ターボル戦記 第一部 【ヤン=フス】


真実を求めよ
真実に聴けよ
真実を愛せよ
真実を語れよ
真実につけよ
真実を守れよ
死に至るまで

       ヤン・フス


ヤン・フス。西暦1370年チェコ南部・フシネツ村の生まれ。姓をもたない貧農の生まれであり、姓のように見える「フス」は「フシネツ村の生まれ」であることに由来する。ゆえあって教会の後見をけた彼は勉学に励み、若くしてプラハ大学に入学。ウィクリフの教義に通じていて、それを部分的に受け入れていたといわれるズノイモのスタニスラフに傾倒した。またヤン=フスは学業において非常に優れた人物であったため、1393年には学芸部部長、94年には神学部得業師(Bakkalaureus)の称号を獲得。1396年には学芸学部(いわゆる哲学部)で修士(Magister)の称号を得た。

卒業後も彼の才能と人格を慕う人々が大学へとどまることを勧め、1398年プラハ大学の教授として留まることとなった。1401年には学芸学部の学部長、1409年には「総長」に選任。また1402年からはプラハ市のベツレヘム礼拝堂の説教師として活動し、ヴァーツラフ4世(1361〜1419年)・ボヘミア(チェコ)国王、王妃ジョフィエ(ゾフィーの厚い信頼をうけた。

ところが1403年教会の会議において、イングランド・オックスフォード大学のジョン=ウィクリフ(1330〜1384年)の教説(45箇条)に対し「異端」であることが宣言された。会議では「唯名論」を奉じるドイツ人達の主張が大勢を占め、チェコ人やその他の主張は退けられたのである。スタニスラフの影響を受けていたヤン=フス、そして同教説に傾倒していたプラハ大学の学生たちはこれに憤慨した。そして大学内部における「ウィクリフ教説(45箇条)支持運動」を始めるのである。彼らは「ウィクリフティーン」と呼ばれた。当初、この時期にプラハ大司教となったツビニェックは、フスやその仲間に対して寛大であったという。

やがてヤン=フスの師匠格であったスタニスラフ(「実在論」の学者でもあった)は、ウィクリフ教説への公然たる支持を表明。1406年2月9日には「教会改革」の意見を発表するに至る。このときヤン=フスはプラハ大学、そしてベツレヘム礼拝堂で同様の意見を公開し、ウィクリフの著書をチェコ語訳したものを人々に配布した。

このような状態に激怒したのがローマ教皇であった。時の教皇インノケンティウス7世は、チェコにおけるカトリック聖職者たちからの告発により、チェコに異端がはこびりつつあることを知った。しかも、現地の大司教がこれを放置していることも併せて報告された。1405年6月20日、教皇はプラハのツビニェック大司教に対し「警告」を発し、「異端邪説撲滅のためにすみやかに適切な処置をとること」を厳命する。驚いたツビニェックは、それまでの態度を一転して翌年の教会会議で「ウィクリフ教説の禁止」を宣言、ツナイム及びウィクリフティーン全員に対する「取り調べ」を強行した。「取り調べ」では、脅迫的な言動、行為がなされ、多くの人々は「口先だけ」転んだという。だがこれで「ウィクリフティーン」の活動が止んだわけではなかった。

1408年になってもローマ教皇による干渉は続き、教皇グレゴリウス12世はツビニェックをせかして「異端者の処罰」を急がせたが、実際のところウィクリフティーンに同情的な国王ヴァーツラフと王妃の「暗黙の庇護」がある以上、あまり活発に動けるわけではなかったし、彼らに対するチェコ人の敵意も高まりつつあったため、効果的な対応がとれないでいた。同年5月18日にプラハ大学総会において「ウィクリフ教説の禁止」が再度宣言されたが、これに対抗するため世俗の者も含むチェコ人による会議が5月25日に開かれた。こうして教会と「ウィクリフティーン」の対立は、だんだんとその対立の場を「大学、教会の外へ」と移していくこととなった。

1409年ヴァーツラフ4世は、異母弟ジギスムント皇帝(神聖ローマ帝国皇帝・ルクセンブルク家出身)から「再び帝位を奪還すべく」ピサで開かれていた「教会会議」に使節を派遣することを決めていた。彼の神聖ローマ皇帝への復帰には、ジギスムントが外交でとりこんでいる「ローマ教会」の動向が重要であった。しかしこれが大きな問題を国内に起こしてしまった。(ヴァーツラフはかつてカール皇帝の長男として帝位を継いだが、失政ゆえに帝位を追放された)

