◇児童文化学への模索 ―児童文化財研究からの脱却をめざして―

          川勝泰介

・「児童文化とは何か」からのスタート
 一般に「児童文化」と聞くと、たいていはさまざまな児童文化財といわれるものを思い描くに違いない。私自身も、児童文化とはそういうものだと思っていた。卒論の題目を決める時に、とにかく児童文化に関連したものにしようと考えていた私は、それゆえに、さまざまな児童文化財の中から絵本をとりあげ、絵本と子どもとのかかわりを歴史的にながめてみることに決めたのだった。
 ところが、ゼミ発表の際に、絵本そのものではなく、「児童文化」とは何かという質問がなされて、それに対してうまく答えられずに困惑したことを記憶している。というのも、今まで「児童文化」ということばが、私自身の中では何の疑問を抱かれることなく使われ続けて来たからである。
 それ以来、これまで自明のこととして使ってきた「児童文化」ということばの意味を改めて考えるようになり、結局、大学院ではその「児童文化とは何か」をそのまま研究テーマにしたのだった。
 そもそも児童文化関係者は、さまざまな児童文化財に直接関わる人々か、それらを通して子どもに関わる人々が多いのだろうが、案外、最初から「児童文化」ということを意識していた人は少ないのではないだろうか。なぜなら、とりたてて「児童文化」と言わなくても、児童文学や絵本やマンガ、紙芝居、人形劇、といったように個々のジャンルやメディアの名称を使えば、それで事足りるからである。
 それでは、なぜ「児童文化」なのか。そこにこだわることに、ひょっとして「児童文化」の持つ意味があるのではないか、と私は考えた。
 しかしながら、各種の児童文化財に関してはそこそこ文献や資料もあるが、「児童文化とは何か」を探る手がかりは、意外と乏しい。そこで、いわゆる「児童文化」と名の付く文献を手当たり次第探すことから始めることにしたのだが、入手しやすいものはほとんどが大学のテキスト類か概論書にすぎなかったし、本当に求めていたものは戦前のものが多く、限られた時間内では入手が極めて困難であった。それゆえに、限られた資料の中で、まさに暗中模索の状態から私の研究はスタートした。
・「児童文化」をめぐるあいまいさと混乱
 「児童文化」という用語の定義に関しては、概論書には一応述べられている。また、一説によると波多野完治が生みだしたことばだとも言われ、1930年代に一般化したことばであるというのが従来の定説である。だが、これも確たる証拠はない。なぜなら、その波多野自身も、「創始したことになっている」と述べているに過ぎないからだ。
 そこで、「児童文化とは何か」を考える以前に、まずこれまでの定説の検証も含めてとりかかる必要性があった。
 もともと流行語的に使われたとも言われる「児童文化」ということばは、それ自身に関してもずいぶんあいまいな点が多い。例えば、「児童文化」と言ったとき、〈子どもの文化〉なのか〈子どものための文化〉なのか、〈子どものつくった文化〉なのかということすら明確ではない。多くは、菅忠道や滑川道夫の定義を引用するのだが、その際にも、広狭二義があることが紹介されたり、滑川のようにつくり手の立場からみて、〈おとなをつくり手とする場合〉と〈子どもがつくり手となる場合〉の二種類があると述べられたりもする。文化の担い手となる主体が〈おとな〉であったり〈子ども〉であったりして、それが「児童文化」であると言われても、正直なところ判然としない。同様に、当たり前に使われてきた「児童文化財」ということばに関しても、その内容を見る限りでは〈おとなが子どものためにつくって与える文化〉が圧倒的に多いのだが、中には〈子ども自身がつくり手となるもの〉を含むともされる。研究を進めるうち、結局、このように「児童文化」ということばそのものがかなりあいまいなのだということだけが明確になったのである。
 このように極めてあいまいなまま使われ続けてきた「児童文化」に加えて、近年新たに登場してきたのが、「子どもの文化」や「子どもと文化」、「子ども文化」ということばである。
 言うまでもなく、「子どもの文化」は本誌の誌名でもあるが、これに関しては戦前の雑誌『生活学校』において戸塚廉が発刊予告だけを出した雑誌名も『子供の文化』であった。また、「子どもと文化」は古田足日が使い始めたことばであるが、余談ながら、1979年から1980年にかけて刊行されていた雑誌に『こどもと文化』というものもあった。
