ターボル戦記 第ニ部【窓外抛擲事件】


「見よ、わたしはつるぎをあなた方に送り、あなたの高きところを滅ぼす」 
 『エゼキエルの書』第6章三節

1419年7月 ジェリフのヤンが引用した


ヤン・フス、そしてヒロニスムの処刑は、各方面に衝撃をもたらした。ヤン・フスの警護のために彼に同行した幾人かの貴族たちも、特別フスの教説の支持者だったわけではないにも関わらず、公会議のこの処置に激怒し、ジギスムント皇帝以下公会議に連なった聖職者・諸侯達への怒りをぶちまけたという。同様のことはプラハでも起こり、貴族達が連盟してフスの処刑に対する抗議文をコンスタンツに送った。その抗議文には、それぞれの家450家の紋章が鈴なりにつけられ、貴族達は先を争って署名したという。(左の絵を参照)

だが、この時点ではまだ「抗議」であった。後の争乱に結びつく、直接的な暴力行使はまだ起こっていない。

1414年、ヤコウベク・ゼ・ストシーブラという人物が「二種聖餐」(両形式の聖餐)を実行し始め、大きな話題となった。これはもともとウィクリフティーンの一人であったヤコウベクの考えからでたもので、パンと葡萄酒の両方をもちいた聖餐の儀式である。これはカトリック教会における「俗人の聖体拝領はキリストの肉であるパンだけで十分であり、葡萄酒は用いない」というやり方とは対立するものであった。ヤコウベクは福音書のにあるキリストの最後の晩餐の言葉を元に、「すべてのキリスト教徒に両形式の聖餐を行うべきである」と主張していたのである。

この事件は、たちまち波紋を広げた。大司教コンラート・フォン・ヴェヒタはプラハに「聖務執行禁止」(インターディクト)を宣言。「フス派」である限り、聖職者に助任せず、俸禄を与えることを拒絶した。(これには葬儀での読経やミサの執行禁止なども含まれる。つまり聖務執行禁止状態では、魂は救われないわけである)一方、フス派の方は大司教の再三の警告にもかかわらず、あちこちの教会で「二種正餐」を行い始めた。1416年にヴァーツラフ国王立ち会いのもとでカトリック代表とフス派代表の話し合いがもたれたが、この際に「演説・説教をもって人々を扇動しないこと」を条件として、プラハ市の聖ミカエル、聖マルティン、聖ニコラウス、聖ステファン、聖アダベルト、フロー・ライヒナーム、ベトレヘム礼拝堂などでのフス派説教が許された。しかしこの結果として市内ではフス派の影響力が増大し、カトリック派との衝突もしばしばであった。

このため大司教は激怒し、ヤコウベクの「何が過ちであるのか、聖書に照らして明らかとして欲しい」という願いに対して「破門」を宣告した。しかし国王ヴァーツラフ4世は、この時点ではフス派の支持を明確にしており「破門はいかに正しいか」という論文を発表したアンドレアス・フォン・ブロッドを「逮捕監禁する」と脅していた。
が、1415年5月16日にライトミシュールの司教の訴えがコンスタンツの教会会議に提出された。ここで教会会議は「二種正餐」を「以前は存在したが、廃されるべき十分な根拠があって廃されたもの」としてこれを再度禁止した。このときフスはまだコンスタンツの獄中にいたが、なんらかの形でこの話を聞き、最初はこの過激な改革にためらったものの、後には強く支持したという。

実はこの「二種聖餐」は、13世紀にラテラノ公会議において教会の「秘蹟」の教義が確立されるまでの時代に、すでに存在したものであった。しかし信徒と聖職者の平等を重んじるこのやり方は、ローマ・カトリック教会と聖職者にはその権威を危うくするものと映っていた。教会は「神と人とを結ぶ絶対的な権威」として教義を確立し、魂の救済という人々にとって魅力的な部分を独占しようとしたのである。ゆえに、「二種聖餐説」はカトリック教会にとって「異端」であった。そして、この教説の普及と共にいわゆる「フス派」が形成されてくることとなる。すなわち、ヤコウベクの「二種聖餐」が契機となり、従来の「ウィクリフティーン」という呼ばれ方からラテン語で「両方から」を意味する「ウトラクエ」、つまり「ウトラキスト」と呼ばれていく人々が現れるからである。これはイギリスのウィクリフの改革から、さらに一歩進んだ事をしめすものであった。
「ウトラキスト」とカトリック聖職者の対立は日増しに高まっていった。

