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| 2005/03/26 『犬は勘定に入れません---あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』 コニー・ウィリス作/大森望訳(早川書房) 1940年、空襲の跡で「鳥株」を探している主人公は、2057年から送り込まれている時の旅人。 最近は規定を大幅に超えた回数で過去に送り込まれている。すべては「鳥株」とよばれる ヴィクトリア朝花瓶を探し出すためだったはずなのに、ひょんなことからその時代より 遥か昔のヴィクトリア朝に行って、歴史の流れを元にもとに戻すために四苦八苦する羽目に。 消えた花瓶を見つけることはできるのか、手遅れにならないよう歴史のずれを直すことが できるのか。世界の時空が壊されてしまう連鎖の危機はせまっている。 時差ではっきりしない頭の疲れきった主人公は、訳のわからないまま事件の渦中に巻き込まれ ていく。少々抜けてはいるが誠実な人柄の主人公をはじめ、共に川下りをする若者や教授の 執事など、人間味あふれる描写が冴えている。 全編にユーモアたっぷりの物語なのだが、使われている言葉の音感も乗りがいい。 最後まで姿を現さないシュラプネルと司教の鳥株が、繰り返し出てきては頭の中にある種の リズムを作り出し気分をさらに盛り上げる。 タイトルの元なっている『ボートの三人男 --- 犬は勘定に入れません』(ジェローム・K・ジェローム) という 喜劇小説のセンスのいい数々のパロディが含まれていて、随所ににんまりさせられる。 読み出したら止まらないトリビアも満載で、もつれた謎の連鎖が解けてゆくクライマックスの 清涼感にも抜群の優しい愉しさがあふれている。 世界の危機をまえにして、コニー・ウィリスのコメディ作家としての才能全開される。 神は勘定に入れません:コニー・ウィリス日本語サイト http://www.asahi-net.or.jp/~KX3M-AB/willis/ 2005/03/20 『花粉戦争』Pollen ジェフ・ヌーン 田中一江訳(ハヤカワ文庫SF) 前作『ヴァート』の続編として1997年夏に、本書を読んだ時には「花粉症」というの は未体験であった。痒い目を擦りつつ、英SF界の寵児が特異な感覚で描いた傑作サイ ケデリック・ノヴェルを再読する。 ヴァートとは羽毛型の仮想ドラッグで、<羽>を喉の奥に差し込むことによって、ド ラッグのような桃源郷の<夢>の世界へ没入できる。羽の色によって種類が分かれて おり、青羽は合法的なドラッグ、黒羽は違法、桃羽はポルノ、黄羽はイングリッシュ・ ヴードゥーという危険なドラッグなどとなっている。 犬と人間、死体と人間、機械と犬の交配、そして夢の世界である「ヴァート」の子供 たち。みな化物じみているが。それぞれ種の特徴も残した可愛らしい生き物たちだ。 花粉が蔓延する早朝、犬人間のタクシー運転コヨーテが死体で発見された。 口からは無数の花を生やして、 謎の少女ペルセポネによって殺された。 捜査にかりだされた女刑事シビル・ジョーンズは、シャドウという特殊能力によって、 被害者のいまわのきわの意識をリプレイできた。無数の花が踊り狂う光景とコヨーテ の恋人の愛慕の情だった。 シビルタクシー運転手殺しの捜査をきっかけに、9歳のときに行方不明になった自分 の娘の探索行を開始。コヨーテの恋人ボーダという少女の行方を追いはじめる。そし て 植物を媒介とした異世界からの花粉が乱舞する渦中へ。 神話から古典的物語までポップな語り直しを織り込み、集中管理されるサイバータク シー、そして対抗するもぐりの運び屋、元ヒッピーの海賊DJ、市外のカントリーシ ンガーなどを交えて、フラワーム−ブメントに開花したサイケデリックROCKが、次々 にストーリーに合せ物語は展開する。本書に登場するのは以下の曲である。CD-RかMD に収録してBGMとして聴くのもいいかも知れない。 1. Traffic "John Barleycorn" 2. Jimi Hendrix "Are You Experienced? 3. The Move "I Can Hear the Grass Grow" 4. Scott McKenzie "San Francisco (Be Sure to Wear Some Flowers in Your Hair)" 5. The Beatles "A Day in the Life" 6. Elvis Presley "Are You Lonesome Tonight?" 