動乱時代(2) 「偽ディミトリー1世の栄光と死」


「偽ディミトリー1世」(コストロマの小貴族出身の修道院脱走者グレゴリー=オトレピエフだとも言われている)は、出陣に先立っていくつかの約束をポーランド王、ならびに貴族達と交わした。まず彼自身がカトリックに改宗すること、ロシアへの「帰還」(征服?)の後には、全ロシアをカトリック化する、というものである。これは当時ジェズイット会が暗躍していたポーランド、そして熱烈なカトリック教徒であった国王の意に添うものであった。しかしさらに国王ジギスムント3世は、さらにスモレンクス、セーヴェル(チェルニゴフ)の地を要求。偽ディミトリー1世はこれものんだ。また偽ディミトリー1世は、婚約者マリーナの家、ムニーシェク家に対し「ノヴゴロド・プスコフ」の両地方の割譲、ロシアの歴代大公が貯め込んだ貴重品の贈与など莫大な利益を約束したのである。当然ながら「将来の妻」たるマリーナ=ムニーシェクには、ロシア帝国の「ツァーリツァ」(皇后)の地位が約束されていた。ムニーシェク公にとって、この利益はまさに天の助けだった。(彼は国王に税金の滞納で莫大な追徴課税を迫られていた)

しかし、進軍してまもなく偽ディミトリー1世軍はいきずまってしまった。いくつかの小都市はほとんど無抵抗で彼らを迎えたが、ボリスの命令のもと近代化を図っていたツァーリの軍(士族中心)は強力で、ポーランド王が約束した後続の援軍もなかなか到着しなかったのである。あらかじめ参陣することを唱えていたザポロージェ=カザークは、モスクワからの軍勢を怖れて約束した援軍にこず、おまけに1604年末のノヴゴロド・セーウェルスキーの包囲戦では偽ディミトリー軍は完敗した。さらにボリスの命により、強力な軍団が「反乱」鎮圧のため派遣されたことを知ると、彼はとりあえずこれを避けようとしたが、セーフスクに近いドブルイニチィ村で捕捉され、軍は壊滅した。彼はかろうじて逃げおおせ、わずかな敗残兵とともに自発的に門を開いたプチーヴリへ脱出せざるおえなかった。「奇跡」は消え失せ、彼の進軍はここに全く封じられた・・・かにみえた。

一方、ロシア各地では「カザーク」(コサック)や逃亡農民の反乱が相次いでいた。その数は日増しに増え、「正当な血筋・正当な権力・正当なツァーリ」を求めてツァーリ・ボリスの軍に反抗した。とくにカザークたちは過激で、領主や貴族の屋敷を襲撃しての略奪行為も日常茶飯事と化しつつあった。こうした傾向は1601〜02年にかけて続いた飢饉の頃からあったのだが、いったん静まりかかった反乱に再度火を付けたのは「ディミトリー皇子再臨」、その奇跡の伝説の現実化によるものであった。

そして・・・ボリスはこの混乱の中、一子フョードルを後継者に指名すると、そのまま亡くなる。1605年4月13日のことであった。彼の晩年は魔術師に頼ったり、フョードル皇子につきっきりだったりと精神的退廃が目立ち、尊敬する故エリザベス女王の事を思って外交官を前に泣くなどの行為もあったという。さらには彼の愛娘であり、絶世の美女であったクセーニャ=ボリソヴナの婚約者達の謎の死について、人々はボリスの責任ではないかと噂しあっており、そのことも彼を精神的に疲れさせていたらしい。