だが、これはあくまでも神学上の出来事であった。大学の聖職者、貴族、都市の指導者層には宗教的に劇的な変化であっても、それ以外の人々には特別な意味はない。彼らの日々の生活を根本より揺り動かすものではなかった。とはいえ、当時大都市に棲む多くの貧民たちにとって、それは魅力的な教説ではあった。彼らの多くは都市周辺部での耕作に従事する、いわば賃金耕作者であり、その大半は安い給料でこき使われるだけの者達であった。彼らの急激な増加はチェコの首都であるプラハ市の様相さえ変えていた。プラハ市は当時保守的な人々と聖職者の多く棲む「旧市街」と、急速に膨れ上がった賃金耕作者などが住む「新市街」とに別れていた。こうした賃金耕作者たちの間ではフス教説、そして二種聖餐説の意味である「富めるものも貧しき者も同じ形式で礼拝すること」へ共鳴する者が多かった。彼らはその日常の不満のはけ口を、宗教的情熱に委ねていたのである。

そしてこの「新市街」に現れた一人の説教師こそが、やがて人々を熱狂へと駆り立てていった。ジェリフのヤン・・・その名で知られることになる老説教師の演説が。

ジェリフ(セラウ)のヤンはチェコ南西部ジェリフという町のプレモントレ修道会に属する一修道士であった。だが、彼はフス派の説教に共鳴し、修道院を離脱していた。1418年には聖シュテファン教区教会の助任司祭となって説教を行っていたが、すぐにカトリック側の反動によって解雇。国王が定めたフス派の説教の許可のある教会の一つ、「新市街」の「雪の聖母修道会」に逃げ込んだ。彼の演説は炎のように激しく、人々を魅了したという。しかし、彼も最初のうちはそれほど過激な意見を有していたわけではなかった。国王と貴族への反抗というより、せいぜい民衆の生活状態の改善を要求し、そのために貴族や聖職者たちの過度の贅沢を戒めていたに過ぎなかったのである。国政を握る大貴族達への失望があっても、まだ国王がいる・・・そういうものであった。

だが、当時国王の政策には一貫性がなく、カトリック側もフス派側も不安を抱かざるをえなかった。国王ヴァーツラフ4世は以前より「過度の飲酒癖や怠惰」を指摘される王である。過去に、異母弟でありフス派に恨まれているジギスムント・フォン・ルクセンブルクに神聖ローマ皇帝の地位を追い出されたことで恨みがあるせいかフス派には寛容であった。だが、カトリック諸侯や神聖ローマ帝国諸侯、ローマ・カトリックの聖職者たちに突き上げられるとたちまち優柔不断となってしまう。王妃ジョフィエ(ゾフィー)はフス派を支持しており、その点で期待する者も多かったが、最終的には気まぐれで定見のない王の意見次第であった。例の教会でのフス派容認は、そうした彼のカトリックとフス派への妥協案への一つであったが、逆にフス派の結束を固め、いよいよ穏やかならぬ雰囲気が増してしまっていた。
ただ、この時点ではまだ国王は「フス派寄り」と見られていた。1418年2月のローマ教皇の「フス派教説禁止」の命令にも彼は従わなかったばかりでなく、むしろフス派を擁護する姿勢を見せた。同年12月、異母弟ジギスムントから「もし異端に対しての十字軍が興され、それによって貴国の国土が廃墟と化しても、その責めは怠惰な王にある」とした書状が来ても、彼はこれを忌々しげに読み捨てただけであった。

だが1419年突然彼は態度を変える。彼はスカリツェ会談(後述)の成果を元に「カトリックの聖職者」の地位復活を行う。これは「勅命」として官吏らに厳命されたため、官憲によって強引にカトリック聖職者がフス派教会に乗り込んできた。双方の衝突の末に破壊された教会も建て直され、カトリックの様々な施設もたてなおされた。さらにこれらの教会に、フス派教徒が入ることさえも完全に禁止しようとしたのである。
しかし、これにはフス派が激怒し、暴発しそうな気配があったため、国王はフス派に市内3つの教会での説教の許可を与えたが、これではすでに膨れ上がったフス派の人員を収容しきれず、不満は一層高まった。また、フス派聖職者はプラハで説教ができないために地方に去る者が増え、礼拝の際の説教師の数さえ足りなくなるような現象さえおきた。

