ワン公開いた本 2004 9月-12月
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2004/12/22
『時間のかかる彫刻』シオドア・スタージョン(創元SF文庫) 
読み返すたびに驚かされる。もっと臆面もなく喜びを表現できるように、これが他人の作品だったらと思うくらいなのだという、著者お気に入りの中編「ここに、そしてイーゼルに」を劈頭に、ヒューゴー・ネビュラ両賞受賞の表題作、地球を追われた少年少女の成長譚「箱」など、全12編を収録。シオドア・スタージョン自ら健在と成長を宣した、往年の名品集。
【収録作品】
「ここに、そしてイーゼルに」「時間のかかる彫刻」「きみなんだ!」「ジョーイの面倒をみて」「箱」「人の心が見抜けた女」「ジョリー、食い違う」「〈ない〉のだった――本当だ!」「茶色の靴」「フレミス伯父さん」「統率者ドーンの〈型〉」「自殺」
Theodore Sturgeon (1918〜1985)
奇妙な味を持つSF作家。彼が拘るのは、琴線に触れる事柄、好奇心を呼び覚まされるもの、タブー視されることがらである。
スタージョンは亡くなって以後、評価が高くなっている。
スタージョン関連サイト。
http://www.physics.emory.edu/~weeks/misc/sturgeon.html
http://www.iliadbooks.com/sturgeon.html



2004/12/12
『血だるま剣法・おのれらに告ぐ』平田弘史 (青林工藝舎)
1962年夏、日の丸文庫から貸本劇画本として発行された「血だるま剣法」は40年以上に渡り封印されてきた。奇跡の復刊には伏字がなされている。 
剣で身を立てようとする幻之助は、その出自によって差別され続け、家族も殺されていた。剣に対する執着は凄まじく、他の門弟も敬遠するほどの血みどろの剣技であった。
慕う師すらも彼を裏切ったと知って、幻之助は師を残殺し、道場の者を皆殺しにすることを告ぐ。そして、幻之助は情念と侠気に揺さぶられつつ、妖鬼と化していく。
復讐の中で両手を失い両足を失ないつつも、受け継いできた特異体質を活用して凶器へと変貌させる幻之助の妄執が鬼気迫る。
その表現が、差別を助長するとして厳しい抗議をうけた。大阪にあった版元の光伸書房は担当編集者を解雇し、同書を回収して焼却処分された。
しかし作品全体を読めば、差別に対する偏見どころか、差別される者の不条理への怒りと武士社会への憤怒が伝わってくる。
表紙の迫力、そのストーリー、絵、コマ割りにエネルギーがほとばしる。「刀傷を無数に帯びた硬い岩」で「ただでは帰さぬ」という激しい侠客精神のある時代劇画だ。
貸本『魔像』の別冊として出版され焚書事件から、六年後の1968年にリメークされた「おのれらに告ぐ」も併せて収録されている。
平田弘史ホームページ
http://www2.wbs.ne.jp/~tesh/1.html



2004/12/3
『真夏の夜の夢』シェークスピア(筑摩文庫)
「真夏の夜の夢」を劇として支えているのは、アテナの二組の若い恋人たちではなくて、插話的にあつかわれている職人衆の素人芝居の場面であることは面白い。ほんとうに腹から笑う素朴なおかしさと、生地むきだしの人間らしさとがあってシェクスピアという戯曲家の着目と力量とが、全くひととおりのものでないことをうなずかせた。
この職人衆のリアリスティックな場面に対して、二組の恋人たちが、森の中で精霊たちのいたずらにあってうきめをみるおかしみが、巧みに配置されている。「真夏の夜の夢」の変化の多様さ、飽きさせなさの間にやっぱりルネッサンス時代の人間精神の暗さと野蛮さとを感じる。面白がって、笑ってみている若い人々の、その人たちの運命は、森の精霊よりもっと兇悪な日本のために愚弄された。舞台では、アテナの二組の恋人たちが、パックのおとす一滴の草汁のために、対手をとりちがえ、愛そのものをとりちがえて、泣きつ叫びつ混乱する。それを、ゲラゲラ笑って見ているほど、愚弄されるほど感覚はマヒさせられている。半ばさめ、半ば眠っている日本の現代への諷刺として、この点を興味ふかくとらえるならば、ルネッサンスを歴史性ぬきの人間解放の面からだけ解説せず、その暗黒さにおいてもリアルに観衆の心に笑いながらいつか心にのこされてゆく疑問を植えるべきではなかろうか。(宮本百合子)


