動乱時代(5) 「モスクワ陥落」


トゥシノ派貴族達とポーランドとの合意は、もはやこの戦乱が「内乱」ではなく「ロシア帝国帝位」を賭けた全面的な「戦争」になることを意味した。しかもその主だった生け贄は、当初反乱の主役だった「僭称者」、それを支持する「カザーク」、さらに各都市の下層民と農民たちであった。

一方、ロマノフ家の家長フィラレートは、この合意以後再びモスクワに戻り、平然とクレムリンに赴いていた。シュイスキーが彼をどう見たかはわからないが、すでに落ちるところまで落ちていた彼の権威では、どうしようもなかったのだろう。そして、彼にとってさらに決定的な事態が起こる。すなわち民衆にも愛された明朗快活な人物、スコピン=シュイスキーの死である。不幸にも、彼はリャプノフ兄弟の帝位冊立陰謀の旗頭にされていた。事実は不明だが、甥の人気を嫉妬したツァーリの弟、ディミトリー=シュイスキーの暗殺ではないかという(ツァーリの義姉で、スコピンの代母エカチェリーナが、ヴォロトゥィンスキー家の宴会の席で、彼に蜂蜜酒を勧めた。彼はこれを「毒酒」と知りつつ「育ての母」のことを思い、一気に飲み干したという)噂までが流れていたのだ。侵入してきたポーランド軍ですら敬意を抱いたといわれるこの人物の死により、モスクワのツァーリの運命は窮まった。そしてモスクワの貴族達は「もはやこれまで」と鞍替えの準備をはじめたのである。

その頃、ポーランド軍はまだスモレンスクに手こずっていた。この都市の城壁は頑丈で、スモレンスクの勇将ミハエル=シェインは完全に統率のとれた部隊とともに激烈に抵抗していた。市民もこれに協力し、その果敢な守りはポーランド軍の攻撃を何度も押し戻した。

このため、ジグムント王は別の手段を考えはじめる。彼は麾下の名将ジョルキェフスキーに一部の兵を預けると、モスクワに進軍するよう命じたのである。トゥシノ軍のカザークのアタマン(カザークの頭の事)ザルツキーはこれに合流。1610年6月、ド=ラ=ガルディ率いるスウェーデン軍とともにモスクワを発ったツァーリ軍と、クルシノ(7月4日)で激突した。戦いはドイツ傭兵とスウェーデン傭兵の寝返りによりツァーリ軍の崩壊となったが、ポーランド軍は寝返ったスウェーデン兵を解放。解放されたスウェーデン兵はノヴゴロド攻略に取りかかった。これは仕組まれた戦いだったのである。

さらに同時期、モスクワ軍の大敗に勇気づけられ、カールガに引っ込んでいた「偽ディミトリー2世」の軍がモスクワ目指して進軍を開始した。途中、かつてトゥシノで彼を支えていたポーランド人将軍ヤン=サペーガが、国王と和解し損なって彼に合流を申し込んできたので、軍は一層活気ずいた。
これにシュイスキーには、もはや打つ手はなかった。1610年7月17日、モスクワで飢えた大衆が蜂起。暴動は拡大し、貴族達は彼に「退位」を迫った。翌日、シュイスキーは剃髪。必死に抵抗するシュイスキーの手を貴族たちが押さえつけていたと言われる。そして彼は、どこぞの修道院へ追放された。以後、彼の名前は動乱史から消え去り、2度と現れない。

ポーランド軍、偽ディミトリー軍に囲まれたモスクワ・クレムリンではムスチスラフスキー公を中心とする「7卿政府」(セミ・ボヤールシチナ)がつくられたが、状況は非常に厳しいものであった。とくに暴動を起こした民衆の共感は「リトワ」ではなく「ディミトリー皇子」に傾いており、うかつなことはできなかったのである。だが、「偽ディミトリー2世」は、ポーランドに対し「領土割譲・対スウェーデン戦」を提示して、彼らとの連合を模索していた。そしてモスクワの貴族達は「ポーランドとの和平」を優先。ポーランド王太子が「ギリシャ聖教へ改宗すること」、「トゥシノ派との間に結ばれた協約を守ること」などを条件に、8月17日協定書に署名した。ポーランド軍は、ついにモスクワ・クレムリンの門を開いたのである。

だがこの入城は「動乱」の主役達の座を巧みに入れ替える契機となった。カザークのアタマン、ザルツキーは再び偽ディミトリー軍に復帰。逆にヤン=サペーガを筆頭とする偽ディミトリー派のポーランド人たちは、モスクワに入ったジョルキェフスキー軍に完全復帰。ほぼカザークだけに占められることとなった偽ディミトリー軍はカルーガへ退いた。

ところがポーランド王は、依然かわらない「カトリック」への熱烈な信仰心から、「全ロシアのカトリック化」を夢見ていた。スウェーデンでは頑固なピューリタンどもに邪魔されたが、すでに「征服した」ロシアでなら・・・と考えたのであろう。そして王はモスクワからの貴族を含む大使節団に対し、性急にも「自分への忠誠誓約」を迫ったのである。だが使節団は冷静に「王太子がギリシャ聖教徒としての洗礼を受けてからでなければ」と断る。さらに「自分たちは王朝連合しか考えていない」と王の野心を牽制した。そして逆にスモレンスクの包囲を解くように王に迫るのである。このため交渉は長引くこととなる。

