ロシア動乱史辞典


【偽ディミトリー1世】(?−1606)

イヴァン4世(雷帝)の次男、マリヤ=ナゴイを母に生まれたディミトリー皇子の名を僭称し、ロシアにスムータ(動乱)を引き起こした謎の青年。かつてロマノフ家につかえ、その後逃亡した修道僧グレゴリー=オトレピエフとも伝えられる。1601年ポーランドに現れ国王ジグムンド3世に援助を要請。「正統なるロシア帝国皇位継承者」を称してロシアに侵攻。カザーク、農民の支持を取り付け、ときのゴドウノフ政権を倒し帝位につく(1605年)。
しかしポーランドの支援を快く思わない貴族と一部の人々の反乱により倒された。彼が皇帝になったとき、メリメの説によればまだ23才であったというが、30代という説もある。
【偽ディミトリー2世】(?−1610)

ロシア動乱時代において、最初のディミトリーに継ぐ重要人物の一人。1607年にセーヴェルスキー地方のスタロドゥブにおいて「ツァーリ=ディミトリー」を名乗る。最初の僭称者の側近、ミカヴェーツキィー(ヴィシネヴェツキー?)とボロトニコフの反乱軍にいたイウァン=ザルツキーに擁立されており、もともとは「イヴァン」という名の教師であったとも、ユダヤ人であったとも言われている。
当初、その軍勢はボロトニコフ支援のため動いていたが、1608年にはモスクワ目指して進軍。6月にモスクワ近郊のトゥシノに攻囲陣をしいたので、「トゥシノのツァーリ」とも呼ばれた。
その後偽ディミトリー1世の妻、マリーナと「再会」し、トゥシノ陣営はいよいよ盛んであったが、1609年にロシアとスウェーデンとの間に条約が結ばれ、スウェーデン軍が介入してくるにつれ劣勢となり、1609年ポーランド王自身が大軍を引き連れロシアに攻め込んだことにより、トゥシノ政府は瓦解した。以降、彼は南方の都市カルーガに引きこもりチャンスをうかがう。
1610年7月には「ツァーリ=シュイスキーの廃位」という絶好の好機がくるが、下層民と僭称者の結びつきを恐れるモスクワ貴族達がポーランドに降伏。僭称者2世は再びカルーガに退却し時機を窺うが、1610年タタール人のウルーソフに恨みから殺された。
【偽ディミトリー3世】(?−1612)

重要度においては上記2名に劣るが、一応「ディミトリー」を語りし者。1611年ノヴゴロドで名乗りを上げた。
しかしノヴゴロドでは相手にされず、バルト海沿岸のイヴァンゴロド市に移動。そこで「奇跡の救出劇」を演説して見せ、一躍支持者を集める。その後スウェーデン王カール9世に手紙を出し、援助を要請するが、これは「相手が僭称者」だとわかったカール9世に無視された。6月には僭称者に同情的な都市、プスコフに向けて進撃するも受け入れられなかった。
1611年7月にノヴゴロドがスウェーデンの手で陥落すると、プスコフは態度を一転させ偽ディミトリー3世の入城を要請してきた。それ以降彼は「プスコフのシドールカ」あるいは「マーチュシカ」と呼ばれる。プスコフに居を構えた彼はモスクワ奪回に燃える「第一次国民軍」と連絡をとり、ザルツキー、トルベツコイ、リャプノフらを司令官に命じるが、ザルツキーがリャプノフを殺害したことにより国民軍は崩壊。一時的にザルツキーとトルベツコイはこの僭称者3世に忠誠を誓う。
しかし1612年5月、彼のプスコフでの恐怖政治対する反感と、おそらくはザルツキーの陰謀から民衆が暴動を起こし、彼は逃亡。後ツァーリ側に捕らえられ、モスクワに連行され、ミハイル=ロマノフ選出の時までさらしものにされた挙げ句、絞首刑に処せられた。
【偽ディミトリー4世】(?−?)

知名度、重要度ともに最低の方。出現したのは1612年頃であり、アストラハン方面(ちなみに2世僭称者も関係があった)とつながりがあったと言われている。タタールの「汗」と言っていた偽ディミトリー2世の殺害者P・ウルーソフと関係があったといわれるが・・・
【イェジー=ムニーシェク】(?−?)