7. Carl Perkins "Blue Suede Shoes" 8. Spencer Davis Group "Keep on Running" 9. "Maverick" from the TV series Maverick 10. Marc Bolan "Hippie Gumbo" 11. The Beatles "Strawberry Fields Forever" 12. Pink Floyd "Astronomy Donine" 13. The Rolling Stones "Mother in the Shadow" 14. The Doors "Riders on the Storm" 15. Jimi Hendrix "Purple Haze" イングランドに伝わる古謡であるJohn Barleycornはトラフィックのヴァージョンで 知られているが、そこに歌われる大麦とビールと大地の精こそが花粉戦争を発芽させ た存在だ。 ボーダとシビルは別々の経路で事件の真相を探ると辿り着いた先は同じ相手だった。 ヴァート世界は、人間の夢であり、無意識であり、あらゆる物語の原型であって、そ こに生まれたバーレーコーンは、夢の王として、不可避的に現実世界を花粉を使い現 実を夢で覆い尽くそうとしていた。 『物語』の住人は、定まったプロットに反逆しようとし、現実と『ヴァート・物語』 の世界が綻ぶところに主題である『花粉』を出現させる。真性人間に対して、異種交 配によってうまれた人間との混血種としての犬族、ロボ族、シャドウ族、そしてとヴ ァート生物と多様な多民族世界ならぬ多混血種の世界。 警察とタクシー会社が街の覇権を争うなかで、交通網を集中制御するネットワークが、 街の現実そのものと化していくVRやナノテクも適宜生活に導入される。バイオテク ノロジーの遺産としての雑婚によって出現した世界。人間と犬の間の性的垣根が崩れ ただけでなく、植物と人間さえも死者も子孫を残すことが可能になっていく。 「花は魔物、人を惑わせ、甘やかな死をもたらす」 花粉症とは植物による無差別レイプなのだろうか。 ダ−ティな語り口のネオハードボイルド、バイオレンスな文体が炸裂する。 一気呵成に読み、クシャミをしてしまった花粉の季節のワン公であった。 花粉飛び交う現在の日本で『花粉戦争』(定価860円)はすでに絶版となり、ネットオー クションでは 3800円で取引されているようだ。SFファンからも評価の高い『ヴァー ト』と違って、100円文庫コーナーでもよく見かけたので、買占めるなら今のうちかも。 ちなみにジェフ・ヌーンの長篇第3作は『未来少女アリス』というファンタジーで、 昨夏ハヤカワ文庫にて刊行されている。 2005/3/15 『よもつひらさか往還』 倉橋 由美子 (講談社文庫) 時空を越え、はるかな異郷とこの世を自在に往来する少年。 おじいさんで元首相から引きついだバーでバーテンダーをする「九鬼さん」という得体の 知れない人物がつくるカクテルで、幻想とも現実ともつかない色彩豊な世界へ飛ぶ。 花の雪散る里/果実の中の饗宴/月の都に帰る/植物的悪魔の季節/鬼女の宴/雪女 恋慕行/緑陰酔生夢/冥界往還記/落陽原に登る/海市遊宴/髑髏小町/雪洞桃源/ 臨湖亭綺譚/明月幻記/芒が原逍遥記 デビュー作「パルタイ」を修学旅行中に、奈良か京都で買って新幹線で読んだのが 倉橋由美子だった。「婚約」「暗い旅」「蠍たち」といった作品群を経て「スミヤキス トQの冒険」に触れた。熱病に憑かれたように全集なども読みふけったが、それがど んな物語だったのか想い出せない。カフカなどの不条理文学のジャンルに括られてい たのかも知れない。 今のファンタジー小説の読者には読了できる代物ではないことは確かだろう。 『よもつひらさか往還』の文面は平明で読みやすく記されている。それによって物語 までが浅くなってはいず、広い 異界入口となり「聊斎志異」ような深い幻想譚が待 ち受ける。 グラスの向こうに冥界が見える、酔いしれてさまよい遊ぶ、黄泉平坂のぼりおり。 誰かに朗読していただきたいようなショートショート15編。 2005/3/1 『安曇野の白い庭』 丸山健二 (新潮文庫) 「飼い主の愚かさで、犬以上の存在にはなれず、そのために私たちはただ犬を飼った という以上の感動を得られなかったのだ。