彼の死に関しては自殺の説もあるが、根拠はない。

とにかく、一つの巨大な柱が帝国から失われたのである。

ボリス亡き後、3日して貴族と聖職者の会議は16才のフョードル=ボリソヴィッチを「ツァーリ」として即位させた。その一方、ツァーリ軍の総司令官であったムスチスラフスキー公が更迭され、ロストフスキー公が総司令官となり、バスマーノフ公が副司令官となった。バスマーノフはゴドノフ一族と近い人物であり、また戦上手としても知られていた。彼は偽ディミトリー1世軍を撃破してもいたし、行動的で勇敢であった。このためクロムィまで進出してきた偽ディミトリー1世軍と戦えるのは「彼しかいない」として送り出されたのだが・・・その肝心の軍中には不満がくすぶっていた。彼はフョードル即位に対しすぐに全軍兵士の「宣誓」を要求したが、長い戦役にあき、偽ディミトリー1世に少なからず親近感を抱く者も多かった兵士らには不満が満ちていた。そして実はバスマーノフ自身も、複雑な胸中であったのだ。彼はボリス個人とは信頼関係にあったが、その妻でマリュータ=スクラートフの娘マリアとその息子には特別なつながりはなかった。いや、彼の祖父や父を讒言で殺したマリュータの娘に、恨みに近い心情をいだいていたかもしれない。しかも「偽ディミトリー1世」に近ずいていたゴリツィン公と彼は、母方の血族だったのである。陰謀は、ここに芽生えた。

もはや事態は、偽ディミトリーの進軍再開を待つだけのものとなった。一番乗り気だったムニーシェク公や少なからずのポーランド兵が脱落するなど、僭称者側の士気はかならずしも高くはなかったが、次第に高まってくるモスクワ方の不協和音が彼らに有利に働いた。
ノヴゴロド=セーウェルスキーでの敗北後、偽ディミトリー1世はプチーヴリに籠もっていたが、彼はここで初めて公式に「ツァーリ」を名乗り、ボリス死後は部下達に貴族会議に参加できる身分を与えた。5月7日、バスマーノフ、ゴリツィン公、リャザンの士族リャプノフ率いる一軍は、クロムィ前線で反乱蜂起。数的にはたしたものではなかったものの、大量の物資が偽ディミトリー1世軍に渡った。この結果偽ディミトリー軍は進撃の力を得て、5月16日にプチーヴリを出発。ゴドノフ王朝側の激しい攻撃をもっぱら避けながら進撃し、非常にノロノロとした歩みではあったが、着実にモスクワに近ずいていった。

このような状況の中、クレムリンの貴族達の中でも重きをなしていたシュイスキー公は、ボリス生前に「ディミトリー皇子は確かに死んだ」と言っていたにもかかわらず、偽ディミトリー1世からの隠密の使者がくるとこれを撤回した。偽ディミトリーの使者に恭しく跪き「ディミトリー皇子は神の恩寵により生きておられる!」と誓ってみせたのである。この事実は隠密たちの手でモスクワ市内部にまき散らされ、モスクワ内部の偽ディミトリー1世支持派を勢いずかせた。そして市民達の間に「ゴドノフ一族への断罪」の声が高まると、それは「暴動」へと発展したのである。あきらかに「仕組まれた」暴動であった。

この暴動のため皇帝フョードルは暴徒らによって幽閉された。またゴドノフ一族は言うに及ばず、サブロフ家、ヴェリヤミノフ家などゴドノフ家シンパと見られた家の者も襲われ、その後偽ディミトリー1世軍がモスクワに近ずくと、貴族らによって殺された。そしてすぐに彼の母親も、息子と同じ運命をたどった。フョードルの姉、絶世の美貌で知られたクセニア姫は、弟の殺害を見せつけられた後、投獄された。(この殺害は偽ディミトリーの使節団がモスクワに入ったとき行われたとされている)  ゴドノフ王朝はここに崩壊した。

偽ディミトリー1世にモスクワへの道が開かれた。かつて「奇跡さえおこれば」と願っていた事が、今現実として彼の前に開けたのである。モスクワの貴族たちはこぞって彼への「忠誠」を宣言し、その貴族代表団はトゥーラでノロノロしていた彼の陣営に参じて平伏した。偽ディミトリー1世は彼らを出迎えた後、セールプホフ市を経由して6月20日、モスクワに入城した。この時、彼は「偽」でもなければ「1世」でもない「真のツァーリ・ディミトリー」として、モスクワ市民に迎えられたのである。