サンボールの城主、ガリチア(当時ポーランド領)の領主で王室領地の管理者でもあったが、脱税容疑で国王から「財産差し押さえ」の脅迫を受けていた人物。このためポーランド国内でも有数の富裕な貴族であったにもかかわらず破産の危機に追い込まれており、1603年には国王に対し「猶予」を願っていた。
しかし、ちょうどその頃女婿のコンスタンチン=ヴィシネヴェツキーから最初の僭称者(1世)を紹介され、彼を利用して借金の帳消し及び自らの傾いた経済の立て直しを図る。借金の方はたしかに帳消しにはなったが、動乱に巻き込まれたことでかえってムニーシェク家は大変な動揺を被った。シュイスキーのクーデターによりモスクワで逮捕され、ポーランドへ帰国した後に死亡。
マリーナ・ムニーシェク…作画 佐藤ひろや様【マリーナ=ムニーシェク】(?−1614)

上記人物の娘(妹娘という話もある)。ロシアの有名な詩人は、彼女についてこう語っている。
「いや、このポーランドの娘に匹敵するような王女は他におるまい。その快活なことといったら、暖炉のまわりを跳ねている雌猫のようだ。ばら色の頬をし、肌はクリームのように白く、目は二つの炎のように燃えている」
                  >メリメ著『贋ディミトリー』参照

彼女の父親は、彼女と僭称者の結びつきを歓迎した。たとえ身分卑しきものであろうと、自分の今の苦境を救えるのはこの青年しかいなかったからである。そして1606年5月4日、モスクワの帝位についた偽ディミトリー1世とマリーナは結ばれた。「ツァーリツィン・マリーナ」の誕生である。
だが、5月17日にはV(ヴァーシリー)・シュイスキーら貴族一派によるクーデターにより、ディミトリーは殺害され、彼女も監禁された。その後彼女はモスクワ郊外の館に移され、厳しい監視の下におかれたが、やがてボロトニコフの反乱などが起こり、奪回されることを恐れたシュイスキーによりモスクワに移された。しかしポーランド国王のジギスムントがポーランド人捕虜の前面返還を要求したため、彼女やムニーシェクはシュイスキーに懇願して「以後、この恩を絶対に忘れない」として国に帰してくれるように頼んだ。
結局この願いは受け入れられたが、マリーナはモスクワで受けた数々の屈辱を忘れなかった。そしてポーランドへ向かう途中、偽ディミトリー2世が差し向けた軍勢がシュイスキーのつけた護衛隊を蹴散らすと、マリーナはむしろ積極的にこの「夫」の陣営に身を投じた。父親や兄弟とも別れ、彼女はこの「どこの馬の骨」とも知れない男を、最初の「ディミトリー」として推し立てたのである。
彼女はいろいろと政治的決断にも口を挟んだが、2世自身の権威が高くないため、次第にその側近達にも協力を求めるようになり、その中の一人イヴァン=ザルツキーに次第に信頼を寄せていくようになった。(フョードル=ロマノフなどいわゆる「渡り鳥」連中がトゥシノにいったのも、むしろ彼女の存在があったからだと思われる)
トゥシノ陣営が崩壊(1610年3月)し、カルーガ退却後僭称者2世が殺害(1610年12月)されても、マリーナ、その子(「小悪党」と呼ばれた)、ザルツキーらはあくまでも帝位を求めた。彼女らは一時アストラハンに逃亡するが、1614年7月には捕らえられ、モスクワで処刑された。(マリーナの最後についてはいろいろ説がある)
【M(ミハイル)・モルチャノフ】(?)

ロシア動乱時代を代表する怪人物。偽ディミトリー1世の腹臣で、彼の死後、24頭の馬と帝冠と帝笏をもってポーランドに逃亡したとされる。ムニーシェク家あるいはヴィシネヴェツキーの庇護のもと、モスクワに向けて「ツァーリ・ディミトリー生存」の説を流布した。動乱時代の重要人物、ボロトニコフがポーランドで会ったのは彼である可能性が高い。モルチャノフはモスクワからの来訪者には決して会わなかった。
【イヴァン=イサエヴィッチ=ボロトニコフ】(?−1607)