……何かの間違いで本がたくさん売れたら、 犬といっしょに住める家を建てて、大型犬を飼おう」 丸山健二氏の犬バカぶりが発揮された『されど孤にあらず』(文藝春秋) バイク、四輪駆動、釣り、大型犬たちにつづく、庭造りのエッセイ。 庭といっても、ガーデニングもどきではなく、三百五十坪の土地に、小説家が住む家 にふさわしい庭を、肉体と脳髄を酷使して一から作り上げる。植樹から石運び、消毒、 剪定と美学にかなう庭づくりへの集中力は、(一歩踏み外したら爆笑寸前、1ミリ単位 の境界線上を見事に渡り歩むほどの)真摯であるがゆえに人を惹きつける。 「小説ならほぼイメージ通りにその世界を造ることが可能なのだが、庭はそうはゆかない。 理由は、樹木が生き物だからだ。生きているということは、現実そのものであることに ほかならない。(中略) 森や山を埋めている植物は、そのひとつひとつが、きちんとした、押しも押されもし ない理由があってそこに存在しているのだ。というより、そこに適していない植物は 残らず淘汰されて、生き残った物だけでその森とその山を造っているのだ。そこで根 付かずに、枯れていった植物にまで思いを馳せる者はいない。 しかし、造園の美はあくまで人為から生まれる世界であり、自然とは厳しく一線を画 しておかなくてはならない。」(本書より) http://www.dcn.to/~comment/amaton/amazon/asin/4101283265 「週刊朝日」書評 http://www8.plala.or.jp/shinpeishi/BookReview/Azumino.htm 2005/02/25 『わが生涯』isadora duncan/ イサドラ・ダンカン著 ; 小倉重夫, 阿部千律子訳 (冨山房) 20世紀を代表するモダン・ダンスの創始者イサドラ・ダンカンの非凡なる自叙伝。 サンフランシスコの銀行家の家に生まれるが、破産して両親は離婚。13歳で初のダンスリサイタルを 行う。 因襲的なバレエを嫌い、ギリシアの舞踊を理想としてギリシア風のなだらかなチュニックの 衣装とトー・シューズなどの靴をはかずに裸足で、即興的に自由な動きで踊り「裸足のイサドラ」の あだ名で呼ばれた。 20世紀のダンス、舞踊だけでなく、身体表現のかたちそのものを変革したといわれ、バレエの持つ 型を拒否し、感情のおもむくままに踊った女性舞踏家。 「動きについて、舞踏についての最初の私の観念は、波のリズムから来ている。私は浜辺でアフロ ディテの星の下にうまれた。アフロディテの星が隆盛を極めている時は、私にも生気が軽やかに 流れ出し、想像力が漲る。」(第一章より) 「いにしえのカドモスが末の子らよ かざしのついた願の小枝とともに そなたたちはわれになんの願いがあって、祭壇に座しているのか この声の最初のアクセントを耳にして、心の中に湧然と湧いて来た情緒をいかに表現したらよい だろうか。華やかなりし古代ギリシャの栄光の日々において、ディオニソスの劇場において、 偉大なるソフォクレスの時代において、あるいはローマや他の処や時代に、かくも素晴らしい声が 存在したろうかと疑った。」(第九章より) 「この恐るべき欲望が病的になり、すべての束縛を破って放出する激流のように荒れてくると、 私は場面を霧に包んでしまって、各人が勝手に自分のイマジネーションで解決するに委ねた。 このほうが固定した幻想よりずっとよいからだ。 この爆発と成就することによって破壊する後に、安らぎが訪れる。 これは愛欲が満たされた後にくる、気だるさと安らぎを具象化した三女神である。」 (第十五章より) ニューヨー クのウィンザー・ホテルの火事に遭い、宿泊 していた彼女は衣類をそっくり焼失した。 「何もないほうが自然よね」イサドラは全裸に近いほどからだを露出させ、間に合わせの衣装で 舞台に出た。 ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナ ウ』やショパンの『葬送行進曲』といった有名な音楽を 伴奏にカーペットを敷いた舞台で 滑るように静かに動き、ポーズを作る。 ヌー ドに近い姿の妖精、イサドラを見るために多 くの人が劇場につめかけた。 「チャオ。また、会いましょ う、私には未来永ごうの栄光が」そう言って、イサドラは見守る ファンたちに手を振った。その直後、長いスカーフが車 の後輪に絡みつき彼女の首の骨を折った。 