2004/11/22
『マルドロールの歌』ロートレアモン (現代思潮社)
「神よ、願わくば読者がはげまされ、しばしこの読みものとおなじように獰猛果敢になって、毒にみちみちた陰惨な頁の荒涼たる沼地をのっきり、路に迷わず、険しい未開の路を見いださんことを。読むにさいして、厳密な論理と、少なくとも疑心に応じる精神の緊張とを持たなければ、水が砂糖を浸すように、この書物の致命的放射能が魂に滲みこんでしまうからだ」「ぼくは鋭い刃のナイフを握って、二枚の唇のあわさっている肉を切り裂いた」
第二の歌はどんな詩人の歌より美しい。だがマルドロールが造物主の彫像を見たとたん、怒号を浴びせはじめる。言葉は自動筆記のように、地中はおろか、天界の意図までひっくりかえす。
第三の歌は、憤怒の奥から繻子のような透明な声で一人で人類を向こうにまわす。
第四の歌は、ロートレアモンとマルドロールがカインとアベルのように交える。
第五の歌は、絶望の淵を旋回して絶顛に向かっていく錯乱の裡にさまよった夢の記述だろうか。
第六の歌は、もはや邪悪を装うとも呪詛をこえる鎮魂が押し寄せている。

「ぼくはは見てきた、我が生涯を通じて、一度の例外も無く、狭い肩幅の人間どもが、数多い愚かな行為を行うことを、奴らの同類を愚かにして、あらゆる手段で魂を堕落させるのを。奴らは、この行為の動機を栄光と呼ぶ。
嵐よ、竜巻の妹よ。ぼくはその美を認めないが、蒼い天よ。偽善者の海よ、ぼくの心の似姿よ 。謎を秘めた大地よ。星々の住人よ。全宇宙よ。全宇宙を壮麗に創りし神よ、ぼくが証言を求め ているのは君なのだ。善良なる人間を誰かひとり、このぼくに見せてくれ!  いや、それよりも、君の加護でおれの生まれながらの力を10倍にするのだ。なぜなら、この怪物の光景に、ぼくは驚愕のあまり死にそうだ。これを見れば誰でも死ぬだろうさ。
老いたる大海原よ、君は自己同一性のシンボルだ、いつも、君は君自身なのだ。君は、根本から変わることは無い、どこかで波が荒れ狂っていても、どこかは完全に凪いでいる。君は人間どもとは違う、人間どもは、2匹のブルドッグが首に噛み付き合おうとするのを見ようと道に立ち止まるのに、葬列が通り過ぎるときには立ち止まろうともしない。朝は機嫌が良いのに、夕べには不機嫌になる。今日笑えば、明日は泣く。老いたる大海原よ、ぼくは君を讃えよう。」
 
第一の歌より

サルバドール・ダリ 「マルドロールの詩」(1934年作)
http://www.ddart.co.jp/leschantsdemaldoror.html
シュルレアリストたちの霊感源の一つと見なされていた、19世紀末の謎の詩人、ロートレアモンの詩『マルドロールの歌』に寄せた版画集である。
第六の歌の主人公、イギリス少年のメルヴァンが登場する場面の有名な詩句「彼は一七歳と四か月だ!そしてなによりも、ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい!」という場面が描かれている。詩句とは直接関係のない、ダリ自身の潜在意識に根ざした画面となっていることから、詩句の中のこの場面は、自信家ダリの独創的なイメージさえ支配してしまうほどの強烈な衝撃力を持った根源的な霊感源であったことを物語っている。