だが偽ディミトリーの地位は安定したものではなかった。彼は若く、正教徒のシンボルとも言える髭もなく、おまけにポーランドの金で雇った傭兵部隊に身辺警護させていた。モスクワ入城の際でも、彼の部隊として真っ先に入城したのはポーランド兵であった。これは偽ディミトリー1世のそれまでの経緯からして、当然と言えば当然だが、モスクワの人々には「ロシアの皇帝がポーランド人に守られている」と映った。

クレムリン入城後、偽ディミトリー1世はカザークを中心とする兵士による警備で身辺を固め、すぐ側にはポーランド兵を置いた。ゴドノフ派であったヨブ総主教は罷免され、リャザンの士族の実力者リャプノフ兄弟の推すイグチナー大主教が昇格した。さらに大貴族の実力者シュイスキー公を「謀反」の罪等々で逮捕し、裁判にかけ、「死刑」にするところを一等減じて「流刑」とした。
偽ディミトリー1世は、政権維持のためやつぎばやに行動を起こした。ディミトリー皇子の実母マリヤに「自分が息子である」ことを認めさせ(マリヤは驚くべき事に見事な「親子対面劇」をやってのけた!)、さらに協力してくれたカザークたちのために、飢饉中「逃亡・身売り」したものにたいする「自由」を保証した。さらに領主らに対しては「農民の移動禁止令」を復活している。これは農民が勝手に移動することを禁ずる法令であり、領主に対し農民の「農奴的」服従を強いるものであった。彼の政策は、あきらかに彼を支持する者達の方へ向いていた。

 だが・・・これらの手段でもロシア人の心を掴んだわけではなく、むしろ農奴令は支持基盤である「カザーク」の分裂を促した。それに彼にはもう一つやっかいな問題があった。ポーランドでの約束、ロシアのカトリック化である。だが、これは口にするのもやっかいであった。すでに正教会の司祭達は「偽ディミトリー」に反意を抱き、それが本物であるかどうかという点はともかく、その「異教的」言動に警戒の眼差しを向けていたからである。偽ディミトリー1世は宗教に偏らなかったが、これは「ツァーリ」としては決して賢明な事ではなかったのである。

そして、彼にとって決定的な事態がやってきた。最愛のマリーナ=ムニーシェクが、ロシアに利権を求める貴族達とともにモスクワに来たのである。それは表面上盛大この上ないもので、偽ディミトリー1世はわざわざモスクワ郊外にマリーナを出迎え、1606年5月8日豪華絢爛たる結婚式を執り行った。しかし結婚式に関して、マリーナやポーランド貴族らは「カトリック式」を要求し、ロシア側の「正教式」を拒否するなどの騒動があった。偽ディミトリー1世はこの問題のためローマ教皇に使者まで派遣して「正教式」の許可を得ようとしたが、教皇はこれを断固拒絶し、マリーナも正教式の儀式に中途半端に参加しただけで終わった。式典自体は豪華であったが、ポーランド人とロシア人の仲は一層悪化の度を深めていた。しかも結婚式後の宴会では酔ったポーランド兵がモスクワ市街にあふれ、乱暴狼藉の限りを尽くしたのである。モスクワ市民の怒りは頂点に達した。