誰にも予期できない結末。 革命的な舞踊家イサドラの人生は、踊りも 恋愛も自由であった。 形にとらわれず、フリ −ダンス(自由舞踊)という独自のスタイル を作りだし、 モダンダンスが新しい創造芸術として認められるきっかけを作った功績は大きい。 (即興 impromptuより抜粋) http://www.ainoue.com/ai/31-40/33isadora.html 「踊るヴィーナス--イサドラ・ダンカン」 http://www.duncandance.org/idhsj/html/body_isadora_duncan.html 長らく絶版になっていた本書『わが生涯』新訳で「魂の燃ゆるままに」という題となって、 2004年12月に冨山房インターナショナルより出版されいる。 訳者は、シャーリー・マクレーンやスピリチャル系の本などの山川亜希子・紘矢夫妻。 2005/02/18 『能ぎらい』夢野久作全集(三一書房) 「仮面を冠って舞うなんて芸術の原始時代の名残りだ。その証拠に能楽の歌や節や、囃子の 間拍子や、舞いの表現方法までも幼稚で、西洋のソレとは比較にならない程不合理である。 あんな芸術が盛んになるのは太平の余慶で、寧ろ亡国の前兆である」 ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、 少しばかりの舞いか、謡いか、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。 その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くない処が何とも言えず面白くなる。 よくてたまらず、有難くてたまらないようになる。 あの単調な謡いの節の一つ一つに言い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。 あのノロノロした張り合いのないように見えた舞いの手ぶりが非常な変化のスピードを持ち、 深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現欲をたまらなくそそる 作用を持っている事が理解されて来る。 どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら、誰にでも謡って聞かせたくなる。 処構わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。 「能というものは、何だか解らないが、幻妙不可思議な芸術である。そのヨサをしみじみ 感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程 ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持になるのか説明出来ない芸術である」 「能」という言葉自身は支那語の発音で、才能、天性、効力、作用、内的潜在力、など言う いろいろな意味が含まれているようである。しかしそんなものの美的表現と註釈しても、 あまりに抽象的な、漠然たる感じで、あの松の絵を背景とした舞台面で行われる「お能」の 感じとピッタリしない。「仮面と装束を中心生命とする綜合芸術」と註釈しても、 何だか外国語を直訳したようで、日本の檜舞台で行われる、実物のお能の感じがない。 人間の仕事もしくは動作は数限りない。歩く。走る。漕ぐ。押す。引く。馬に乗る。 物を投げる。鉄鎚を振る。掴み合う。斬り合う。撃ち合う……なぞと無限に千差万別して いるのであるが、そんな動作の一つ一つが繰り返し繰り返し洗練されて来ると、次第に 能に近づいて来る。 静かに息を抜くまでの刹那刹那に、言い知れぬ崇高な精神の緊張が、全身に均衡を取って、 充実して、正しい、美しい、かつ無限の高速度をもった霊的リズムの裡に、変化し推移して行く 事を、自分自身に感ずるであろう。能を演ずる者の気持よさはそこに根底を置いている。 能の気品はそうした立脚点から生まれて来るのである。 筆者をして言わしむれば、人間の身体のこなしと心理状態の中から一切のイヤ味を抜いた ものが「能」である。(本書より) 2005/02/12 『ケルトの薄明』ウィリアム・バトラー・イエーツ(芥川龍之介:訳) 自分は時として目ざめたるまゝの夢を見る事がある。或は模糊たる、影の如き夢を見る。 或は歴々として、我足下の大地の如く、個体の面目を備へたる夢を見る。