2004/11/06
『ケルベロス第五の首』ジーン・ウルフ(国書刊行会)
物語の舞台は、Sainte AnneとSainte Croixという双子惑星からなる世界。この星系には物語の時代から数百年前にフランス系の人々が入植した。その後やってきたイギリス系の植民者との間に戦争が起き、フランス系の人々は敗れて星系の支配権を失い、両惑星の地名や文化にはフランス植民時代の名残がある。
二つの惑星は道徳的に悲惨な状態にあった。より経済の発達したサント・クロワには奴隷制と抑圧的な政府が存在し、親は経済的な理由から子供を奴隷として売り払うことを厭わない。一方、サント・アンヌには「アボ」と蔑称されるヒューマノイド型の原住民がかつて生息していたと言われますが、フランス植民時代に絶滅させられたとされています。「アボ」たちは人間そっくりの姿をしており、自らの姿かたちを変える能力を持っていた。奇妙なことに「アボ」の残した遺物はほとんど残っておらず、彼らがどのような生物であったのかは伝説としてしかない。一方「アボ」は今でもサント・アンヌの未開の奥地に生息しているともいう。

The Fifth Head of Cerberus
物語の舞台は、奴隷の交易で栄え、双子惑星の中でも最悪の町と言われる、サント・クロワのポール・ミミゾンの町。主人公の少年は、父、弟、叔母、家庭教師とともに暮らしており、主人公の家は「犬の家」と呼ばれる娼館です(娼館の入り口に「三つ」の首を持つ地獄の犬ケルベロスの像があるためにこう呼ばれる)。娼館を経営すると同時に科学者でもある父親は、いつも謎めいた行動をとっており、また主人公は同じ家に暮らすはずの叔母とはほとんど顔を合わせたこともない。そのため主人公の少年にとって、日常的に接する相手は弟のデビッドと家庭教師のミスター・ミリオンだけ。
七歳になったある日、主人公は夜中に父親に呼ばれる。父親は主人公の少年にあたかも精神分析の治療でもあるかのようにさまざまな質問をし、主人公のことを「ナンバー・ファイブ」という名前で呼ぶ。成長するとともにナンバー・ファイブは家の外の世界とも関わりを持つようになる。ナンバー・ファイブとデビッドとはフィードリアという美しい少女と知り合い、一緒に演劇の公演をおこなうようになります。その一方で父親による夜の質問はしだいに奇怪なものになっていき、ナンバー・ファイブは薬品を摂取させられ、長時間記憶を失う。
ある時叔母と話していた主人公は、「ヴェイルの仮説」の話をする。ヴェイルという人類学者の提唱した仮説で、「アボ」は実は絶滅しておらず、地球からの植民者たちを皆殺しにして植民者たちになりかわり、地球人として今も暮らしているというもの。そんなある日「犬の家」に地球からサント・アンヌを経由してやってきたという、マーシュという若い人類学者が訪ねてくる。


"A Story," by John V. Marsch
二番目の中篇は「アボ」の神話、伝説の再構成。サント・アンヌの高地に住む「自由の民」の女「揺れるスギの枝」は双子の赤子を産む。最初に産まれたのは「東の風(ジョン・イーストウィンド)」、二番目に産まれたのは「砂歩き(ジョン・サンドウォーカー)」ですが、「砂歩き」は祖母が河で水浴びをさせている時に「沼地の民」にさらわれる。
やがて成長した「砂歩き」は、一人前の男となるため、洞窟に住む賢者のもとを訪れた。その途中「砂歩き」は、赤ん坊のころに生き別れになった「春の風」が「沼地の民」の一員として成長している夢の啓示を受けた。また「夜の子供たち」という別の一族とも出会い、その友人となり自分の一族が「沼地の民」に捕えられていることを知り、彼らのもとに向かい、「沼地の民」とともにいる「春の風」と再会する。


V.R.T.
最後の中篇では、第一部で「犬の家」を訪れたマーシュは身に覚えのない殺人罪で逮捕され、サント・クロワの獄中にいる。マーシュは、人類学者とは偽りの姿で、実はサント・アンヌからのスパイだとの嫌疑をかけられている。物語は、マーシュを取り調べる役人が、彼が「アボ」の痕跡を求めてサント・アンヌの奥地を旅した際の手記、逮捕後の尋問記録、それにマーシュが獄中で書いた日記などの証拠物件を検証する、断片と役人の描写が交互に描かれる。
手記によると、地球から人類学者としてサント・アンヌにやってきたマーシュは「アボ」の謎を解く鍵を求めて、トレンチャードという名のアル中の物乞いに出会う。トレンチャードは実は自分は「アボ」の生き残りなのだと称し、マーシュを「アボ」がかつて生息していた地方に案内する。その後マーシュはトレンチャードの息子の "V.R.T." という少年とともに「アボ」を求めてさらに奥地に旅することになる。少年はかつて母親とともに奥地に長いこと暮らしていたのだといい、自身「アボ」の習俗に通じているようだ。少年との探検旅行は順調に進みますが、マーシュはしだいに、自分が眠っている間に少年のもとを誰かが訪れているのではないかという疑念を持つようになる。