動乱時代において異彩を放つ人物。「農民戦争」的性格を持つ「ボロトニコフの乱」のリーダー。
ボロトニコフは,もともとはモスクワの有名な貴族アンドレイ=チェリャチェフスキー公の軍事ホロープで、若い頃主人の屋敷から逃げてカザーク社会に身を投じた。しかしカザークの略奪遠征に参加して、ディーコイ=ポーレの地でタタール人に捕らえられてしまい、奴隷としてトルコに売り飛ばされた。
トルコではガレー船の漕ぎ手として働いたが、トルコ船と西欧船との戦いの時、ボロトニコフは西欧船の捕虜となり、奴隷身分から解放されてヴェネツィアに連れて行かれた。当時、国際的な情報が大量に集まる都市であったヴェネツィアに滞在しながら、ボロトニコフはロシアでの動乱を情報を入手。祖国へ帰る途中、ポーランドで怪人ミハイル=モルチャノフと出会った。モルチャノフのたくみな演技により、ボロトニコフは「ツァーリ・ディミトリー軍の最高軍司令長官」に任命され、その勅書を持ってプチヴリに現れた。プチヴリには僭称者1世の側に立っていたシャホフスコイ公がおり、彼は「シュイスキー打倒」を掲げて決起していたのである。(またボロトニコフの元の主人、チェリャチェフスキーもボロトニコフに協力した。彼は僭称者「ピョートル皇子」の軍司令官となっている)
1606年7月ボロトニコフ軍はクロムイでトルベツコイ公率いるモスクワ・ツァーリ軍を撃破。農民達もこの勝利に勇気ずけられて次々と蜂起した。イエレツの士族、イヴァン=バシコフ、リャザンの士族、グレゴリー=スムスロブやプロコピー=リャプノフらも蜂起し、各軍勢を従えてボロトニコフ軍に参加。カルーガ、トゥーラ、リャザンというモスクワをめぐる要衝すべてを手中におさめ、シュイスキーを追いつめた。
1606年10月-11月にかけてのモスクワ攻防戦は激烈を極めたが、この間ボロトニコフは「ツァーリ・ディミトリー」の名で命令を下す勅書をばらまいていた。(ボロトニコフ自身は僭称しなかった)が、やがて蜂起軍内における士族と農民らの敵対心が大きくなり、バシコフ、そしてリャプノフ軍がツァーリ=シュイスキー側に投降した。この結果、11月27日そして12月2日の戦いでシュイスキー軍は勝利し、ボロトニコフ軍は一旦カルーガに退いた。しかしながら僭称者「ピョートル皇子」の援護うけたボロトニコフ軍は粘り強く、プチェリナの戦いでボロトニコフ軍は再度シュイスキー軍を破った。
しかしながら、何故かボロトニコフはモスクワを目指さずトゥーラの要塞に入り、ここでシュイスキー軍を迎撃しようとする。1607年10月10日、ツァーリ=シゥイスキー軍に攻囲され、作戦によって引き起こされた洪水により食料などを失ったボロトニコフ軍は降伏した。ボロトニコフ、僭称者ピョートル皇子らは当初「命だけは助ける」というモスクワ側の言い分を信じて投降したのだが、1608年1月僭称者ピョートル皇子はダニロフ修道院で、ボロトニコフは同年3月カルゴポリで盲目にされた後、殺された。
【V(ヴァーシリー)=シュイスキー】(1552-1612年)

ロシア動乱時代のモスクワ・ツァーリの一人。ロシア貴族の名門(アレクサンドル=ネフスキーの次男の末裔)シュイスキー家の当主。1587年ボリス=ゴドウノフの失脚を狙った当時のシュイスキー家の当主イヴァンが失脚し、シュイスキー一門がモスクワから追放されてから、彼がシュイスキー家を担った。その後「ウグリチ事件」ではディミトリー皇子(本物)の死亡原因を調査する一団のメンバーとなり、ボリスに「皇子は事故死した」と報告した。このことが後に重要な鍵となり、動乱の混迷をもたらす。
1606年5月の暴動を巧みに扇動し僭称皇帝1世を殺害。「さくら」混じりの広場で「ツァーリ」を宣言した。当初、アレクサンドル=ネフスキーという血筋を誇りにしたかれであったが、イワン雷帝の印象の強烈な民衆には効果がなく、さらに貴族層にも積極的な支持は生まれなかった。とくにロマノフ家の当主で、僧名を「フィラレート」としていたフョードル=ロマノフを総主教に任じず、ゲルモゲンを任命したことから、ロマノフ家の「渡り鳥」状態をうんだ。
その後勃発した「ボロトニコフの乱」はかろうじて乗り切ったが、1607年に登場した「偽ディミトリー2世」はボロトニコフの乱の敗残兵やポーランド貴族を混ぜた軍勢でモスクワに向かって進撃。トゥシノ村に陣を張って、モスクワに対抗する「宮廷」を作ってしまう。マリーナ=ムニーシェクもこの陣営に走り、さらに「意図的に」ロマノフ家のフィラレートも僭称者陣営に捕らえられ、その総主教にさえなった。追いつめられたシュイスキーはスウェーデン王国との交渉に望みをかけ、これの交渉役に甥のスコピン=シュシスキーを差し向ける。スコピンはこの交渉に成功し、スウェーデンはド=ラ=ガルディ将軍率いる援軍を派遣した。
形成が不利となった偽皇帝2世はカルーガに退却したが、逆に今度はスウェーデンの介入を口実にポーランド軍が侵攻。スモレンスクを包囲した。さらにポーランド王ジグムントに対し偽ディミトリー2世側(というかそのとりまき)は「ポーランド皇子をツァーに」と持ちかけ、協約を結んだ。そして1610年には人気のあったスコピン=シュイスキーが急逝する。これによりモスクワの戦意は一気に低下し、その間ポーランド軍の名将ジェルキェフスキー率いるポーランド軍によりド=ラ=ガルディとモスクワの軍は撃破される。1610年7月17日、モスクワでは暴動が起こり、ツァーリ・シュイスキーは退位を余儀なくされた。その後動乱には一切姿を見せず、2年後死亡する。
【イヴァン=ザルツキー】(?−1614年)

