動乱時代(1) 「ボリス=ゴドノフ、そして兆し」


モスクワ大公国を「ロシア帝国」へ変化させつつあったイワン4世(雷帝)が亡くなったのは1584年(世界創世歴では7092年)であった。死の直前イオーナという僧名を自らにつけての他界であったという。彼の治世を「恐怖とある種の畏敬の念」から、ロシアの人々は永遠に忘れることができなかった。

イワン4世亡き後、ロシア宮廷では「鐘つき男」と生前雷帝にあだ名されていたフョードル皇子(次男)が即位した。しかし政治の実権は、聡明で穏和な性格の妹イレーナを嫁がせた「義兄」ボリス=ゴドノフが握りつつあった。ボリスは名門出身ではなかったが、かといって「無位無官」の出ではなく、その血は遊牧の民に近かったが、その心は西方を向いていた。

彼の家・・・ゴドノフ家は名門ではなかった。それはかつて「タタールのくびき」時代にロシアを支配した大モンゴル帝国の西方版図キプチャク=ハン国(ゾロターヤ=オルダ)の貴族の末裔であった。モスクワの北東372キロにコストロマという町があるが、この町にイパーチー修道院を建設(1330年代)したのが、ゴドノフ家の先祖でありタタール人貴族(ムルザ)のチェルトという人物である。彼はイスラム教を捨ててロシア正教に改宗し、名をザハーリーと改めた。ゴドノフ一族は彼を先祖とし、イパーチー修道院には多額の寄付を怠らなかったという。 (皮肉なことだが、ここが1613年3月4日のミハイル=フョードルヴィッチ=ロマノフ皇帝選出の場ともなったのである。なお、この修道院はロシアの歴史家であり小説家でもあるカラムジンが発見した『イパーチー年代記』で有名)  

ボリス=フョードロヴィチ=ゴドノフは、1549年あるいは1552年頃に生まれた。ちょうどモスクワ大公国がカザン=ハーン国との死闘に精力を傾けている時であり、父親はヴャジマの小領主であった。この父親は「隻眼」と渾名されていたが、あまり出世はせずにこの世を去った。兄ヴァーシリーは悪名高きイワン雷帝のオプリーチニナの隊員となったが、若いうちに病で死んでしまっていた。 幸いにも彼の父親の兄弟、つまりボリスの叔父にあたるドミトリーという人物がオプリーチニナの中から出世しており、モスクワで「宮廷寝殿官」という重職に就いていた。彼はこの叔父に連れられ、まだ15才になるかならいかのうちにオプリーチニクとなり、当時7歳くらいだった妹イリーナはモスクワの宮廷で育てられることとなった。オプリーチニナは残忍な行為とツァーリ(イワン雷帝)への盲目の忠誠心で、とくに名門の貴族達に恐れられていたが、そこはまたさしたる名門出でもない野心家たちの運命を、もしかしたら切り開いてくれるかも知れない場所であった。

ボリスは、この「恐怖と死」をまき散らす異様な集団の中で、オプリーチニナの隊長格「死刑執行人」として人々の恐怖と憎悪の的であったマリュータ=スクラートフの右腕として活躍し、その娘マリヤと結婚した。ツァーリ=イワン(4世)の寵愛を受けるマリュータの娘・・・その父親の評判はともかく、彼の運命は大きく動き始めた。

1575年ボリスの妹イリーナが、雷帝の息子フョードルと結婚した。これはゴドノフ一族にとって栄誉ある出来事であったが、この時点では「後継者」はもう一人の皇子で長男のイヴァンであったため、とりたてて重要な事ではなかった。ところが1581年、イワン雷帝はささいないさかいから「後継者」と決めていた長子イヴァン皇子を殴り殺してしまう。話しによれば、この時点でボリスはすでに皇帝の側近衆であり、皇子を守って雷帝を止めようとしたという。ボリスはこの事件の前年、イワン雷帝により「貴族」の称号を得ていたが、事件後はさすがにイワン雷帝とは気まずい雰囲気となってしまった。だが、結局はその才能と妹イリーナとフョードルの縁から雷帝の頼りとされ、国家運営を切り盛りするメンバーの一人に残った。

イワン雷帝の死去後、すぐにボリスに権力が集まったわけではなかった。彼は巧妙、かつ慎重に時期を待つことを選んだ。事をせいてしそんじればチャンスは永遠に失われることを認識しており、怖れていたのである。だが無論、なにもしなかったわけではなく、その間あらゆる手を用いて、政治権力の競争者たるボグダン=ベリスキーシュイスキー一門ナゴイ一族(皇子ディミトリー派)の封じ込めを実行した。それらがすべてうまくいって「ツァーリの義兄にして為政者」なる称号を彼が帯びるには、実に3年の月日が費やされたのである。