ちりばめられた不要とも思える枝葉のエピソードが、ひとつひとつ意味を持ってくる。これら3つの話が、絡んで不思議な世界を作り出している。
話の謎を深めているのが、さまざまなシミュラクラだ。果たして目の前の人物は、本人なのかシミュラクラなのか、いやそもそも完璧なシミュラクラであれば、本人といかほどの差異があるのか。不完全なシミュラクラだとしたら、どこにほころびが生じるのか。
第一部は、熱帯の植民地ふうの町で起きた殺人事件の顛末。
第二部は、もともと惑星に住んでいた知的種族の神話風物語。
第三部は、政治犯とされる男の過去を、調査書を交えた手法で浮かび上がらせる。念入りに組み立てられたテキストを読み解くことで、真相が徐々に浮かび上がる。


2004/11/1
『鷹の井戸』 ウィリアム・バトラー・イエ-ツ (角川文庫 )
1本の木があって、片側は燃えあがっている。片側は梅雨に濡れて緑色である現実にはありえない樹木のことをイエ-ツは歌っている。
その「燃えあがる緑の木」は5つのスタンザーがあって、最初は、両極の間に2つの極点があって、その間を両極の間に道を定めて人は走るということから始まっている。右と左の両極は魂、肉体を表している。人間はある期間は魂の間で生きる。またある期間は肉体の間で生きる。揺れ動いて生きていく人間が死ぬというところがあって、大きいたいまつが我々を一食し、そして滅びる。この燃える木は精霊だと思う。人間を超えたものと人間が接触して死んでしまう。イエーツは、魂と肉体の間を揺れ動くものとして人間を捉える。

1913年から秘書をしていた、E.パウンドの「日本には能というとんでもない芸術がある」という話がイエーツの耳と目に入って驚いた。アイルランドの幻想と能の幻想は通底していることに着眼。能とケルトを探りながら書きあげられた『鷹の井戸』、ケルトの幻想にまぶして遠い蓬莱の国の香りたつ戯曲となった。
ケルトの若き英雄が永遠の生命を求めて、井戸にたどりつき水を求めた。
井戸のかたわらにいた老人がこの水は涸れていて、これまでたった三度しか水は湧いたことがないという。二人が問答をしていると、井戸を守るとみえていた女がはげしい鷹の声をあげ、打ち震えはじめる。老人はこれは水が湧く前兆だと言う。女は黒い衣裳を払って立ち上がり、鷹となって移り舞を始める。
英雄は鷹を追い、老人は眠り、舞のテンポがはやくなり歌い収められると、あたりはまったく元のまま。一体彼はそこに来たのかどうか、女は鷹になったのか何もわからない。すべては老人が見た一場の夢だったかもしれないという。


2004/10/24
『天動説』宮谷一彦(未刊の大作)
1970年代NEW-ROCKが台頭していた頃、彗星のように出現した劇画作家がいた。
その『宮谷一彦』という男は革命家かテロリストのごとく、従来の漫画の作劇描写を根底から問いただした行為を、自らの肉体精神における全身全霊こめてなされた。
ハードボイルドから観念的文学までのあらゆる方法を、ストーリーマンガへ叩き込んで、かつて一度も観た事の無いようなリアルな幻覚世界まで描いてしまった。
その細密描写はヒトコマに一週間もかかるペンとスクリーントーンの複雑複合な手法だった。
今ならばCG作画作業するような、細密なアミ製版のようなことを数人のアシスタントと共に手作業されていた。未知の映像作画手法であり読者へ衝撃をあたえた。ROCKと同じように模倣する者は現れても、その時点でその起爆力を超えられる他者は無かったといっていい。
宮谷一彦の観念絶頂期といわれる『性紀末伏魔考』の原稿200枚ほどを青林堂編集部で拝見したことがある。細密ペン画集のように恐ろしく時間と手間をかけられた、前衛的な作品集ものだ。雑誌の原稿料は一頁3000-5000円位だから、凄惨な赤字生産となり、やがて出版界から撤退されたという。