其模糊たると、 歴々たるとを問はず、夢は常に其赴くが儘に赴いて、我意力は之に対して殆ど其一劃を 変ずるの権能すらも有してゐない。夢は夢自らの意志を持つて居る。そして彼方此方と 揺曳して、其意志の命ずるまゝに、われとわが姿を変へるのである。 胸壁の上には無数の猿がゐて、掌に盛つた宝石を食つてゐる。宝石は或は緑に、或は 紅に輝く。猿は飽く事なき饑を以て、ひたすらに食を貪るのである。 ケルト民族の地獄を見たのを知つた。己自身の地獄である。芸術の士の地獄である。 自分は又、貪婪止むを知らざる渇望を以て、美なる物を求め奇異なる物を追ふ人々が、 平和と形状とを失つて、遂には無形と平俗とに堕する事を知つた。 幽暗の王国には、無量の貴重な物がある。地上に於けるよりも、更に多くの愛がある。 地上に於けるよりも、更に多くの舞踏がある。そして地上に於けるよりも、更に多く の宝がある。太初、大塊は恐らく人間の望を充たす為に造られたものであつた。けれ共、 今は老来して滅落の底に沈んでゐる。我等が他界の宝を盗まうとしたにせよ、それが 何の不思議であらう。 或夜、一生を車馬の喧噪から遠ざかつて暮した中年の男と、其親戚の若い娘と、自分 との三人が、遠い西の方の砂浜を歩いてゐた。此娘は野原の上、家畜の間に動く怪し 火の一つをも見逃さない能力があると云はれてゐる女であつた。自分たちは「忘れや すき人々」の事を話した。「忘れやすき人々」とは時として、精霊(フエアリイ)の 群に与へらるゝ名前である。話半(なかば)に、自分たちは、精霊の出没する場所と して名高い、黒い岩の中にある浅い洞窟へ辿りついた。濡れた砂の上には、洞窟の反 影が落ちてゐる。 自分は其娘に何か見えるかと聞いた。それは自分が「忘れやすき人々」に訊ねやうと 思ふ事を、沢山持つてゐたからである。娘は数分の間静に立つてゐた。自分は彼女が、 目ざめたる夢幻に陥つて行くのを見た。冷な海風も今は彼女を煩はさなければ、懶い 海のつぶやきも今は彼女の注意を擾(みだ)さない。 自分は其時、声高く大なる精霊たちの名を呼んだ。彼女は直に岩の中で遠い音楽の声 が聞えると云つた。それから、がやがやと人の語りあふ声や、恰も見えない楽人を賞 讃するやうに、足を踏鳴らす音が、きこえると云つた。それ迄、もう一人のつれは、 二三間はなれた所を、あちこちと歩いてゐたが、此時自分たちの側を通りながら、急 に、「何処か岩の向ふで、小供の笑ひ声が聞えるから、きつと邪魔がはいりませう」 とかう云つた。けれ共、此処には自分たちの外に誰もゐない。これは彼の上にも亦、 此処の精霊が既に其魅力を投げ始めてゐたのである。 【つづきは】http://www.aozora.gr.jp/cards/001085/card1128.html 2005/02/08 『コブナ少年―横尾忠則十代の自伝』横尾忠則 (文春文庫) 天才、横尾忠則のヰタ・セクスアリス。 小川でメダカやコブナ獲りに夢中だった幼年期から二十で結婚するまでの純な性のめざめの告白。 心情も文章も一切飾らない素裸の告白がすがすがしい。 五感全開で山野を駆け、江戸川乱歩の小説に熱狂し、高校美術部での恩師との出会い、 純でエロティックな性の目覚めと年上の女性への憧れ―。 モラトリアムの期間が長い現代日本において、屈託なく少年でいられる魅力あふれる自伝。 グラフィック・デサイナー、画家として斬新な作品を世に残してきた天才芸術家が自身の 十代の青春をみずみずしい感性で綴る。 1960年代は前衛的なテザインワークや斬新な舞台美術で世を圧巻し、1970年代は極彩色 レコードジャケットやコンサートポスターやキッチュな壮丁世界などでアートを街頭にも 解放した。 「横尾忠則. アート・オブ・ジャケット「 http://www.cdjournal.com/main/music_eye/20031107.php 1980年代は一転してデザイナーを廃業させ、版画から油絵という画家の道程を辿り、 1990年代よりコンピューターグラフィックスを導入した森羅万象の宇宙を様々な角度 から描いている大作が多い。 ひとりの人生の中でもう七回くらいは、脱皮転生しているのではないだろうか。 その蘇生するような無垢な魂の核にあるのは、好奇心のある少年性にあるようだ。 魂の解放についての実用新案が、つぎつぎに実践されている奇蹟といっていいだろう。 副産物としての絵画や文章も膨大な数になる。 