当時、ローマ教会は大きく分裂し、ローマのグレゴリウス12世、アヴィニョンのベネディクトゥス13世がそれぞれの支持者を集めて対立していた。当初ローマのグレゴリウス12世への忠誠を誓っていたヴァーツラフであったが、彼はこれを「会議が終わるまで」と断ったのである。しかしこれは神聖ローマ皇帝ジギスムントの目指す「教会統一」の動きに反するものであった。そしてチェコ国内では、チェコの人々やウィクリフティーンがこれに賛同し、大司教とドイツ系貴族達がこれに大反対したのである。プラハ大学で行われた「国王の決定」に関する協議で、その問題は公の対立を明確にしたが、大学総長ヘニング=デ=バルテンハーゲンは投票を行う前に会議を散会させ、大司教や高位聖職者たちの思惑を退けた。

ヤン=フスらウィクリフティーンは、このとき「完全な中立」を唱えて国王、及び王妃にその旨を説いた。国王はこれを受け入れ、まず1409年1月18日に「クトナー・ホラ勅令」を、同年1月22日にさらに勅令を発し「王国のいかなる臣民、聖職者もグレゴリウス12世からの指示、あるいは給与を受け取ることは許すべからず」と宣言した。王のこの勅令により高位聖職者の少なからずが逮捕され、ドイツ系の有力聖職者も都市を離れざるおえなかった。一方、これに対しツビニェック大司教は、プラハ及びその周辺に「インターディクト」(祭式執行禁止)を命令。さらにヤン=フスを「国王を異端の説に近ずけた者」として、ローマの宗教裁判官に訴えた。しかしこの時行われた「ピサ公会議」において、グレゴリウス12世は破れ、アレクサンダー5世が教皇に選出された。彼は教会改革の志を持ち、そのことで従来の聖職者に対する怒りを抱いていたため、プラハ大司教ツビニェックに対して不利な裁きを下した。このときヤン=フスは書状をもって「大司教の横暴」を訴えたという。

このためツビニェックはプラハにとどまれず、ラウドニッツに退いた。その後作戦を変え、まずアレクサンダー5世の「教皇位」を認めると、ウィクリフ教説がどれだけチェコに広まっているか、その勢力が強大であり教会の教えといかに違うか、そういった点を誇張した使者を教皇のもとに派遣した。これにアレクサンダー5世の態度は豹変し、1409年12月勅書を持ってツビニェックに「異端取り締まり」を命じ、さらに一切の公の場におけるウィクリフ教説、およびそのシンパ的説教を禁じ、それに対する請願そのものも禁じた。翌年、ツビニェックはウィクリフ教説の本を強制的に集め、これを焼き捨てさせた。さらに教皇に使節を派遣し、ヤン=フスがこれらの運動の先頭に立っていると指摘した。

大司教の報告から教皇は枢機卿オットー=コロンナをチェコに派遣。コロンナは短期間の取り調べの後、1410年8月25日の決定で大司教の行動を「適切な処置」と認め、ヤン=フスに対し「教皇庁」への出頭を求めた。しかしヤン=フスの身柄を案じた人々は彼単独のローマ行きは危険だとしてこれを引き留め、フスの友人と2人の神学者がかわりに教皇庁へ赴いた。しかしコロンナは代理を認めず、召喚の期限切れとなった時点で彼を「破門」とした。(この間、若干教皇の態度に動揺が認められる)

この間、国王と大司教との仲も険悪さを増していた。大司教が勝手にウィクリフの著作物を焼却したことから、王がその代金を求めていたが、大司教がこれに応じなかったため、王が彼の領地を勝手に押さえてしまったのである。また大司教とプラハ市会も対立し、大司教は5月2日にプラハ市会に「破門」を宣告したが、市会はこれを平然と無視した。このためプラハ市全体に「インターディクト」が宣言されたが、国王もプラハ市もこれを無視し続け、教会領の没収、高位聖職者の監禁を続けた。もはや打つ手のないツビニェック大司教は、ジギスムントを頼りにハンガリーへ赴こうとしたが、その途中1411年9月プレスブルクで死亡した。