野心作と誉れの高い『天動説』が全頁公開(作者保存の生原稿が高画質で見れる)
http://2.csx.jp/~gaiden/tendo0.htm
宮谷一彦の新作WEB公開
http://www5f.biglobe.ne.jp/~miyaya/



2004/10/10
『日本改造法案大綱』 北一輝
我々が求められているのは、純粋であれ何であれ、死の思想ではなく、かの千早、赤坂城に篭城し、執拗な徹底抗戦をした大楠公こと楠木正成のような戦いの思想なのだ。戦後民主主義という現代の「鎌倉幕府」に対する、千早、赤坂の楠木正成のように、徒な突撃的な死とは反対の、持続的な塹壕戦を展開する思想こそが求められているのである。
http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/kita-ikki.htm
『国体論及び純正社会主義』という早熟の23歳の著書は天下の大傑作である。
明治30年台の日本を、帝国憲法からみれば社会主義国家で、藩閥政府と教育勅語でみれば天皇制専制国家で、社会経済面からみれば地主とブルジョワが支配する資本制国家であると、3段にみなしている。このうち、最初の国家観に立って、あとの二つを打倒してしまうというのが、北の革命になる。
  生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆ド消費的各省及ビ下掲国民ノ生活保障ノ支出ニ応ズルヲ得ベシ。
 従テ基本的租税以外各種ノ悪税ハ悉ク廃止スベシ。


2・26事件の青年将校たちが『日本改造法案大綱』をバイブルとし、この一書が昭和維新の聖典だった。北はこれを日本に帰る前の上海で書いた。大正8年である。
天皇を実用的に持ち出したのは、北一輝ではなくて、結局軍部幕僚たちだったのである。日本の「真水」は、北によってではなく、青年将校の嚥下に飲み下されたのだった。
のちに三島由紀夫は『文化防衛論』に、「絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である」と書いた。けれども、2・26事件にはまた、安藤輝三大尉の行動というものもある。安藤はクーデターがすでに天皇から見放されたことを知ったのちも、希望も絶望ももたずに、永田町付近の一角をただ一心に見守り続けたのである。
事件というもの、ときにシテよりもワキによってその本来を告げるものなのだ。
それならそこには「文の人」も「武の人」もない舞台があってもよかったのである。

北一輝「日本改造法案大綱」全文
http://homepage2.nifty.com/Bokujin/shiryou1/Nihonkaizou2.html



2004/10/7
『他力』 五木 寛之 (講談社文庫)
「他力」とは仏教の言葉で、他人の力という意味ではない。 「他力」とは「阿弥陀如来の力」を指す言葉。 「本願」とは本当の願いという意味で、約束のこと。
「他力本願」とは「阿弥陀如来の力によってなされたお約束」ということで、他力本願のはたらきによって、強くたくましく生きていけることを示す。

「大阪商人の気質をあらわす例として、よく『儲かりまっか』『まあ、ぼちぼちでんな』などという挨拶を交わすと言われます。しかし、古い大阪の人に聞くと、昔は、『儲かりまっか』と聞かれると『おかげさんで』と必ず言ったそうです。『おかげさんで』というのは神仏のご加護によってなんとか生きていけることを〈お陰〉と感じて、その〈お陰〉を感謝する思想でしょう。お伊勢多りを『お陰参り』と言うのと同じです。そう考えると、大阪商人はじつは根のところに非常に精神的な、宗教的な心根をもった人たちであり、大阪ビジネスの背後には、儒教的な倫理のほかにお陰という宗教的な感覚もあったということになります。」
「最近の免疫論の中から導入された、〈地球免疫論〉という考え方があります。この理論は、地球を1個の生命体と考えて、生存する草木や動物や人間を、地球が〈自己〉か〈非自己〉かを判断し、自己の一部と見なせば〈寛容〉し、〈非自己〉の場合は拒絶的に排除する、そういう考え方です。」
「自分ひとりの力で(物事を)やったと考えるのは浅はかで、それ以外の目に見えない大きな力(=他力)が自分の運命にかかわり合いを持っている」
(本書より)