 これらの中で、近年最も多く使われるようになったのが「子ども文化」である。これは、そもそも1960年代に藤本浩之輔が使い始めたものだが、その後、1980年代に入って、子どもの生活における文化的危機が叫ばれる頃から、教育社会学や文化人類学の世界を中心に急速に広まった。
 「子ども文化」とは、「子どもたちが主体的につくりだし、彼らの間に分有され、伝達されている生活のし方」であるとされ、おとなを主たるつくり手とする「児童文化」とは異なるというのが藤本のとらえ方であったが、やがてそのような定義とは別に、「児童文化」の言い換えとしても使われ始めるようにもなり、子どもにかかわる文化の用語をめぐる混乱はますます激しくなっていく。
・「児童文化」が持つ意味の再確認
 「子ども文化」が徐々に幅を利かすようになって以来、用語の混用はますますひどくなるとともに、辞典などで「児童文化」はおとなをつくり手とする〈おとなの文化〉であるといった解説が目立ってきたため、私はそれに対して大きな危機感を抱くと同時に、はたして、本当に「児童文化」は〈おとなの文化〉と言いきっていいのかということを再確認することの必要性を感じだしたのである。
 周知のように、「児童文化」ということばが普及したとされる1930年代は、金融恐慌から満州事変を経て、第二次世界大戦へとひた走る時代であったが、1942年の少国民文化協会発足に象徴されるように、児童文化はその対象である子どもたちをおとなから見ていかに良くするかのための手段であったといっていい。そのため、どうしても教育的に価値のあるものをいかにつくり出し、子どもたちに与えるかが児童文化研究の第一の目的であった。例えば、松葉重庸がしばしば用いた「恵与児童文化財」ということばなどは、その象徴的なものであろう。
 おとなの価値観を基準にして子どものためにつくり出されたものが圧倒的に多くなった現実をとらえて、藤本は児童文化を〈おとなの文化〉ととらえたのだが、こうしたおとなから子どもへの方向性を持つ従来の「児童文化」に疑問を感じた人々が、子どもがその主体になるという「子ども文化」の発想に共感したのも無理はない。しかし、本当に「児童文化」は〈おとながつくり手となる文化〉なのだろうかという私の素朴な疑問は、依然として解消されなかった。
 子どもにかかわる文化にとって華々しい動きが展開された大正期は、雑誌『赤い鳥』を中心にしていわゆる児童文化運動が開花した時代である。その背景には、新教育運動や児童中心主義の教育思想があり、大正期は「文化」ということばそのものがさかんに使われ始めた時代でもあった。童心主義の『赤い鳥』は多分におとなのつくりあげた子どものための文化ではあったが、この時期、用語としての「児童文化」が使われていたという発見は未だされていない。そのため、『赤い鳥』の主体がおとなだったからといって、「児童文化」が〈おとなの文化〉であったという理由にはならない。
 たまたま私が見つけることになった峰地光重著『文化中心綴方新教授法』が、現在のところ「児童文化」の初出らしいとされているが、峰地自身は、必ずしも今日のような意味で「児童文化」ということばを用いていたわけではない。だが、この中で、彼は「児童の文化は児童自身の創造する所である」として、子ども自身がその担い手であることを明確に述べている。このことから結論を急ぐのは早計だと言われるかも知れないが、少なくとも児童中心主義思想の影響の下、「児童文化」ということばが使われ始めた頃には、その主体を子ども自身にあるととらえていたとすることを誤りだとは言えないだろう。
 もともとこのように子どもを主体とする発想から出たものであっても、実際の子どもたちの価値観は、自分たちがおとなになった〈将来〉を基準にするのではなく、〈現在〉の楽しさを基準にするため、子どもたちはどうしてもおとなが望ましいと考える方向には向かわない。そこで、子どもの将来を考え、その教育的価値から判断して、おとなが児童文化に直接関わる度合いを深めるようになったに違いない。
 こうして、結果的に、児童文化はおとなをつくり手とするものが大半を占めるようになってしまったのであり、「子ども文化」の提唱は、子どもが文化の担い手でなくなっていくことへの危惧のみならず、おとなを中心にした児童文化へのアンチテーゼでもあったのである。
・児童文化の発想とは
 これまでの児童文化論を振り返ったとき、その大半がいわゆる個々の児童文化財を中心にしたものであり、そしておとなから子どもへという方向性の強いものであった。それは、同時に、児童文化と子どもの教育が強く結びつけられた結果であり、また児童文化財そのものが多分に教材(教化材)的性格を担わされてきたことによるのだろう。そのため、児童文化論は、いかに子どもを良くするかという発想を基本的に持ち続けてきたと言えよう。