1412年、教皇ヨハネス23世(後に廃位)による「贖罪状」販売が始まり、3月3日ヤン=フスはこれを弾劾する演説をベツレヘム聖堂でおこなった。もともとヨハネス23世に対する評判は良くなかったが、チェコではさらに「アンチ・キリスト」といわれ、その評判は最悪であった。9月9日贖罪状が実際に発売され、チェコでは12月2日に下された第2回勅令で「軍資金の調達」が命令された。この「軍資金」というのは、ナポリ王であり教皇の地位を左右する人物ラディスラウスの野心を牽制するため、派遣しようとした政治的な「十字軍」の事である。ヨハネスはこのような戦にも贖罪状を発行しようとしていた。

1412年5月パッサウの大司教座主席司祭ウェンツェル=ティエムがプラハに「贖罪状」を携えてやってきた。国王及び大司教アルビクはこれを許可。ティエムによる「贖罪状」発売が開始された。これに対し、反発は各方面から起こった。ウィクリフ教説の者ばかりでなく、カトリック正統の立場からも厳しい反対意見が起こった。(ルドルフ=サガンによる批判)しかしウィクリフティーンの反対はさらに激しく、1412年6月7日プラハ市内で民衆とウィクリフティーンによる集会を開いて教皇の命令が無効であることを宣言した。さらに同月17日にはカロリルムの大講堂で教皇派と公開討論会を実施。ヤン=フス及びヒエロニムスの演説は会場を圧倒したという。そして討論会後、興奮した人々はプラハ市内で示威行進を行った。(この騒動の最中、大学生の間では神学科のものと学芸科の分裂が起こっている。フスは学芸科の方である)

その後国王の裁定などを挟みながらも、教皇を支持するプラハ大学の神学部とそれに対立するウィクリフティーンのにらみ合いがつづいた。そして9月4日、ついにヤン=フスの住む地に教皇使節によって「インターディクト」が宣言され、彼の説教も全面的に禁止された。さらに事の成り行きに喜んだ一部カトリック信徒のドイツ人がベツレヘム聖堂を襲撃し、これを破壊しようとしたが市民が防衛に駆けつけ、必死にこれを守り抜いた。 そしてフスは、その後もシンパに守られて説教を継続することができたのである。しかも彼の説教を聞きにくる者には王宮関係者も多く、会堂はいつも満員であったという。

フスは、自身がローマに派遣した弁護人が投獄された事の不正を非難し、教皇至上主義の害を強く説いた。しかし、1412年末彼はプラハを去る。すでにその身に危険が迫っていたとも言われる。プラハの人々の意見は一致していたわけではなく、あきらかに彼に反対する人々もいた。一方、教会の腐敗はとどまることを知らず、ちょうどフスが教会を去ったとき、オルミュッツ司教がプラハ大司教アルビクとその地位を交換したのも、賄賂によるものであると非難されていた。もっともこの件は教皇庁でも問題となり、オルミュッツ司教コンラッドは正式に大司教にはなれないでいた。そしてウィクリフティーンは、カトリック派でさえ自信のないこの件で、コンラッドを激しく非難した。
1412年の降誕祭の前、国王ヴァーツラフ4世は国会を召集し、この問題を図るつもりでいた。しかし実際に開かれた議会では、フスがプラハを立ち退いたのを勝利と考えるカトリック派の主張と、「異端の証明ができないならば、自由な説教をゆるすべし」と主張するウィクリフティーンの主張が真っ向からぶつかった。国王はそれでも話し合いによる解決をめざし、1413年末に再度大学総長クリスティアンの家で話し合いの席を設けたが、ここでもなんら益ある成果は出なかった。いや、むしろ対立は激化し、国王の「相互に誹謗中傷してはならぬ」という言葉もほとんど役立たずであった。そして国王は、神学科の反ウィクリフティーンの論者ツナイムとステファン=パレッチを追放した。

神学科における反フス派の存在の消滅により、ウィクリフティーンは勝利したかのようにみえたが、実際は逆であった。国内を去った反ウィクリフティーン派は外国で活動を開始し、激しい非難を彼らに浴びせかけた。一方、フスはプラハに何度か戻りつつも説教と著作を続け、「教会論」等々を著した。が、これに対してツィナム等も反撃し、同タイトルの「教会論」を書いて反駁。フスの説を信じる者を「クィダミステン」(悪魔の言うことを信じる者ども)と呼んであからさまに軽蔑した。そしてついに1413年1月、ローマ教皇はウィクリフの書物を「焼却」すべきことを宣言した。さらに1414年パリ大学のジャン=ド=ジェルソンはプラハ大司教コンラッドに書簡を送り、ウィクリフの危険なことををとき、異端審問の必要を説いている。事態は公会議を開かねばならぬほど、切迫していた。