2004/9/30
『アトランティスの叡智』−思考の現実化・意識の物質化] ゲリー・ボーネル (徳間書店)
[光の十二日間]の著者による、アセンションの現代的な解析と対処方法の書。
映画「マトリックス」に描かれた、地球マトリックスの仕組みが現実の物として記されている。いやそんなことは一言も映画については書かれていないけれど、あの作品をSFエンターティメントとして架空のものとかたずけるかだね。道教の宇宙観をサイバーパンク活劇にして視覚の次元まで降ろして噛み砕いてくれた映画だが、アクションや肉体的カタルシスや情感に翻弄されると、世界現象が智として捉えられにくくなる。
人が抱く欲望は、感情と知性が分裂したときに起こるという。
koinuは人間様が不自由だと思うのは、物質欲や名誉欲という自然界からすると虚無にひとしいものに奴隷になっていることです。
学校とか社会システムがそのようなガイドラインを出している。
そこで現実を隠蔽して、想うがままに世界制覇する勢力がアメリカはじめ日本にも、いま
目の前に押寄せて来ていることは、御覧のとおりです。が、簡単な欲のトリックに気がつかないままに、その一生を不自由に過ごすのが多くの人の歩む道のりナノかも知れません。
自在に天高く飛翔のできる思考の翼を与えられているというのに、欠らくした谷へおちたがるのか。欠と谷を一文字にしたという叡智の物語が、中国の古典文学にもありましたね。
「杜子春」という短編で邦訳されています(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card170.html)ので、道教哲学やシュタイナーの人智学など知らなくとも、ここでは納得できるようになっていたのです。
しかし、そんな想像力や理さえも、木っ端微塵に叩き潰すことが快感とされる風潮があります。思考することをやめて、パンツのはいたサルになるようなものです。
アクティブな良い叡智の言葉が、エジプト文明よりも以前からあったということは忘れては損です。「トートの書」に記されていることは、頭をチョー簡単にしてしまい、五感を鈍くする生活する慣習のわれわれには理解が困難なる書物であります。
精神の盲目、肉体の味盲、聴覚の簡略化。あらゆるものが超スカスカに変換されてしまい、生きている意味すら忘れさせてあげませう症候群だぜ。かなり手強い状況だ。
だが、人それぞれには例えていうと、肉体の1gに光に換算すると数トンのエネルギーがあるらしい。

光の十二日間カレンダー
http://www.diviner.jp/Spiritual/12days/
ガイアアセンションについて
http://www21.0038.net/~gaia-as1/ 
フォトン・ベルトが地球にもたらす影響
http://www.net-g.com/photon/reset.html
 


2004/9/11
『桃太郎』芥川龍之介(青空文庫)
鬼が島は絶海の孤島だった。
椰子の聳えたり、極楽鳥の囀ったりする、美しい天然の楽土だった。
鬼は熱帯的風景の中に琴を弾いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗る安穏に暮らしていた。
そのまた鬼の妻や娘も機を織ったり、酒を醸したり、蘭の花束を拵えたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、牙の脱けた鬼の母はいつも孫の守りをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
「お前たちも悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角の生えない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛の粉をなすっているのだよ。それだけならばまだ好いのだがね。男でも女でも同じように、うそはいうし、欲は深いし、焼餅は焼くし、己惚は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」
桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。
鬼は金棒を忘れたなり「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々と聳えた椰子の間を右往左往に逃げ惑った。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣にした。……
あらゆる罪悪の行われた後、とうとう鬼の酋長は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日のように、極楽鳥の囀る楽土ではない。椰子の林は至るところに鬼の死骸を撒き散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来を従えたまま、平蜘蛛のようになった鬼の酋長へ厳かにこういい渡した。
「では格別の憐愍により、貴様たちの命は赦してやる。その代りに鬼が島の宝物は一つも残らず献上するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
 鬼の酋長はもう一度額を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明し下さる訣には参りますまいか?」
 桃太郎は悠然と頷いた。
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訣でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後へ飛び下ると、いよいよまた丁寧にお時儀をした。
【つづきは】
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card100.html



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