 このような従来の児童文化論とは異なるところから、新たに「児童文化」をとらえ直す必要性があるのではないかと考え続けてきた私は、「児童文化」の成立過程を探るうちに、個々の児童文化財を個別に取り上げるのではなくて、それらを包括的にとらえようとするところに「児童文化」の本来の意味があるのではないかということを強く思うようになった。
 例えば、1930年代に至るまでに登場してきたさまざまなメディアが大きな意味を持つ。すなわち、文化産業として成立し、大衆化した大正期の新聞・出版・映画とレコードといったものがそれであり、さらに昭和期に普及したラジオとそれがもたらす情報の数々である。とりわけ、戦前のラジオと戦後のテレビに代表されるマス・メディアは、個々の領域を橋渡しするメディアとして大きな役割を担ってきた。菅忠道は、一つのメディアから他のメディアへ影響を及ぼすようすを「児童文化の立体化現象」と称したが、これこそ児童文化でなければとらえきれないものだと言えるだろう。この点に関して、波多野完治もかつて「日本のいわゆる児童文化関係もの―子どものための童画、童謡、読物、映画、紙芝居等―がみんな孤立している。しかし、受取る側は一人なので、これはどうしても全部関連して考えていかなければならない」(雑誌『教育』117、1960)と述べている。ここに、子どものための種々の文化を子どもの側からトータルにとらえる発想がみられる。児童文化はまさにこの発想から生まれたのだろう。ところが、従来の児童文化論は、このようなトータルな視野からとらえるという発想が希薄で、ただ個々の児童文化財を寄せ集めただけで終始してきたのだった。
・児童文化学のめざすところ
 マス・メディアを媒介にして、情報が飛び交い、おとなや子どもに限定されないモノがあふれているボーダーレスといわれる今日の情報化社会では、〈おとなだけのモノ〉や〈子ども用のモノ〉はもはや成り立ち得なくなりつつあると言ってもいい。子どもには〈子どもらしさ〉を求めようとする考えを否定する気持ちはないが、児童文化研究の対象としては、おとなの考える理想の子ども像を基準にして、その価値の有無・高低を議論するのではなく、現実の子どもの姿を文化とのかかわりでとらえることが必要なのではないだろうか。
 かつての児童文化は、波多野も述べているように、現実の子どもの生活の貧困さをいかに改善するかという「児童の近代化のための文化」(同上)であった。子どもを俗悪・野蛮な文化から守るというおとなとしての姿勢は必要であっても、しかし、それを盾にして子どもたちの生活に最も身近なものまで奪ってしまった過去があるのも児童文化の実態ではなかったか。
 情報が垂れ流されていると言っても良いに等しい現代社会、同時に多様化、複雑化し、単純にはとらえきれなくなった今日では、子どもをとりまく文化の問題を、もはや禁止・統制あるいは推薦・奨励の対象としてのみとらえるよりも、むしろ、子どもという存在をより理解するための研究領域としてとらえることが急務ではないだろうか。
 私は、そこで、これまでの規範的な児童文化論や個別領域的な児童文化財論ではなく、子どもの生活と文化とのかかわりをトータルな視点からとらえようとするものとして「児童文化学」を提唱したい。ここには、もはや何がよいとか悪いとかの判断基準はない。実際の子どもの生活が、彼らをとりまく文化とともにいかにあるかということを探り出そうとするのである。ここでは、おとなが子どものためにつくり出される文化もそうでない文化も、同列に扱われる。また、これまでは除外されてきた衣食住にかかわるものも、当然、対象としなければならないと考えている。
 このように、これまでの児童文化財を中心としたものではなく、子どもを軸に、子どもとモノとのかかわり方、子どもの生活のあり方、さらにおとなから子どもへのかかわり方とそれへの子どもの反応など、子どもの理解のためにこれらの研究は行われるのである。
 こうした児童文化学の構想は、まだまだ不十分であろうが、そこで今後の研究のあり方を討議するためにも、かつて古田足日氏が提唱された児童文化学会の早期実現を図りたいものである。

(子どもの文化研究所 研究誌『別冊 子どもの文化』2号、2000年5月25日)

◆児童文化学への招待
はたして「児童文化学」とは何か。
正式な招待状ができるまで、しばらく私の模索をお読みください。