1414年11月、皇帝ジギスムントの説得によりローマ教皇ヨハネス23世は、後世「コンスタンツの公会議」の名で知られる会議を開催した。この会議の目的は、第一には大分裂(シスマ)の統一であり、フス問題であった。

シスマの終焉ついてはこの話の目的ではないので省略するが、フスにとってこの会議は「願ってもないチャンス」であった。皇帝ジギスムントからの呼び出しは誠意あるものだったし、彼の身の安全の保証は与えられていた。何よりフスにとって重要だったのは、公会議という認められた公の場所で自説を披露できるという機会だったということである。もっとも、彼の回りの人々は危険視していた人も少なくなかった。大学の同僚、支持者の中にも彼を引き留めようとするものが大勢いた。しかしフスは、1414年8月にはクラコヴィッツからプラハに出てきていた。そして8月26日、「もし自説に誤りあれば異端者と同様の刑罰を受ける」と宣言。さらに8月30日にはプラハに来ていた宗教裁判官ニコラウスが、フスと食事をしたり説教を聞いたりして「彼はカトリック教徒なり」と宣言しており、フスの準備は万端であった。

こうして1414年10月11日、ヤン=フスはジギスムント皇帝の約束した護衛を待つことなく、国王から派遣された護衛を引き連れ、ドイツ国内では人々から意外なほどの歓迎を受けながら11月3日にコンスタンツに到着した。彼がやっかいになったのはサレプタという未亡人の家であったという。そして彼に下されていた「インターディクト」と「破門」は一時停止されることが宣言された。このため彼は教会にいくことも行動も自由であったが、ミサへの参加だけは「危険だから」という理由で禁止された。
ところが、この間にもフスへの陰謀は着々と進行していた。この首謀者は、ライトミュール司教ステファン=パレッチ、ミヒャエル=カウジス、ウェンツェル=ティエム等であった。彼らはフスが到着してまもなく、教会の扉にフスの危険性と異端ぶりを書き、併せてミサを行ったこと、群衆に向かって説教したこと、逃亡の恐れがあることなどを示したのである。このため11月28日、フスはいきなり捕縛され監禁されたまま取り調べされることとなった。

フスを取り調べたのは、コンスタンティノープルの総司教ヨハン、レーブス司教、カステラ・マラ司教であった。彼らはかつてプラハを退いたドイツ人神学者たちを証人として呼び入れたりしたため、当初から形成はフスに著しく不利であった。さらに公会議におけるヨハネス23世の逃亡事件も、彼の身の上に影響した。ヨハネスの逃亡により、フスの身柄はコンスタンツ司教の管轄下におかれ、いままでより厳しい管理のもとにおかれるようになったのである。1415年3月24日には彼の身柄はゴットリーベン城に移された。が、ここで彼の取り調べに当たっていた委員会がウィクリフの件を担当する委員会に権限を移動した。ウィクリフ問題が、いまやフス問題となったのである。

1415年8月、第8回総会でウィクリフ説は邪説とされ、その遺骸は掘り出され、捨てられることが決定した。このとき、しかしフスの件を荒立てたくない人々もまだ多く、彼らはそっとフスに「意見の取り消し」を求めた。彼らはそれが「本心」でなくても、とりあえずそう見せかけででもしてくれれば、彼を穏便に釈放して一件落着にしようと考えていたのである。しかしフスは、これを拒絶した。彼は「もし会議が真理を明らかにするか、聖書によりそのことが証明されるならば私は会議の意志に屈しよう。だが、そうでない場合は断じて飲むことはできない」と告げた。

その頃、プラハでは両種聖餐が行われておりとの報が会議にまで伝わり、会議の雰囲気も冷たくなってくる。

1415年6月5日、第1回審問開始。フスはこのとき長い演説をしようと準備してきていたが、これは許されなかった。この席上では彼の著作物が示され、その内容について質問がだされたが、フスが細かく応えようとしたのに対して審問側はただ一言で応えよと迫ったためにただ混乱しただけに終わった。6月7日に第2回審問。この回には皇帝も出座し、審問は粛々と行われた。この回でも議論の中心はウィクリフの説であったが、彼は賛成する点と納得できない点を上げてその理由を説明した。が、プラハにおけるドイツ人退去問題等で非難されると、弁明せざるおえなかった。ジギスムント皇帝はこのときフスに自説撤回をすすめ、これ以上の保護はできかねると言った。が、フスは「私は何事かを主張するために来たのではない。私の誤りがなんであるか、それを教えてもらいに来たのだ」と言って拒否した。(ジギスムントの理解では、この時点でヤン=フスに対する保護を無効にできると考えたのだろう。ジギスムント帝が終始問題にしていたのは聖書論争ではなく、より実質的なプラハの治安問題であったことは注目すべき)第3回の審問は8日。このときは枢機卿ダイイーがフスに会議の決定(ウィクリフ異端決議)に従うように強く要求し、4つの要求項目を突きつけた。が、フスはこのいずれも拒否。審問はまたしても大混乱に陥った。

