか」という彼の質問に
「たぶん7世紀頃だ」とあまりにもテキトーに答えるハメとなる。
これではイカンと思った私は本屋に行き、高校の日本史の資料集
(写真や図がいっぱい載っている)を購入した。
以来Mr.Jamesが日本の歴史について聞いてきたときは、この資料集を
使い答えている。

【きっかけ2】
この資料集をめくっていくと、戦国大名の時代の地図というのが
出てくる。越中の国は「神保氏張」(資料集には神保良春とあるが
氏張の誤植と思われる)が統治している。
以前私は父親の書いた「神保家の系譜」という文章をパソコンを
使って清書した。あくまで文章を書いたのは父親である。
せっかく文章がデジタル化されたので、私の個人ホームページに
張り付けてある。この文章のなかで父親は我が神保家の
祖先はこの氏張と関係があるのではないかと書いている。
インターネットを使って、この鎌倉・室町時代の神保氏に関して
調べてみることにした。

【神保家の逆系譜】
父親の書いた文章を引用する。
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 わが家は神保助右衛門をもってはじまる。

 越中守山城(現高岡市)の城主に神保氏張がいる。
能登國守護大名畠山氏重の次男といわれている。
はじめ上杉謙信に従ったが、のち織田信長に通じ、佐々成政の臣となった。
成政が肥後國に移ったとき、これに従い、國人一揆と戦ったという。
成政の改易自殺後、浪人したが、その子孫は徳川氏に仕えた。

 助右衛門は氏張が肥後國へ移ったとき、これと別れ、山田
(現黒部市)へ移り、その地の肝煎(キモイリ)役となった。
助右衛門と氏張の関係は、はっきりしないが、助右衛門は
おそらく氏張の一族だったのではなからうか。
とすれば、神保家の遠祖は畠山家ということが考へられる。
あるいは、越中守護代神保氏の一族かもしれない。」
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話を簡単にするため書き直す。

私を含めた現神保家の祖先は神保助右衛門という人らしい。
この助右衛門を総本家とし、神保家の系譜を私から
祖先の方へと逆に辿っていく。

1.現神保家<神保周助>  明治
2.本家  <神保七兵衛> 江戸期
3.総本家 <神保助右衛門>戦国〜江戸初期

ここまではつながっているらしい。

「助右衛門はおそらく氏張の一族だったのではなからうか」
「あるいは、越中守護代神保氏の一族かもしれない。」
と父親は書いている。要するにここからは想像である。
なお父親の文章では畠山家からの養子である神保氏張と
越中守護代神保家とを区別している様子がうかがえる。

ここで私の立場を明確にしておく。
「とりあえずすべての神保氏はつながっていることにする。」
大胆かつ完璧な理論である。

インターネットの情報によると、神保氏張が本当は畠山氏の実子では
ないのではという説もあるらしい。
しかしこの理論の前にはそんなことは問題ない。
またそれ以前の歴史でも、守護代神保家は盛衰を繰り返しており、
どういうつながりなのか分からない時期が何度かあるらしい。
しかしまたこの理論の前にはそんなことは問題ないのである。
すべて単なる「神保つながり」押し通すのだ。

【ルーツ】
インターネットから拾った情報を引用する。
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(越中)神保氏
守護被官
居城:越中国富山城 
 上野国多胡郡辛科郷神保邑を名字の地とするといわれている。
また、系譜についても『寛政重修諸家譜』によっても神保長誠以前の
ことははっきりせず、氏も惟宗・平・橘などの諸説があるが、一般に
は惟宗姓とされる。
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上野国多胡郡辛科郷神保邑は、現在の群馬県多野郡吉井町神保に
あたる。現在も神保という地名が残っているようだ。
場所をと行き方を調べる。
八高線で高崎まで行き、そこから上信鉄道で西へ(下仁田方面)5駅。
吉井で下車する。

【行動】
さて現代に生きる神保の末裔、出来は悪いが行動は早い。
7月16日、東福生駅、折り畳み自転車Bromptonを担いで、八高線に
飛び乗った。梅雨明け宣言はまだ出ていなかったが、カンカン照りの強烈な
晴れである。
ところが乗った電車が悪かった。列車の車掌に聞くと高麗川(こまがわ)駅で
高崎行きの連絡が1時間以上もあるという。車掌から高麗川までの切符を購入。
乗車した東福生駅は半無人駅(ごくたまに駅員がいる)なのだ。
高麗川(こまがわ)駅で電車を降りた。名前の示すとおりここは古くからの
渡来人の土地。駅の前で自転車を組み立てていると、韓国語らしき言葉が
聞こえてくる。

さて駅のまわりに一服できるような店はないかと探すが、感じの良さそうな
店は見あたらない。折り畳み自転車Bromptonで街をまわっているうちに
北へと走り出してしまっていた。実に久しぶりの自転車ツーリングである。
道は若干の上り基調であるが快調に自転車を飛ばしていく。