動乱史に現れる怪人物の一人。「ドン、ヴォルガ、ザポロージェ3大カザークのアタマン」を名乗った、元ポーランド貴族。彼の経歴は不明な点が多く、メリメの小説「贋ディミトリー」によれば彼は少年時代よりカザーク社会に身を置き、やがて実力でその頭領(アタマン)になったのだという。動乱期に、彼はアストラハンを根拠とし、ボロトニコフ軍や国民軍でも指導的な立場にいた。同時にあらゆる重大局面に関与しているという、動乱史中で一番目立つ陰謀家、野心家でもある。
彼の登場は、ボロトニコフの乱である。それまで彼は,ボリス政権末期に勃発したアストラハンでの僭称者「イヴァン=アウグスト」を擁立した反乱に関与していたらしいが、その後ボロトニコフの乱にもかんだ。ボロトニコフの乱は単にロシア人下層階級のみならず、異民族であるあらゆる人々を巻き込んだたため、その影響は広範囲に及び、かつ深かった。ザルツキーが何時カルガ(カルーガ)の「偽皇帝2世」に出会ったかは定かではないが、彼はボロトニコフの乱失敗後にはこの偽皇帝を推戴し、またもう一人の僭称者「3世」をも二股にかけた。3世はやがて都市上層部にかつがれるようになったため彼は暗殺を命令。カルガの「2世」を正統として推戴するが、マリーナ=ムニーシェクに出会ったことが彼の運命を大きく変えてしまう。
「2世」が殺害された後、マリーナ=ムニーシェクが出産した子供を「ディミトリー皇子の子」として推戴したザルツキーはカザークと元トゥシノ派貴族らを背景に勢力を維持。1610年の総主教ゲルモゲンの「回状」に応じて「第1次国民軍」に参加する。1611年6月30日、この国民軍(「オポルチェニェ」という)で行われた会議で、ザルツキーとトルベツコイ公に軍事・民事での執行権が委ねられ、ザルツキーは指導者としての地位につくが、このとき士族出のリャプノフが決定した「カザーク取締令」がカザークを背景とするザルツキーらの怒りを買った。7月22日リャプノフは殺害され、ザルツキーは「国民軍」を離れる。
しかしその後戦況はロシアにとって最悪の様相を呈し、1611年クジマ=ミーニンらによる「募金運動」が開始され、ポジャルンスキー公を中心とする「第2次国民軍」が組織される。1612年にはヤロスラヴリに臨時政府が開かれた。
一方、ザルツキーはこれに参加せず、むしろ妨害するような行動をとり、カザーク軍団を駆使して独立的な行動をとっていた。そしてついに国民軍がモスクワ奪回戦にかかったときも、モスクワ郊外に布陣したものの、戦闘には加わらなかった。このとき、盟友として軍にいたトルベツコイ公はザルツキーを離れ国民軍へ参加。ザルツキーは黙って軍勢を帰した。
その後ザルツキーとマリーナはカザーク勢力を頼りにアストラハンへ退却。1613年5月には再起をかけてモスクワ進撃を開始したが、ヴォロネジの戦いでモスクワ軍に敗北。再びアストラハンに退却する。ザルツキーはここで再び各カザーク軍団に集結を呼びかけたが、もはや応じる者は少なかった。わずかにヤイク=カザークが応じたのでこれをたよってザルツキーとマリーナは赴いたが、そこで待っていたのはカザークたちの裏切りであった。
1614年7月二人は捕らえられモスクワに連行され死刑に処せられたとされている。
クセーニャ・ボリソーヴナ・ゴドノフ…作画 佐藤ひろや様【クセーニャ=ボリソヴナ=ゴドノフ】(−?)

ボリス=ゴドノフの娘。絶世の美貌で知られ、欧州諸国のみならず東方諸国にもその名が知られた黒髪の美人。
ボリスの息子フョードルとともに大切に育てられ、父親の皇帝位登極により「皇女」となり、その婚約者選抜が世間の注目を集めた。相手は広く欧州各国の王族ばかりでなく、ペルシャの名族なども候補であったらしい。

一時、彼女の相手はスウェーデンの亡命皇子グスタフ・エリクソンやデンマークのヨハン公とも目されたが、いずれもボリス自身によって否定された。
動乱が始まると弟フョードルともに軟禁され、弟は殺害される。

その後の彼女の行動はよくわからないが、偽ディミトリーの手で修道院に入れられ、その後の乱世を生きぬく。


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