その後6月18日、24日、7月5日にも同様の審問が行われたが、フスはやはり会議決定には従わなかった。そして1415年7月6日・・・公会議第15回総会は、コンスタンツの壮麗なドームの下で行われた。このとき始めにミサが行われたが、フスは戸外で待たされたという。その後会議はフスの審問経過報告、及びウィクリフの異端説の宣言読み上げなどがあった。そしてフスの抗議はまったくゆるされぬまま、彼の著作の一切の焼却、破門宣告、そして異端宣言がなされた。その場で自説撤回を宣言すれば、まだ許されるが?と尋ねられたが、彼はこれを一蹴し、僧衣を剥奪された。

だが、ここで少し問題があった。異端者とはいえ多くの支持者をもつ人物である。おまけに公会議は、「処刑」までは宣言しなかった。公に教会が人命を奪うことは避けられたのである。
このため、ひとまず身柄は皇帝ジギスムントに預けられることとなった。このとき教会側は慣例に従って「生かして長く投獄するよう」言ったが、これはまさに慣例でしかなかった。表向きの体面を繕ったのである。彼の身柄を受け取る立場となったジギスムント皇帝は、フスをさらにファルツ伯ルードヴィッヒに渡した。ファルツ伯はさらにコンスタンツの代官を呼び、「異端者として焼く」ことを命じた。(有名な「囚人を受け取りよろしく異端者として焼け」「我ら双方によって断罪されたる者としてこの者を受け取り、よろしく異端者として焼け」という問答が行われたのはこのときである)そしてまだ会議が続行中であるにもかかわらず、フスは連れ出されて処刑場とされたブリュールに連行され、火刑に処されたのである。

処刑のとき、彼は最後の秘蹟を授けるから告白(自説を撤回せよという誘い)せぬかという神父の言葉に対して「ならばよい、私は大罪を犯しておらぬ」と答えたという。また彼を最初処刑台に縛り付けたとき、フスがイェルサレムの方向をむいているのに気づいて、刑吏があらためて西方にむけて縛りなおした。そして積み上げられた荷車2台分の藁に火が付けられたのである。

彼は燃やされ、その身につけたものもことごとく燃やされた。その灰はキリストを裏切った者としてライン川にばらまかれたという。死後の魂の救いまでも否定されるように、また「聖遺物」として崇拝の対象となることを恐れ行った処置であった。

一方彼の処刑のすこし前、1415年4月4日にフスの同志ヒエロニムスがコンスタンツで拘束中のフスを見舞いに来た。だが、彼もまたマークされており、帰国途中に逮捕されてしまう。(実際、彼は公会議より召喚状を出されていた)5月22日に連れ戻されたヒエロニムスは、しかしフスが処刑されるまでは、まったく放っておかれた。7月19日からようやく審問開始。彼の場合、彼を「異端説から転向させる」ことが審問の目的であった。そして長い監禁と執拗な審問で弱った彼は、一時的に会議決定に従うことを了解してしまう。9月11日、彼チェコ王国に当てて自説の誤りと教会会議の決定に服することを主とする手紙を書くように言われ、筆をとる。だが、彼はここで良心がとがめたのか、「コンスタンツでフスはなんの過ちもおかさなかった」という内容の手紙を送っただけであった。

この結果に、会議の一部穏健派は彼の釈放を訴えた。しかし、より多くの人々が彼を非難し、監禁を続けることを要求したため、ヒエロニムスの腹も決まった。彼は1416年2月から再度取り調べを受け、フスの説について公会議の決定に従うように求められたが「会議の言うことはすべて歪曲され、ねつ造されたものだ」と叫んでこれを否定した。
こうして5月30日・・・第21回総会の席で、彼は世俗の手に委ねられた。そして同日、フスの処刑された場所と同じところで火刑に処されたのである。

この処刑はチェコに猛烈なショックをもたらした。そしてこのショックが、引き続いて起こる大動乱の引き金となるのである。


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