動乱時代(6) 「太陽も月も光を消して・・・」



生前、リャプノフ(兄?)は、スウェーデンとポーランドの対立を利用すべく例のド=ラ=ガルディと協定を結んでいた。これに賛意を示したノヴゴロドの聖俗指導者は「全ロシア」の名でカール9世による保護権とその子によるツァーリの位継承権を認めた。もともとノヴゴロドは「モスクワ」に対し自立的傾向を有し、イワン雷帝による軍事征服以後も「独立自治」を志す者が少なくなかったのである。この協定によりド=ラ=ガルディはノヴゴロドの総督となり、スモレンスク陥落直後、ノヴゴロドに入城したのである。彼はその後も積極的に動き、1612年春までに西北ロシアの多くの都市を支配下においた。

一方、モスクワ近辺の状況は再び変化しつつあった。1619年9月ニジニ・ノヴゴロドの町人、富裕な肉屋店主であったクジマ・ミーニンが、街頭で軍資金を集める「募集運動」を開始。さらに拘禁されていた総主教ゲルモゲンから密かに届けられた祝福に勇気づけられて「侵略者の撃退、聖教擁護」を叫び、第2次国民軍を提唱したのである。ニジニ・ノヴゴロドの人々はこれに賛成し、「宣告」を作成する。この「宣告」の内容は「指揮官の命令に従うこと」、「兵隊の給料のため自腹を切ること」、「命を惜しまないこと」という誓約で、これが「国民軍」の理念となった。さらにミーニンが提案して、軍の指揮権はポジャルスキー公に委ねられた。

第2次国民軍の滑り出しは上々であった。ロシア各地へ出された激に対し、まず北ロシアの諸都市が応え、それぞれの都市の士族軍団がニジニ・ノヴゴロドへ集結。さらに各地から義勇兵きどりのカザーク達も集まって来た。だが、これには例のアタマン、ザルツキーは加わっていなかった。むしろザルツキーは地方に自軍の司令官を派遣して税をとりたて、各地にカザーク軍の駐屯地を作るなど「独立」的な立場をとっていた。またザルツキーは「第2次国民軍」を恐れ、これとニジニ・ノヴゴロドの間を絶つように軍を派遣した。このためポジャルスキー公は1612年、北方の要所ヤロスラヴリに軍を移し、ここに臨時政府(全国協議会・・・ソヴィエト・フセイ・ゼムリ)を置いた。この時点で、ザルツキーと戦端を開く愚を、ポジャルスキーは避けたのである。

国民軍は次第に大規模になり、ついに10万を越える大軍となったが、ポジャルスキー公は慎重で、臨時政府の支配地区を固めつつ、後方の敵スウェーデン軍の中立確保のための交渉を続けた。しかしザルツキーとトルベツコイ公の率いるカザーク軍の攻撃により孤立したモスクワに、ポーランド側が救援の軍を派遣したことから事態は急転する。ホドキェヴィッチ将軍率いるポーランド軍は、妨害する各地の抵抗軍をかたっぱしから粉砕。すさまじい早さでモスクワに迫っていた。このため国民軍主力も、ヤロスラヴリに腰を落ち着けているわけにはいかなくなったのである。

モスクワ周辺には敵対するもう一つの勢力、ザルツキー率いる「カザーク軍」がいた。いまだにマリーナ妃を守り、その子を擁している彼らは、国民軍には「ポーランドへの追従者」、「僭称者を擁する裏切り者」と映っていた。当然戦いになるかと思われたが数の差もあり、ザルツキーはトルベツコイ公と一部のカザーク部隊(おそらく漁夫の利を狙ったのだろう)を残してモスクワを離れることを決定した。

だがその直後、ホドキェヴィチのポーランド軍が到着。モスクワをめぐって「国民軍」との間で壮絶な攻防戦を繰り広げた。両軍は9月22日から24日まで激しく戦った。モスクワ近辺にいた「カザーク軍」のトルベツコイ公は、未だに「皇子ディミトリー」に未練があったのか戦場に突入するのを躊躇していたが、彼と共に残ったカザーク達はトルベツコイを後目にポーランド軍を攻撃。彼もただ傍観しているわけにはいかず、ここでザルツキーの命令を無視してポーランド軍へ攻撃をかけた。また、「国民軍」のクジマ・ニーミンも4個中隊を率いてモスクワ川を渡ろうとしていたポーランド軍を奇襲。これが戦争の行方を決定した。

