動乱時代(4) 「トゥシノの皇帝」


シュイスキーは、ツァーリ即位の際わざわざ「皇子ディミトリー」の遺体をモスクワに運び、人々に見せたが、貴族はともかく一部市民たちは「奇跡」を信じ、ディミトリー皇子の生存を信じ続けているものもいた。こうした迷信を何より嫌ったのは、皮肉にもシュイスキーのかつての敵、ボリスであったのだが。

人々はまた新しい伝説を信じた。「正しいツァーリの帰還」を。

だが偽ディミトリー2世について、知ることのできる資料は少ない。ただ彼が偽ディミトリー1世の顧問役を買って出ていた陰謀家ミカヴェーツキィと、トゥーラのボロトニコフから派遣されたというこの動乱時代の怪人物の一人、イヴァン=マルティノヴィッチ=ザルツキーに擁立されていたこと、ポーランド王の宰相、ヤン=サペーガより7千500名の歩兵と騎兵を得、またロジンスキー将軍が引き連れてきた4千の軍団を指揮し、ドン、ザポロージェのカザーク軍団と合流して、ロシアに進軍してきたことは確かである。

1608年春、ボルホフでのツァーリ軍部隊の寝返り、それにつづく「僭称者2世」軍の勝利・・・同年6月には、偽ディミトリー2世の軍はクレムリンの西北わずか数キロの「トゥシノ」の村に陣地を構築。長期戦の構えをとってモスクワを包囲した。(これにより偽ディミトリー2世は「トゥシノの皇帝」、あるいは「トゥシノの盗賊」と呼ばれるようになる。ちなみにロシアでは、「罪人」を「盗賊」と呼ぶことがあった) この「僭称者2世」の実態は、白ロシア生まれのイヴァンという僧侶だとも、あるいはユダヤ人だとも言われている。しかしともかく、彼はあらゆる面で容貌の類似以外は最初の「ディミトリー」に劣る人物であった。

また、今回の僭称者軍には、いささか前回と違った雰囲気があった。その理由は、ポーランドの著名な将軍達が加わっていたことにある。これはポーランドの反乱騒ぎのおかげであったが、戦力は著しく強化されていた。しかし、このことで僭称者自身の権威をないがしろにする雰囲気もあり、トゥシノ陣中の指揮系統は乱れていた。

そしてミカヴェーツキィは、最初の偽ディミトリー1世に若干とはいえ抱いていたような「敬意」を、今回自ら推戴した人物には抱かなかった。「1世」のあの大胆不敵さと勇敢さを、今回の僭称者にはのぞむべくもなかったのだ。今回の僭称者は短気で、落ち着きが無く、やくざな性格であった。ほどほどの知性も教養もあったが、ミカヴェーツキーはポーランドの将軍ロマン=ロジンスキーと対立し殺されるまで、この僭称皇帝を「脅し、なだめすかし」しながら巧みに支配した。そして殺した者も、同じように僭称皇帝を支配しようとする。

一方、モスクワ政府は震駭した。前回の僭称者はまだ素性が察せられたが、今度のはまさしく「どこの馬の骨ともわからない」やつなのである。しかも、彼に付き従うポーランド兵は、前回にまさるとも劣らず戦闘意欲にあふれており、虐殺、略奪に血道を上げていた。おまけに厳しい包囲により、モスクワの食料は尽きてきた。飢えた民衆は偽ディミトリーに共感を示し始め、士族はともかく、貴族までもが「偽皇帝」のもとに走った。すでに偽ディミトリーは、こうして彼に協力する貴族達に「知行地、その他褒賞」のお墨付きを発行していた。中には抜け目なくモスクワとトゥシノを往復する者まで現れたという・・・彼らは「渡り鳥」と呼ばれた。

偽ディミトリー2世軍はトゥシノに腰を落ち着けると、要塞建設後モスクワ周辺部への攻撃を進めた。とくにトロイツェ・セルギエフ修道院は猛攻されたが、要塞のような修道院はポーランド兵の攻撃にも耐えた。さらに、修道院内部の者たちは時に「出撃」して、敵に大きな打撃を与えたという。偽ディミトリー2世軍の攻撃はモスクワへの食料・物資供給の主要な街道であったヤロスラヴリ街道を押さえるためのものであったが、この修道院の執拗な抵抗で長期戦化してしまう。そして他の方面でも偽ディミトリー軍の戦果はかんばしくなく、これを見たシュイスキーは再びお得意の「裏工作」に着手した。

先の僭称者「偽ディミトリー1世」とマリーナ=ムニーシェクの結婚式の際、モスクワには多くのポーランド人兵士・貴族がきていた。それが1606年5月16日の事件で多くは殺されるか捕らわれるかしたのだが、彼はこの「捕虜」たちを材料にポーランド王に「偽ディミトリーに貸した兵の引き取り」を要求したのである。これはポーランドの有力貴族のご機嫌をとっておかなければならない王にとっても願ってもないことであった。

しかしこれはシュイスキーにとっても王にとっても、思いがけない結果を生む。帰国を条件に「偽ディミトリー1世の妃」マリーナは解放されたのだが、マリーナはその取り巻きと一緒に、なんと「トゥシノの皇帝」のもとに走ってしまうのである。(ただし父親ムニーシェク公は帰国)しかも肝心のポーランド人たちは「せっかくのチャンスなのに」とばかりに、王の帰国命令を拒否してしまう。またこの頃ロマノフ家の家長フィラレート(元のフョードル)も、何らかの意図を秘めてトゥシノ派に表面上「逮捕」される。ところがそれからすぐに彼は「トゥシノの総主教」として登場。トゥシノ皇帝派の重鎮として活動をはじめる。彼の動きはさらに「渡り鳥」たちを活発化させ、シュイスキーは次の手を打たざるをえなくなる。 