その間の12月「偽ディミトリー2世」が突如変死するという事件がおきた。彼はモスクワ攻略戦を投げ出した後、カルーガで他の僭称者(ディミトリー以外の)達への報復や、自勢力の影響下にあるロシア南部地方への布告文を乱発していたが、そんな彼に愛想を尽かしてカザークたちが離れるのに対して、逆に野心的なタタール兵が彼にちかづいた。偽ディミトリー2世はタタール人たちに親しくなり、彼らを信頼するようになった。ところがある事件がきっかけで、彼はタタール人貴族ピョートル=ウルーソフの恨みを買い、彼の報復を受けたのである。

彼が死んだとき、マリーナはちょうど臨月であった。そして彼女は、後に「小悪党」と呼ばれることになる子供を産む。

この事件(偽ディミトリー2世の死)は、ポーランド王の立場を有利にする出来事であったが、使節団の有力者、とくにロマノフ家のフィラレート(フョードル)は王の強引な要求に屈服せず、1611年しびれを切らした王によってポーランドに送られ、厳しい抑留生活を送ることとなった。

一方、モスクワでは引き上げたジョルキェフスキーにかわり、ポーランド軍の司令官となったゴンシェフスキが厳しい軍政をしいて市民達の反感、抵抗を買っていた。しかもポーランド軍は、かつて偽ディミトリー1世とともに来たときと同じく、略奪・破壊に血道を上げていたのである。モスクワ以外では、1610年9月以来、スウェーデンのド=ラ=ガルディが、今度はモスクワに関係なくノヴゴロドを攻囲していた。そしてスモレンスクも・・・相変わらず包囲され続けていたのである。ロシアは、崩壊寸前であった。

しかしこの危機の中で聖職者が目覚める。1610年12月、総主教ゲルモゲンがロシア各都市に対し「正教を擁護するため団結し、モスクワを解放し、侵略者を撃退」することを主とする内容の回状をロシア各地に配った。

むろんポーランド軍はこれに気づき、ゲルモゲンを投獄するが、総主教の回状は身分を越えて多くの人々の反響を呼んだ。まずリャザンのプロコピー・リャプノフが蜂起、さらにザルツキー率いるカザーク軍にいたトルベツコイ公もこれに呼応した。これに他のカザーク、ニジニ・ノヴゴロドなどの都市も続き、1611年1月リャプノフらの主導により「国民軍」(オポルチェニエ)が成立する。すでにポジャルンスキー公等の士族部隊が、モスクワを攻撃し、モスクワ市民はこれを内側から助け、ポーランド兵を悩ませていたが・・・・・モスクワ解放には至らなかった。

そして6月30日、「全国」の名の下に「宣告」(または「取決め」)が国民軍で決められたことが、国民軍の分裂を促した。そこでは司令官としてリャプノフ、ザルツキー、トルベツコイ公が名を並べた。そこまではよかったが、つぎに士族達と農民、カザークの関係を決めようとした際・・・士族側の要求で逃亡農民を元の地主に帰す規定が作られたのである。(異説もある)これは当然、農民や逃亡農民を含むカザークたちの怒りを買った。

さらにポーランド側が偽作、配布したリャプノフの署名入りの「カザーク取締令」がカザークたちを一層激怒させ、7月22日、リャプノフはカザークの集会に呼ばれ殺された。 (イワン=ザルツキーの陰謀という説もある)こうしてモスクワ付近には、トベルツコイ公の軍とザルツキーの軍だけが残った。

ちなみにスモレンスクはまだ粘っていた。砲撃や病、食糧の不足、ポーランド王の甘い降伏呼びかけに耳もかさず、この都市は頑張り通していた。だが1611年6月初頭、ポーランド軍は城壁の一部の爆破に成功。猛砲撃の中、市街戦が開始された。「もはやこれまで」と貴族や市民は火の中に身を投じ、2457キロもの火薬が残っていた大火薬庫も爆破されたという。この爆発で、防衛側も侵攻側も大勢が死亡。そしてスモレンスクは陥落した。

一方、1611年初頭、ノヴゴロドでは「偽ディミトリー3世」が誕生していた。しかし彼はノヴゴロドでは支持を得られず、バルト海沿いのイヴァンゴロドという都市へ移動。そこで感動的な「ディミトリー皇子、暗殺者から逃れる奇跡」を演説して人々の支持を集めた。一時はスウェーデン王カール9世も巻き込まれそうになったが、これは正体がばれて実現しなかった。

彼は6月にプスコフへ向けての遠征を開始した。プスコフが偽ディミトリー2世の支持に積極的だったことを期待してのものだったが、それは裏切られた。プスコフは僭称者の要求を退けたのである。しかし7月にスウェーデンがノヴゴロドを落とすと、プスコフも意見を変えこの僭称者を迎え入れた。スウェーデンの脅威と戦うために大義と指導者が必要だったのである。以降、彼は「プスコフのシドルカ」、あるいは「マーチュシカ」と呼ばれた。

彼はその後「第一次国民軍」と連絡を取り、1612年3月には国民軍の指導者、ザルツキーやトルベツコイ公の忠誠宣言さえうけた。しかしザルツキーもトルベツコイも影響力が低下したこの僭称者に期待する所は少なかった。せいぜい「僭称者の予備」程度にしか思っていなかったのである。おまけに彼が苛政をしいてプスコフ市民に嫌われはじめたため、ザルツキーは部下のプレシチェーフらに命じてクーデターを準備。5月に彼をプスコフから追放した。こうしてこの僭称者はプスコフを追われ、6月にはモスクワに連行されたが、ミハイル=ロマノフ選出の全国会議まで生きていることが出来たという・・・クレムリンの門脇につながれて。


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