一方、新皇帝フョードルは暗愚と言われており、民衆はあからさまに「今度の皇帝はバカだ」と噂しあっていた。実際フョードルは、かつて雷帝が「鐘つき男」と呼んだごとく、善良で信仰心には汚れがない人物であったが、統治者としての義務に関しては不熱心であり、その能力もなかった。このためボリスはみるみるうちに政治の実権を握ってゆき、イワン雷帝の治世から行われていた諸事業を継承し、さらに「自らが理想とするロシア」の建設に力を注ぎ始めた。具体的には、まずコンスタンチノープルの総主教イェレミーヤが「喜捨」を求めてきたのに応じて、ロシアに「総主教」の座を設けることを迫った。これにより1589年、ボリスの友人でもある大司教ヨブが、最初のロシア総主教となって、東方正教会における権威ある地位をロシアにもたらした。さらに1590年、スウェーデンとの戦いにおいてロシアはバルト海への出口を再奪取。また国内政策では、商工業育成のため「ポサード建設策」を実施。ポサード身分による税収益の増加を図り、経済的にもロシアを強化した。

ところが1591年5月、フョードル皇帝の弟ディミトリー皇子がウーグリチで事故死(変死?)するという事件がおこった。事件直後、ディミトリー皇子の母親マリヤが「ボリスの刺客にやられた!」と叫んだため、人々の疑惑の目はボリスに集中し、ウーグリチでは怒り狂った群衆によって暴動が発生した。この事態にボリスは断固たる処置をとり、まずこの暴動の背後にいると思われたディミトリー皇子の身内・・・・ナゴイ家一族を投獄。皇子の母マリヤに修道院行きを命じ、彼女は「マルファ」という修道女名に名を変えた。暴徒も容赦なく攻撃され、大半の者はシベリアへ流刑となった。それで、ひとまずこの事件は終わったはずであった。しかしこの時すでに「実は皇子はひそかに逃れて生きている」という噂が立ち始めていたのである。

1598年1月7日、病弱でもあったフョードル皇帝がついに崩御した。行年41才、在位14年の短い皇帝人生であった。これによりモスクワ公家をダニール=アレクサンドル公以来代々受け継いできた血筋が絶えたことになってしまった。

ロシアの伝統に従って、さしあたって帝位はボリスの妹、故皇帝の妻であったイリーナの手に渡ったが、それは暫定的な帝位であった。彼女に「女帝」になる意志はなく、またそのようなことが許される時代でもなかった。
この時、ボリス擁立に大きな役割を演じたのが総主教ヨブであった。彼が貴族のみならず民衆に訴えかけられる立場にいたことは大きかった。

だが、情勢は激しく変化していた。まずイリーナが暫定的に帝位についてからわずか1週間でイヴォジェーヴィチ修道院に閉じこもり「女君主にして修道女アレクサンドラ」と名乗った。このとき、ボリスは政務を行わず自邸に閉じこもったため「重病らしい」という噂が貴族達の間に流れた。そしてフョードル皇帝に愛されていたロマノフ派貴族たちは、イリーナが宮廷を離れたのを「好機」と見て、ロマノフ家擁立のため密かに活動した。しかもこの重大時期に、ボリスはまるで妹を追いかけるようにイヴォジェーヴィチ修道院に引きこもってしまったのである。

だが、士族階級や商人、開明的な一部聖職者や貴族はボリスを支持していた。ボリスの政策は全体としては十分に機能していなかったのであるが、それでも一部の人々からの支持は確実に存在したのである。また「親ゴドノフ派」の策謀家達も動きだし、人々を扇動。民衆はボリスの隠った修道院へ「帝位につくよう懇願」しに列をなした。その結果、2月17日フョードル皇帝の喪が明けると同時に「全国会議」が召集された。場所はクレムリン内の総主教館で、人数は500人前後であったと言われる。これには聖職者、貴族はもちろん、士族、民衆の有力者達も参加した。そして翌18日、ボリスが帝位につくことが決定され、ヨブ総主教はウスペンスキー寺院でミサをあげた。20日には引きこもっているボリスとイリーナにたいし「ボリスが皇帝に選ばれた」ことを告げる行列行進が行われ、ボリスは型どおりこれをいったん固辞した後、翌々日の21日承諾した。