1606年5月16日の夜半、それはおきた。まず、モスクワの勤務公の一人が、モスクワ城外に駐留していたノヴゴロド軍をクレムリンへ導き入れた。ノヴゴロド兵たちは、偽ディミトリーを快く思っていなかったのである。続いてシュイスキー公が火事の広場(後の赤の広場)で群衆を扇動し始めた。彼は最初「ポーランド人の攻撃だ!」と叫び、「ツァーリを守るよう」よびかけたという。そうやって人を集め、その内容を次第に「正教徒の敵を倒す」という風に変えたのである。しかし、この時点では集まった群衆も偽ディミトリー1世を倒そうという意志はなかった。そのとき、ようやく日が昇りつつあった。
一方、偽ディミトリー1世はまだ朝のまどろみの中にいた。そこへシュイスキーの弟が「陛下、ちょっとした火事でいささかさわがしゅうございますな」と言ったため、いつになく騒がしい外の気配に彼が気を払うことはなかった。だが、この言葉は計画されたものであった。この時点で扇動された群衆と武装兵はクレムリンを完全に包囲し、偽ディミトリー1世の警護兵ら(クレムリン防衛兵:ポーランド兵)は追い散らされていたのである。そして偽ディミトリーの背後には、凶器を手にした書記官(チモフェイ=オシポフ)が近寄っていた。

しかし、勘の鋭い彼はこれを間一髪で斬り殺し、窓に走った。すると外にはなにやら群衆が武器をもってひしめいている。彼はクーデターであることを悟り、とっさに窓辺で群衆に向かい  「余は汝らのボリスではない!」 (あのボリスのようには倒されないぞ!・・・という啖呵) と叫ぶと、通路にひしめいていた兵士らを斬り殺しながら逃亡の道を切り開こうとした。このとき彼の側にはバスマーノフがいて、彼はこれが「反逆」であることをしきりに攻撃者達に演説したが、貴族に扇動された群衆はききいれずバスマーノフに襲いかかり、ついに彼を殺してしまった。偽ディミトリー1世は、ここに進退窮まったが、そこでドイツ人の護衛兵達と合流し宮殿の奥へ退いた。そこで激烈な攻防戦を繰り広げた後、彼は部屋を脱出し宮殿の窓から逃亡しようとして失敗し、足をくじいて動けないところを捕らえられたのである。

 最後の時、足をくじいて動けない彼に一人の男が銃を突きつけこうたずねた。
 「おい、お前の本当の名前はなんだ?」
 すると彼はこう言った。  
 「余はお前達のツァーリである」・・・・・・・・と。
男の引き金は引かれた。彼の死骸はバラバラに切り刻まれ、一定期間見せ物にされた後、焼かれ、その灰は大砲に詰められてポーランドの方に向けて発射されたという。これは彼に対する憎しみのあまり・・・というより、むしろこのような大胆不敵な人物に、なにか圧倒的な恐怖を感じたからであろう。事実彼の死は、民衆レベルではすぐにはなかなか信じられなかった。いや、その後も彼が「生きている」という伝説は消えなかったのである。

一方このとき、彼の妻であるマリーナは暴徒らの声を耳にしてめを覚まし、恐怖感と危機意識に促されて着替えもせずに自室を飛び出した。途中で侍女達とポーランド人衛兵隊に合流できたが、彼らの抵抗はかえってクレムリン内に攻め込んできた暴徒たちの怒りをかき立てただけであった。そして衛兵隊が無惨に殺され、ついに地下室に追いつめられたマリーナと侍女達は、わずかに生き残った衛兵ともに籠城したが、すぐにその扉は打ち壊された。マリーナは恐怖のあまり侍女のスカート(当時流行の骨つき)の下に隠れたが、その直後、部屋で繰り広げられた残酷な光景を目の当たりにすることとなった。彼女はやがて捕まったが、その時彼女は恐怖に震えながら「父のところへ帰して」という言葉を執拗に繰り返したという。  そしてロシアの帝位は、この暴動の火付け役であったと思われるヴァシーリー=シュイスキーの手に落ちたのである。

だが、動乱は静まる気配すら見せなかった。それどころか、彼の流した血に刺激されたかのように、次々と不敵な者達が頭をもたげ、「我こそはツァーなり!」と叫び、いたるところから蜂起の狼煙を上げたのである。


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