動乱時代(3) 「貴族のツァーリ」


ゼムスキー・ソボール」は行われなかった。シュイスキーは自分が次ぎのツァーリになることに何の疑問も持たなかった。彼はこのために、長い間耐えてきたのだ。それに彼には数こそ少ないが強力な支持者がいた。ある特定の権利者達・・・ボヤーリン達が。ボリスを支持したことのある士族階級、町人たちは権力から疎外された。1606年5月19日、クレムリン前で伝統に則りシュイスキーの名がおごそかに叫ばれたが、そこに集まった群衆の中には、シュイスキーの雇った「さくら」が大勢混じっていたという。
 
抜け目ないシュイスキーは、自らの支持基盤を固めるため、即位の際「十字架接吻の書」を作成。貴族会議の同意なしには、なにごとも決めないと宣誓した。これはツァーリの古い権利の一つである「被告の近親者の財産没収権」などの放棄も意味した。そしてツァーリの権力が小さくなるのに連れ、貴族の権利は拡大した。富裕な貴族達は実入りのいい官職を奪い合ったという。だが、こうしたシュイスキーの政策が士族、町人、カザークたちに評判がいいわけがなかった。モスクワには不穏な空気が流れ、それを察した貴族達は「フョードル殺害」のような暴動を恐れ、クレムリンを大急ぎで武装させた。

一方、地方では反乱が相次いで起きつつあった。 偽ディミトリー1世の死の年、1606年の秋、ロシア南西部の諸都市で逃亡農民、奴僕らの反乱発生した。反乱の規模が拡大するに連れ、さらにこれにカザーク、下級士族等が合流し、オカ川下流の東ではモルドワ人がロシア人とともに蜂起、アストラハントヴェーリプスコフノヴゴロドでも次々と蜂起が発生した。このためロシア帝国の版図は反乱によって寸断された。そしてそれらの中で、きわめて大きくなったのがイワン・ボロトニコフの反乱軍である。

彼もまた正体不明の男で、盗賊あがりから小貴族出身というものまで諸説雑多だが、とりあえずドン・カザークのアタマン(首領)になっている。彼はどうも偽ディミトリーの支持者、モルチャーノフなる怪人物の手によりポーランドで「自称ディミトリー」(これについては疑わしい説あり)という人物にあい、そこでプチヴリの貴族、シャホフスコイ宛の密書を託され、同時に「ツァーリ・ディミトリー軍の総司令官」に任命された。彼はとりあえずプチヴリへ進軍。かつて偽ディミトリー1世に心服し、その統治に協力したシャホフスコイ公と合流した。そこで彼は公然と「シュイスキー打倒」を宣言。1607年7月プチヴリを発し、途中で「僭称者ピョートル皇子」を擁するチェレクのカザークなどと合流しながら、モスクワを目指した。ボロトニコフはクロームイとウグラ河畔で、ツァーリ軍を撃破。10月までには10万余の大軍となってモスクワを包囲した。

ただ、この大軍には弱点があった。士族、カザーク、農民などの混成軍で、士族を率いたリャプノフ兄弟、バシコフとは仲がよくなかった。このため作戦は諸身分で食い違い、さらにボロトニコフがモスクワ内の貧民、下層市民に蜂起を呼びかけたため、士族身分で構成されたリャプノフ部隊が反乱。続いて11月、うって出てきたツァーリ軍との戦闘では、バシコフも裏切った。士族には下層民達の蜂起は「脅威」に思えていたのである。12月4日、ボロトニコフのモスクワ包囲軍は撤退。ボロトニコフはなおも地方で強力な抵抗を続けるが、シュイスキーの「士族まるめこめ作戦」がうまくいき、トゥーラの街でシャホフスコイ、僭称者ピョートルとともに捕らえられた。

争乱は終わった・・・ボロトニコフは流刑の途中で暗殺、僭称者ピョートルは絞首刑、シャホフスコイは追放刑・・・だが、シュイスキーの心は静まらなかった。恐るべき噂が国内を駆けめぐり、全ロシアを揺るがしていたからである。1607年、その「噂の人物」は再び因縁の地・・・・ポーランドとの国境に現れた。すなわち「偽ディミトリー2世」である。

 「前年モスクワで殺されたのは別人で、本人はなお生きている!」たわいもない噂であった・・・噂であるはずであった。しかし偽ディミトリー1世と同じくポーランドの騎兵部隊を引き連れ、さらにザポロージェのカザーク、ドンのカザークに守られ、この「僭称者」は一気にモスクワ目指して進軍を開始したのである。それは以前のものよりも力づよい進軍であった。1606年ポーランドでは、おきまりの有力貴族による王権力への反乱「ロコシュの乱」がおこっていたが、これに破れ、新たな領土をロシアに求める血なまぐさい敗北者たちも、これに従っていた。このため、気合いの入り方が前回と違った。一方、ツァーリ軍の士気は低く、1608年5月にはボルボフでツァーリ軍数千人が寝返った。さらにこの「僭称者」に続けといわんばかりに、ロシア全土で蜂起が続いた。貴族の館が襲撃され、火を付けられ、略奪を受けた。富裕な市民達は「ここぞ」とばかりに市の実権を貴族達から奪うべく、蜂起を煽動した。あちこちの都市で虐殺が行われ、「ディミトリー皇子の名において」刑が執行された。

 ロシアの古き秩序どころか「秩序」そのものが倒壊しつつあったのである。


【第4章 トゥシノの皇帝へ】

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