この後、いくつかの紆余曲折があった後、ボリスは帝位につくが、その際少し興味深い出来事がおきている。1575年イワン雷帝が帝位につけたことのあるカシモフ=ハン国の汗、シメオン=ペクブラートヴィッチを帝位につけようという策謀が反ボリス派の貴族達におこったのである。シメオンはジンギスカンの末裔(その長男ジュチ、その子バトゥの末裔)といわれており、ゴドノフ家がタタールの家系なら家系的にはシメオンの方が上であった。しかもシメオンはムスチスラフスキー公の娘と結婚し、モスクワ大公家の親族でもあったのである。
シメオンは一度イワン雷帝によって「モスクワ大公」の座に「つかされた」事があった。事の狙いがどこにあったのかは議論の別れるところだが、雷帝が復位後も「トヴェーリ大公」の地位が与えられるなど、シメオンは優遇された。しかし雷帝死去後、シメオンはボリスによって大公位を失い、クシャリノの寒村に流されていたのである。

雷帝時代の寵臣で、ボリスとは対立する陰謀家ベリスキーによるロマノフ派とムスチラフスキー家という門閥貴族の連合がなったことから、シメオン擁立はそれなりに具体的な計画であったらしい。だが、これらの動きを悟ったボリスによって「クリミア遠征」の命令が出され、戦争の準備に負われている間におじゃんになった。外征という大義が、陰謀を消滅させたのである。むろん、遠征はそのためのポーズにすぎなかった。(しかし1598年壊滅したシビル=ハーン国クチュム=カンの皇子に対してボリスは丁重な態度をとっている)

だが、ボリスの即位は名門の諸侯、特に皇族に連なるもの達の敵意を浴びていた。ボリスの政策は一貫して「国家体制の強化」にあったからである。しかしボリスはイワン雷帝のようにすぐに「処刑」という手段はとらなかった。むしろこれを避け、多くの者を流刑に処した。これにはロマノフ家も含まれ、1601年「ツァーの暗殺を謀った」として、後に「大君」と呼ばれることとなるフョードル=ロマノフも涙ながらに剃髪し、修道院へ赴かざるおえなかった。

こうして政治的権力を確立したボリスだったが、1601〜3年まで続いた飢饉により農村部は荒廃。ボリスは国庫の保存穀物の困民への分配を指示したが、貴族・聖職者による横領などで十分行き渡らなかった。ここに大量の難民が生まれ、ロシア全土をさすらうが、ボリスはこれを殲滅するよう命令。皇帝の将軍達はこうした軍団の指揮者を残忍に処刑した。このため農奴やカザークたちは、この時のことを後々まで忘れなかった。

一方、そのころウクライナの貴族アダム=ヴィシネヴェツキーのもとに「イワン4世の子皇子(ツァーレヴィチ)ディミトリー」を名乗るものが現れた。ヴィシネヴェツキーが何をどう信じたのか、あるいは信じなかったのかはわからないが、とりあえずその「皇子」はヴィシネヴェツキーの親戚でサムボム(サンドミール)に居するユーリー(イェジー)=ムニーシェク公のもとに送られた。そこでムニーシェク公によって「正当なるディミトリー皇子」として認められた後、ポーランド国王ジギスムント3世が彼を謁見し、ここでも正当なツァーレヴィチ(皇太子)であると認められた。そこでこの「皇子」は「祖国への帰還を果たしたい」と希望を述べ、ジギスムント国王の了解を取り付けた。ただし兵馬の援助など具体的な事柄は、国王はぼかしていた。当時、王室にはそのような野心家を唆している時間も、金銭的余裕もなかったのである。
だが自称「ディミトリー皇子」(以後「偽ディミトリー1世」と呼ぶ)は、野心的なムニーシェク公を説得し資金援助並びに冒険的なポーランド騎士達の義兵を募った。また彼は、ムニーシェク公の娘マリーナとの婚約を望み、許された。これはムニーシェク公と偽ディミトリー1世の腹のさぐり合いの末、結ばれた陰謀の紐帯であり、非常に打算的なものであった。

1604年10月頃、「ディミトリー皇子軍(偽ディミトリー1世軍)」は1100人のポーランド騎兵、500人の歩兵、1000人に達するかどうかというロシア人の支持者(主に逃亡者や皇子の噂を聞いて駆けつけてきた人々)とともに、ドンとザポロージェ=カザークの合流をあてにして進撃を開始、ドニエプル河を渡った。これは常識的には無茶な冒険であった。ロシア=ツァーリ政府側には、これに十倍する兵力が存在し、しかも季節は冬に向かおうとしていたからである。


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