「横尾忠則 森羅万象「 http://www.japandesign.ne.jp/HTM/JDNREPORT/020925/yokoo/ 2005/01/29 『デュシャンは語る』 マルセル デュシャン (ちくま学芸文庫) フレームに張ったカンバスにはもう十分すぎるくらい描いたからというのではなく、 私の眼には、それが必ずしも自分を表現するための手段ではなくなっていたからなのです。 『ガラス』はその透明性によって、私を救い出してくれました。 (『大ガラス』制作の八年間を語る) 青のチューブ絵の具を、赤のチューブ絵の具を選ぶこと、パレットに少しそれらを載せる こと、相も変わらず一定量の青を、一定量の赤を選ぶこと、相も変わらず場所を選んで、 画布の上に色を載せることです。それは相も変わらず選ぶことなのです。 それで、選ぶために、絵の具を使うことができますし、絵筆を使うことができます。 しかし、既製品も使うことができます。既製品は、機械的にせよ他人の手によってにせよ、 すでにつくられているものでして、それを自分のものにできます。 選んだのはあなたなのですから。 選択が絵画においては主要なことですし、普通でさえあります。 選択という着想が、ある種形而上学的に、私の興味を引いたのです。それが始まりでした。 その日に、通称デパートBHVで瓶掛けを買い、これを家に持ち帰りました。 それが最初のレディー・メイドになりました。(デュシャン) マルセル・デュシャンの謎を解け! http://www.bygones-online.com/table/duchamp.html プロペラに飲み込まれた芸術 http://www.linkclub.or.jp/~kawasenb/02artist/dcn1_page/dcnn.html 髭のあるモナリザ http://www.nezumikun.com/chico/Duchamp.html デュシャン作品 http://www.artstyle.org/topics.html 既製品を芸術家が「選び」美術品として提示した物 http://ha5.seikyou.ne.jp/home/seamew/profile/duchamp1.htm 2005/01/28 『エモーショナル・デザイン /微笑を誘うモノたちのために.』ドナルド・ノーマン(新曜社) 人間が表情を見せてのは、顔や体をコントロールしている多くの筋肉の自律神経支配によるもので あって、ポジティブな感情はいくつかの筋肉群をリラックスさせ、多くの顔の筋肉を自動的に引き 上げる(眉や頬が上がるなどなどをして笑顔になる)。 そしてポジティブな出来事やものごとを始めさせたりそれらに近づけさせたりする傾向をもたらす。 ネガティブな感情は止めたり遠ざけたりするという反対の影響をもつ。いくつかの筋肉が緊張し、 顔の筋肉のいくつかは下に引っ張られる(しかめっ面になる)。 感情状態のほとんどはポジティブなものとネガティブなものとが複雑に入り混じっていて、 その喚起のレベルもさまざまであり、すぐ前の状態の名残りを引きずっている。 その結果としい生ずる表情は豊かで、情報に満ちている。そして真実味がある。 見せかけの情動はにせものだと分かる。私たちは自分をだまそうとするにせの企みを見分けること には長けている。だから、インターラクションする多くのコンピューターシステムの中で微笑んで いる、かわいらしいヘルパーや人工的な甘い声と感情をもつものには、役に立つというよりも イライラさせられてしまうのだ。 (第六章「情動をもつ機械」より) 2005/01/20 『白髪小僧』夢野久作全集(三一書房) 全集を読むという体験は格別なことです。 一人の作家の習作期から、最も乗った時期、死期に近くまで、その一生を同行して歩むように 読むこともできるわけです。好きな作家なら是非体験したいもので、私の場合は夢野久作も その一人。 三一書房から出版された『夢野久作全集』の第一巻に収録されているのが本作。 物語を読むことに異常な執着を持つ美留女姫が、ついに世界中の物語を読み尽くしてしまい、 世界の重大な秘密とそれに関わる白髪小僧、そして彼女自身の運命が語られているという 禁断の書物「白髪小僧と美留女姫」を手に取るところから話しは始まります。 それから、合せ鏡イリコダマの自己を喪失したあげく、人格が分裂していく展開は 「ドグラ・マグラ」を思わせます。 一体全体、これは誰の見ている夢なのだろうか。 曼陀羅の無限世界へ迷い込む物語。 