毛呂(もろ)を過ぎ越生(おごせ)、ここらで飯屋を探すことにした。
しかしやはりピンとくる店が見あたらない。コンビニでおにぎりを購入。
駅前の雑貨八百屋で桃を一個購入。指で皮をむき丸のままじゅるじゅると
頬張る。

越生駅から再び八高線へと乗り込む。
こういうときに折り畳み自転車Bromptonは気軽でよい。
八高線の列車は一見ディーゼル車とは思えないようなきれいな電車。
北へと進んでいく。

【上信鉄道】
高崎駅で上信鉄道に乗り換え。
またも乗り換え時間があるので、コーヒースタンドでホットドッグと
アイスコーヒー。とにかく暑い。末裔は食って飲んでばかりである。

上信鉄道の切符売り場。
吉井までわずか5駅なのに540円もの料金。一瞬目を疑うが間違いない。
おそらくこのローカル地鉄はそれでも大赤字なのだろう。渋々支払う。

2両編成ワンマン列車。無人駅では列車最前部のドアしか開かない。
西へと進む。濃い緑の山間が車窓に広がってくる。のどかな景色だ。
ほどなく吉井駅到着。木造の鄙びた駅舎。
一人しかいない駅員が自転車を組み立てる私を珍しそうに見ている。

【吉井町郷土博物館】
吉井駅から南へと向かう。商店街というにはあまりにも小規模な街。
コンビニやスーパーなども見あたらない。
駅近くの吉井町郷土博物館へ。公民館のような小さな建物。
受付で記帳する。中にいるのはおじさんとおねえさん。
私の他に客はまったくいない。おじさんはパンフレットを渡し
二階の展示室の明かりを点けてくれた。

一階展示室を見て回る。
主な展示物は、江戸時代吉井藩のもの、特産品火打ち石関連のもの、
剣術馬庭流関連のものと神保関連はほとんどない。
ささっと見て二階展示室へと進む。

二階展示室へ上がる階段。
石仏の白黒写真のパネルが並んでいる。神保古墳群の文字。
これも神保出土、あれも神保出土。
石仏のお顔はどれも素朴でやさしい感じ。
よく見るとたしかにお地蔵様ではなく観音様であったりする。
7,8世紀くらいのものらしい。

二階には大きな壺のレプリカ。神保との関係は不明だ。
その他には古墳出土品。神保出土が多い。

小さな博物館。すぐに全部を見てしまう。
一階へ降りていくとおじさんが話しかけてきた。
「どこから来られた?」
「福生から」
「何を見に来られた?」
「私の名前は神保という。ここが私の名字の発祥地らしい。」
おじさんは私が記帳したノートをのぞき込み言った
「ほぉー神保輝雄さんか、ココの土地にも全く同じのジンボ
 テルオさんがおられるぞ。」

【博物館おじさんの説明】
おじさんは一階展示室パノラマ地図のところへと私を案内した。
立体的な地図に豆電球が仕込んであり、その地名が書かれたスイッチを
押すと対応する場所が点灯する、−−博物館にありがちなあの仕掛けである。
おじさんは目を凝らして地名の書かれたスイッチを探しながら
私に色々説明をしてくれた。以下に要約する。

今もなおたくさんの神保家がこの地に存在しているらしい。
この地では神保は「じんぼ」と短く読み、「じんぼう」と伸ばしては
読まないようだ。これは私の名字の読み方と同じである。
またこの地は、他の家系でも名字発祥の地として知られているらしい。
おじさんは「小串」という名字もこの地が発祥の地だと言っていた。
そういえば小学校の時に小串さんという同級生がいたことを思い出す。
帰ってきてから調べた。昔以下の名前の村があったということだ。
多比良村 馬庭村 川内村 深沢村 小棚村 塩村 黒熊村
長根村 東谷村 小暮村 岩井村 小串村 矢田村 上日野村
下日野村 大沢村 神保村 石神村 高村 中島村 片山村
本郷村 塩川村 上池村 下池村

ところが、そんな名字発祥の地にもかかわらず、ここは一族の入れ替わりの
激しい土地であったという。なぜならここは戦略的軍事拠点であったからだ。
確かに地図で見てみると広大な関東平野の果てるところ、信州、甲州、
越後から攻めてくるとすれば、ここを押さえておけばかなり有利に戦える
だろう。多くの支配者がこの地を治め、衰退し、また去っていった。

そんな中、多くの神保家がこの地に留まったのは一族そしてこの土地
の神社として辛科(からしな)神社があったからだとおじさんは言う。
「神様を放り出しては逃げて行かれない」おじさんは言った。
やはり神保という名字は神社、神様に関係があったのか。

【神保を行く】
博物館でもらった地図を見ながら南へと進む。
国道を横切る。正面に上信越高速道路が東西に走っている。
「下神保」と書かれたバス停を発見。
カメラを取り出し記念撮影をしようとしたが、鞄にカメラが
入っていない。がーん。家に忘れてきた。