トゥシノ皇帝派は、次第にモスクワ周辺部の支配から、北部地方を目指して進むようになった。だがカザークの評判は悪く、さらに輪をかけてポーランド兵の素行はよくなかった。しかし強力なポーランド軍のお陰で、1608年末頃にはトゥシノ派はモスクワ北部・東方のヴォルガ河沿いの多くの都市を占領する。

これに対し北西部の諸都市は互いに連絡を取り合いながら連携を強め、市民は自衛軍を組織してトゥシノ軍に立ち向かった。  だが北部諸都市にとってシュイスキー支持が絶対だったわけではない。せいぜい「まだましだ」という程度のもので、シュイスキーは自分の権威が日に日に失墜していくことに恐れを抱いていた。それは何時になってもトゥシノから僭称者を取り除けない事への、貴族達からの無言の非難で明らかであった。

しかし、ここに思いがけない助けが彼のもとを訪れる。半分諦めかけていた対スウェーデン交渉がまとまり1608年秋、カール9世から援軍派遣了諾の返事がきたのである。それは、かのボリスが回復した「バルト海の道」を犠牲にするものではあったが、もはや手段は選んでいられなかったのである。  スウェーデン国王カール9世は、またポーランド国王ジグムント3世のライバルであった。ジグムントは元々スウェーデンのヴァーサ朝の出身であり、1593年スウェーデン王位にも就いたが、その熱烈なカトリック信仰から99年貴族達により廃され、叔父カールがその後を継いでいたのである。そして1600年以来、両国は対立関係にあった。  

ロシアの交渉役はシュイスキーの甥、スコピン=シュイスキーで、彼は叔父と違い性格的に明るく、武勇に優れ、政治的視野も広く、多くの人に好感を与えた。彼は1609年4月、ド=ラ=ガルディ将軍麾下の5000のスウェーデン軍とノヴゴロドで合流。6月半ばにはトヴェーリ前面でトゥシノ皇帝軍を撃破。途中、スウェーデン軍の傭兵部隊が給料不払いから戦線離脱したが、スコピンは北ロシア諸都市の協力で軍勢を自力再編。翌年1月にはセルギエフ修道院を解放し、3月にはモスクワに入城した。

この攻勢に対して、トゥシノ派は大きく動揺した。1608年4月24日ヴォルコフでの決定的な勝利によりトゥシノ皇帝はモスクワ近郊の寒村に宮廷を構えていたのだが、モスクワそのものの攻略戦に対して彼の旗下の大部分を占めるポーランド兵は熱心ではなかったのである。最初のディミトリーによる「権力独占」にこりごりしていた彼らは、その徹を踏むことを恐れていたのだ。また僭称皇帝の権威が弱いことから各将軍達の内紛が激しく、とくにポーランド人のヤン=サペーガと、自称「全軍指揮官」ロジンスキーの対立は軍を2分していた。そしてこの時期スコピン率いるツァーリ軍に、ヤン=サペーガのトロイツァ=セルギエフ修道院攻撃軍が完敗した結果、僭称者軍の戦力は著しく減少した。

そんな最中、ロシア遠征の準備を進めていたポーランド国王ジグムント3世はトゥシノ宮廷にいるポーランド人貴族達に「国王軍に参陣せよ」と呼びかけてきた。これには次第に前途に希望を失いつつあったトゥシノのポーランド人達にとって抗しがたい魅力があり、「ロシア帝位はポーランド国王か、その皇子ウラジスワフに」という意見でまとまってきた。  だが、これを察した偽ディミトリー2世は仰天。1609年末、彼は一部のカザーク部隊とともにひっそりとカルーガへ逃亡した。これはあまりにも秘密裏に行われたため、トゥシノの陣営は動揺。しばらくの間こそ「陣中共和制」を保って陣営を維持していたが、やがて自壊に向かった。

マリーナは一人おいてきぼりをくらい、陣営の有力者の一人ヤン=サペーガのもとにひとまず身を寄せた。だが、サペーガが彼女に故郷に帰るように勧めたとき、 彼女は「全ロシアの皇后(ツァリーツィン)ともあろうものが、おめおめ恥をさらして故郷に帰れますか。私は夫とともに,神の定められた運命を共にすることにしましょう」 と決然と言い放ち、男装して軽騎兵の姿となると、カザーク部隊を引き連れてカルーガへ向かった。

一方、マリーナのカルーガ行きより少し前、ポーランド王の大軍がザポロージェ・カザークなどを引き連れ、西ロシアの要衝スモレンスクを包囲していた。そこにトゥシノ派貴族達の代表使節が赴き「王子ヴワディスワフ」のツァーリ即位を勧めた。ジグムント王はこれでポーランド国内の「ロシア動乱介入反対派」の口を封じる、絶好の機会を得た。そして「ギリシャ聖教に手をつけない・聖俗領主の土地は没収しない・貴族会議の判決なしには処刑しない」等の使節団の条件を気前良くのんでしまった。

王が後することといえば、全軍に「モスクワへ進軍!」と命令することであった。


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