ホドキェヴィチ軍は退却、モスクワを占領していたポーランド軍は完全に孤立した。
1612年10月26日、ポーランド軍は降伏しモスクワは解放された。

しかし、「動乱」はまだ終わっていなかったのである。

1613年年初、ミーニン、ポジャルスキー、トルベツコイの3名は「全国会議」の開催を全ロシアの都市に通知し、ツァーリ選出のための「代議員」派遣を求めた。この時集まった顔ぶれは、ロシア約50の都市の代表、国民軍の代表、カザーク、富裕な町人、農民と雑多であったが、力を持っていたのはポジャルスキー公と同じ「士族階級」それと町人(モスクワ西北部の諸都市代表)であった。ポジャルスキー公などは始め「スウェーデン太子」をツァーリに押していたが、さすがに外国人のツァーリは「争いの種」ということで退けられた。そしてそれだけはどの階層でも一致する「イワン雷帝」への尊敬(恐れ)から、その血筋に1番近い者、つまりロマノフ家に白羽の矢が立った。その家長フィラレートはポーランドに抑留中であったが、彼の息子、16才のミハイル・ロマノフがツァーリ候補となったのである。彼は性格の弱い愚鈍な少年だったと言われている。「操りやすさ」も選挙の一つの基準ではあったのだろう。またロマノフ家の家長フィラレートが一時だけとはいえ「トゥシノ皇帝派」にいたことがあり、そのことでカザーク達の一定の支持があったことも要因である。(トルベツコイの「公」という称号はトゥシノ宮廷で与えられたものである)

こうしてミハイル・ロマノフは、正式にツァーリとなった。 だが、ミハイル・ロマノフの即位で「ツァーリ」問題が全てかたずいたわけではなかった。国内にはザルツキーがマリーナ、そして「偽ディミトリー2世の子」を擁して暴れていたし、国際的にはポーランドのウワディスラフ王子、スウェーデンのグスタフ王の弟カール=フィリップがツァーリの位を要求していたのである。しかし政府は、まず最初の問題ザルツキーをかたずけた。1613年5月、ヴォロネジで政府軍はザルツキー軍を撃破。これで何かふっきれたのか、ザルツキーは自ら「ディミトリー」を名乗り、マリーナの子を「王子」とする。この敗北後、ザルツキー率いる敗残軍は、彼の挙兵の地アストラハンに向かうが周辺のカザークはザルツキーに冷たく、アストラハン市民も彼に対し門を閉ざした。このためザルツキーはヤイクに逃れようとするが、ここでカザーク達の手によって捕らえられる。

ザルツキーはモスクワで華々しく処刑。(串刺しともいわれる)マリーナはその波乱の生涯を獄中で閉じ、その子は刑吏の手で首を絞められた・・・という。 (マリーナの死に関しては「処刑」「投獄の後3年経て死亡」などがある)
またスウェーデンは1612年までに西北ロシアの多くの都市を支配下に置いたが、これには反発も大きく「偽ディミトリー派」に傾いてしまう都市まで現れる始末であった。カール王の後継者、グスタフ2世の弟カール=フィリップはポジャルスキー公が一時「ツァーリ候補」にまで考えた人物だったが、ド=ラ=ガルディのプスコフ攻略が失敗。1615年にはグスタフ2世によるプコフ攻囲も失敗した。とはいえスウェーデンは隆盛の時期にあり、完全な勝利など望むべくもない。ロシア側はプスコフの防衛成功を「これ幸い」と、スウェーデン側との講和条約締結のための会談に入る。1617年、ストルヴォの講和が両国の間に結ばれ、ロシアはノヴゴロドを回復。カール=フィリップのツァーリ継承権も放棄させたが、バルト海への出口は完全に失った。

ポーランドでは、ジグムント王の対ロシア政策に対する貴族たちの糾弾の声が高まりつつあるにも関わらず、1617年王子ヴワディスワフはツァーリの位を露骨に要求してロシアに進軍。凄まじい執念で、一時はモスクワに迫った。王子の面子を賭けてのこの進軍は、しかし目標達成とまではいかなかった。1618年末、モスクワとポーランドの全権代表がデウリノ村で会見。14年半に及ぶ休戦協定に調印したのである。スモレンスクとチェルニゴフ、セーヴェル地方はポーランドに属し、ツァーリ継承権ももとのままというロシアにとっては大変分の悪いものであった・・・・。

しかし、動乱によって失われたものは回復し始め、それはロマノフ家の家長、フィラレートが1619年ポーランドから帰国すると「国家再建」の方に向かって進みはじめることとなる。それはまた、より深い混迷の時代の始まりでもあった。 (fin)


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