高速道路手前で仁叟寺に立ち寄る。この地の神保家の菩提寺らしい。
境内に大きなかやの木が生えていた。とりあえず拝んでおく。

高速道路手前に辛科神社の看板を発見。西へと右折。
道はだんだんと狭くなり、ただの農道のようになる。
すぐ左、南側には高速道路を車が飛ばしていくのが見える。
こちらはのんびりと平行する農道を自転車で進んでいく。
高低差はさほどでもないが、道のアップダウンは多い。
なるほど丘陵地、古墳地帯なわけね。
あれれ、だんだん道が細くなってきたぞ。
本当にこんなところに神社などあるんだろうかと思い始めた頃、
私の目が半分葉っぱに隠れた小さな案内板を発見した。
まわりを樹木に取り囲まれるようにして辛科神社はあった。
寄り道全く無し、一発でたどり着いたのはやはりここの神さんの
御加護のおかげだろうか。

【辛科神社】
まずは辛科神社についてインターネット吉井町ホームページから引用する。
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■渡来人の創建『辛科神社』
群馬県多野郡吉井町神保宮西甲435
大宝年間(701〜703)に甘良郡韓級郷に居住した渡来人に
よって創建されたといわれ、非常に古い歴史を誇ります。
江戸時代には神楽殿が建立(1791年)され、この頃京都か
ら太々神楽が伝えられました。
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お賽銭をいれ、拝む。
うーむ、神保1300年の歴史。

カメラを忘れたので実目で観察。
実際に行ってみる前までは、立派で巨大な社を想像していたのだが、
実にこぢんまりとした社であった。私が行ったときは神社には誰も
いなかった。神社正面の戸は開け放たれ、中にパイプ椅子が何脚か
並べてあった。何かのご祈祷お祓いの準備だろうか。
不用心にも思えるが、この地ではここの神様にいたずらをしようなど
という不届きものはいないのであろう。そう考えれば開放的である。
開放的といえば、鳥居のある南正面以外は神社とそれ以外の土地との区別も
はっきりしない。まわりにぼうぼうと樹木が生えていて、なんとなく神社を
取り囲んでいる。

全体として必要以上に手を加えて、キンキラキンにした様子はまるでない。
大事にはされているようだが、古いものは古くあればよいではないかとの
考え方だろうか。このあたりは自主独立個性を重んじる私の性格とも
合致している。悪くいえば放任主義なのだが。

社の壁にはなにか木彫がある。すいぶんと古いものようだ。
正面にいる狛犬のお顔は犬というよりは狐にちかい。
ほっそりとした顔立ちをしている。このあたり半島渡来の影響
だろうか。

神社に納められている石版や柱には寄贈神保なにがしと
彫られているものが多く見られる。地元神保家の方々に違いない。
越中神保の末裔がこの神社を訪れたのは何年ぶりのことなのだろうか。

辛科の「から」は、韓の国(からのくに)が転じたものだろう。
「神」というのは渡来人そのものを表すという説がある。
また昔読んだ本によれば「神保」というのは「神封(じんぶう)」から
由来しており、渡来人を封じる防人のようなものではないかとあった。
ところが、ここで見た事実は全くの逆。
素直に神保は「神を保つ」であったようだ。
素直に祝サッカーワールドカップ日韓同時開催なのである。

【帰路】
前に書いたとおり、ここは関東平野の果てるところ、東の方角以外は
どちらを向いても山である。牛伏山を上ってみたが、Bromptonでは
少々無理がある。登坂にはあまり向いている自転車ではないのだ。
国道254号線を通り、藤岡市へと。
夕刻午後5時前八高線群馬藤岡駅で自転車を畳んだ。

【英会話】
次の週の金曜日。横田基地のMr.Jamesのマンション。
「神保さん、週末何をして過ごしましたか?」
Mr.Jamesとの英会話はたいがいこの話題から入っていく。

「群馬県に行って来た。そこには神保というファミリーネームの
 発祥地があるのだ。そこには1300年前に建てられたシントー神社が
 あり、そこが私の家のルーツなのだ」
「おお1300年前、It's a cool.」
私のつたない英語の説明にもMr.Jamesは熱心に耳を傾け、
「It's a cool.」を連発してくれる。
考えてみればアメリカ人はたった200年ほどの歴史しか持っていない。
その上、多くのアメリカ人たちはそれさえうやむやになっているのだ。

この日の英会話はかなり話が弾んだ。
期待以上にMr.Jamesからウケを取った私は大満足だった。

今度Mr.Jamesにしてやろうと思っている話がある。
「実はうちの先祖をさらにさかのぼっていくと秦の始皇帝なんだ。」
BC300年くらいだから、さらに1000年さかのぼる。
Mr.Jamesはさらに言ってくれるはずだ。
「It's a cool.」

<参考としたURL>
http://www7.wind.ne.jp/yoshii/
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/4541/
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