「白髪小僧」は著作権がフリーになって「青空文庫」で閲覧できます。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card936.html 2005/01/19 『文学外への飛翔--俳優としての日日--』 筒井康隆 ( 小学館文庫) 映画、舞台、テレビへの出演についての「役者・筒井康隆」としてのエッセイ集。 今月から放送されている深田恭子 主演の『富豪刑事』にも、原作者・筒井康隆が犯人役として 出演される。その怪演技がまた期待されてるようだ。 俳優奮闘日記やチェーホフ作品の構造主義的分析などより、面白かったのは『ダンヌツィオに 夢中』の作者が三島由紀夫の戯曲について書かれた意外性。 自分が演じることになった戯曲『近代能楽集』を面白ろがり、三島由紀夫の小説では味わえない 自在な物語空間を指摘している。そして三島文学選考委員になったおりに、三島由紀夫全集を 読み小説よりエッセイや戯曲の方の三島の虚構性を高く評価してる。 映画『イノセント』の原作者でもあるイタリアの文豪ダンヌツィオへ、作家三島の私淑ぶり する評伝『ダンヌツィオに夢中』は、今までにない方向から切り裂く内容である。 三島由紀夫全集も筒井康隆全集も、大変興味深く読んだ者として、A型とB型にはさまれたO型 の位置に立たされる。建前と本音どちらも、人の虚構性を描くのに良い素材なのだが。 2005/01/12 『ものが壊れるわけ-壊れ方から世界をとらえる』マーク・E・エバハート (河出書房新社) 著者は6才の時、もし誰かがバターナイフでうっかり原子を切ってしまったら、核エネルギーが 解放されて大変なことになるという不安に駆られたという。 この不安がきっかけとなり、物が壊れる謎に惹かれるようになる。 古代から人類を悩ませ続けたこの現象は、化学が発達するとともに、どう変化してきたのかを問う。 原子、ビー玉、壊れ方 古代の芸術、古代の工芸 古代科学 脆化とめぐりあわせ 衝撃的、ただただ衝撃的 壊れないもの どんどんタフに タフじゃなければ なぜ、なぜと問うのか 正解、不正解、無益解 設計による材料―その内側 設計による材料―復活 壊れた、直さなきゃ 「いつとなぜとの混同はよくある誤解だ。人が理解しているのは、実はものがいつ壊れるかである。 他の現象もすべてそうであるように、破壊も二つの部分、原因と結果から成る。いつの問題は原因を 左右することにあり、なぜの方は結果を左右する」(本書より) 2005/01/10 『食の堕落と日本人』小泉 武夫 (小学館文庫) 「日本人は、2千年、3千年の間、繊維質中心の食生活をしてきた。 だから、遺伝子的にも急激な肉食を受け入れる環境が整っていない。 それが、ここ10年のうちに急激に肉食の比率が伸びた」近頃の子供も老人も「切れ」たりするのも、 食生活の偏りが原因になっているという。 「うまみ」を感じる舌の受容体が発見されたというニュースが、新聞・テレビなどで報道され話題と なった。 「うまみ」のもとになるグルタミン酸を感じる舌の受容体を米マイアミ大学のグループが 発見した。グルタミン酸は脳が活動する時に神経間で働く神経伝達物質でもあり、その受容体は 脳で発見された。この受容体と似た構造のタンパク質が舌にあるかどうかをラットで調べ、 味を感じる味蕾(みらい)という組織中に「mGluR4」というグルタミン酸に反応する分子が あることをつきとめた。 ここからがクンクンと匂う。 1908年、東京帝国理科大学教授の池田菊苗博士がグルタミン酸塩を主成分とせる調味料製造法」の 特許を取得した。昆布の「うま味」成分の研究により、「うま味」の主成分がアミノ酸の一種で あるグルタミン酸であることをつきとめ、その製造法の特許をとった。 翌年に鈴木製薬所(現在の味の素株式会社)により工業化され、新調味料は「味の素」と名附けられた。 アジアサンドローム http://www.gulf.or.jp/~houki/essay/zatugaku/whytravel/glutamine.html 科学調味料の怪 http://www.asyura.com/fromnet/ajinomoto2.htm 2005/01/05 『メソード演技』エドワード・D.イースティ /訳:米村 晰(劇書房) 演技は覚えるものではなく「戯」である。 転んで電柱にぶつかったというような状況を想定します。そんな場面が現実にあったら、 いちいち「どんな風に声を出そうか」などとは考えない。勝手に声が出るか、声を出さずに 我慢するかと色々な状況がある。そこには「痛い」という実感の声だけで、「実感」こそが セリフを生のライブ感覚へと醸し出す。 舞台上で「大地震だ!」と言う時には「地震」に対する視覚イメージを持っていなければ ならない。家屋がどの様に揺れてくずれるのか、津波から命を失わないよう反射的に肉体を どう移動させるのか。その時、顔面の表情その他「知覚」における「五感の記憶」という 想像力を呼び覚ます。 気のきいた俳優ならセリフを「覚える」という表現はしないだろう。 役の人格をインストールしておけば、自然にに生み出されてくるのが「セリフ」であり 「動き」であるから「覚える」必要はない。自分の動きをあらかじめ「覚えて」おいて 行動する人はいない。 言葉は雰囲気や「感じ」で使うのではなく、意味をしっかり捕らえて、より正確に相手に 伝わるように使うべきもの。あらゆる表現者にいえることで、熟考された表現は「心遣い」 「気遣い」につながり、熟考されない適当な表現は「空虚」につながる。 つまり客席に寒く空しい「気」が蔓延するわけだ。どう熟考され心遣いされ醗酵されるの かで、 表現者にとっての唯一無比の舞台となる可能性もありうる。 技や芸をみがくだけでは「アマチュア仕合い」にしかならないだろう。 いわば厨房現場の熾烈な状態を外側からしか見れない、美食家やソムリエたちの言葉に 耳を傾けることは、無益より負に近ずくようなものだ。 何故なら、食べる口からは料理は作れないし、待って出るのは糞尿のみ。 舞台側と客席側、演技者と評論者、作家と批評家など、いずれも後者が多弁(便)であること からも明らかである。そこから出る比喩や蘊蓄や分析には、創作におけるエンドルフィン とはまったく異質なベクトルだ。 奇数と偶数 、女と男、自然界と人間界、正と負ほどの境界があるようだ。 どちらがいいという性質のものではない、いいかえれば狂気と正気、なりたいほうを選ぶのは 自分一人しかいないわけだ。 演技や表現を目指す方たちには、批評分析のパラドックスには御用心。 その境界地点をうろうろしているのは、自称の「通」という、拘わると厄介な幽霊のような 存在たち。その世界では行動して生きられないから、ルサンチマンのように絡んでくるの かも知れない。 喰えない奴らよりも、食えるものを行動して作れる者たちの寡黙な姿に、多く学ぶほうが 健全です。 しかし本物のプロは専門学校のようには教えてはくれない。 その人それ自体が「生きたテキスト」そのものだからだワン。 2005/01/02 『悲劇の誕生』ニーチェ(中央公論社) ワーグナーは『オペラとドラマ』において、音楽=女性、詩=男性という等式を立て、 両者の婚姻からドラマが誕生するという「ドラマの生殖理論」を展開した。 ニーチェは『悲劇の誕生』において、それら音楽論に依拠しながら「夢の原理としての アポロ的なもの」と「陶酔の原理としてのディオニソス的なもの」の結合という独創的な 着眼した。総合芸術の圏域を突き抜け、生を讃美し歓ぶディオニソス的陶酔にも、 美的肯定を見い出すことになった。 『ツラトゥストラはかく語りき』という人の発達を示す寓話では、既存の価値観にただ 従う者を「駱駝」として、自らの価値を自ら設定する者を「獅子」として、最後に様々な 価値と自由に戯れる者を「子ども」として描かれ、あらゆる価値観に縛られず、 いっさいを無条件に肯定して自由に戯れ歓ぶことを求めた。 神は死んだし、すでにROCKも死んでいる。 そこから誕生するのはルサンチマンの喜劇である。 2005/01/01 『天使の結婚』 スウェーデンボルグ 天界はこの地上と同じく人類から成っているから、天使にも両性がある。 天界の婚姻というのは、ふたつの心を和合させてひとつの心とすること。 心は「知性」と「意志」という二つの部分からできている。 この二つのものが一つのように働くとき、ひとつの心という。 天界では夫は「知性の心」の部分を、妻は「意志の心」の部分を代表している。 この和合はもともと人の内心に起こるもので、身体に属する低い部分に下がってくるときに、 愛として知覚される。 天界ではこれは同棲と呼ばれている。 二つのものは一つであるから、天界の夫婦は二人の天使ではなく一人の天使といわれる。 「天界と地獄」より |
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