ここに登場したのが、プラハに残っていたジェリフのヤンである。彼は一連の国王の政策に絶望し、王を見限った。彼は次第に過激な意見を有するようになり、とくに都市市民の「貧困」と貴族、聖職者層の虚栄や富に批判を放つようになっていた。彼の批判の矛先はフス派内部にも向いており、とくに貴族達が「フスの教説を理解していないか、あるいは都合のいいように利用している」と非難した。これはフス派の領主達にとって耳の痛い言葉であったが、このことは貧民達にとって心地よい言葉であった。まして、ジェリフのヤンがカトリックとその聖職者を非難するときの勢いは凄まじく、感激した聴衆は彼の回りに群がって離れなかったという。そして彼は、次第に「革命」の幻想にとらわれていく。彼がエゼキエルの書の言葉を引用したのは、暴力革命肯定の意志の現れでもあった・・・とも言われる。

こうして準備は整った。

「聖体奉持行進」とは、祭りの日に賛美歌を唄いながら行進する行事である。この際、聖職者は聖体顕示台をもって行列の先頭を歩くのだが、1419年7月30日のその行進は、世界史上忘れられない事件として記憶されることとなった。
その日はちょうど国王が「新市街」のフス派の優勢であった市参事会を解散し、カトリック派の者だけを再度任命したばかりであった。教区の学校はローマ・カトリックの聖職者に返され、「二種正餐」の説教を信じる者は逮捕されていた。このため、行列はカトリック教徒による「襲撃」さえも予想されたために武装した参加者が多かった。すでにこの時点で、彼らのうち幾人かは逮捕された同志の力ずくの釈放さえ考えていたかもしれない。非常に物騒な、緊張を孕んだ行進であった。
この行列は、まず聖シュテファン教会へと行進し、そこで武装した一群に囲まれつつ二種正餐方式でのミサを行った。ここでは幸い衝突は起きなかったが、すでに武装した一群が出発した事を知ってカトリック教徒側も武装の準備を進めていた。このことが新市街に知らされると、行進に加わっていた人々の興奮に一層火を付けた。そして彼らは市参事会のある市役所に押し寄せる。
その時、市役所ではちょうど新任のカトリック派参事会員らによる臨時会合が行われていた。ジェリフのヤンは、市役所の前で行進参加者に対して説教を行い、逮捕されたフス派教徒の解放を参事会に掛け合うことを求めた。人々も盛り上がり、ただちに市役所は行進していた人々によって包囲された。事態はここで一気に混迷する。興奮した幾人かの行列参加者が、制止を振り切って市役所内に飛び込んだとも、当時ここにいたフス派の傭兵部隊の長であったヤン・ジシュカの指揮のもとに、行列の人々が役所に乗り込んだとも言われている。
とにかく、この結果はすぐに明らかとなった。13人の市参事会員は、市役所内に突入した人々の手によって市役所の窓から外に投げ出された。ただ投げ出されたのではない。下では、武器を手にした群衆が落ちてくる市参事会員を串刺しにしたのである。逃れるすべはなかった。

狂乱と冷静な処理が並列して行われた。市参事会員達の無惨な死の後、ジェリフのヤンはすぐに群衆を扇動して市役所内に突入。ここで興奮さめやらぬ人々を前に市民会議を行って「新市街の自治」を決定した。さらに幾分落ち着いた後、この会議は肉屋のピーター・クスを新市長に(「肉屋」は中世において非常に重要な由緒ある身分である)選び、4人の指揮官からなる防衛隊の結成を決議した。

当然、この事態に国王は激怒した。彼は当時プラハの騒擾を避ける意味で王城ではなく郊外のクンラティッツ城にいたが、その報告を聞いたとたん愕然とし、意識を失ったという。そして気が付いて後非常に怒り「フス派を根こそぎ滅ぼしてくれる!」と叫んだ。しかし、この怒りはフス派に寛容なジョフェル王妃の宥めによって幾分かは和らいだようで、ジェリフのヤンらが選んだ新市長も彼は認めたりもしたが、一方でこの革命的な事態を粉砕すべく異母弟ジギスムントに「援軍」を頼んではいた。
だが、この事件は彼にとってよほどショックだったのだろう。おそらく寝酒の量も増えたに違いない。すでに昼間から飲酒癖のある王であり、彼の心臓はこのような事態に耐えられなかった。1419年8月16日、国王ヴァーツラフ4世は心臓発作でこの世を去った。

国王の死去・・・これは事態の展開を、さらに複雑なものとした。王位後継者と、信仰の問題が絡んだのである。


ここで少々話は時を遡る。ヤン・ジシュカに代表されるフス派のもう一つの、そしておそらくもっとも重要なテーマな一つである「ターボル派」についてである。

1419年2月、モラヴィアのスカリツェでヴァーツラフ4世、ジグムント皇帝、教皇マルティヌス5世の使者が会談して、プラハの教会に関してカトリック側への返還を条件に「聖務執行禁止」を解除する約束を交わした。しかしこれにフス派が激しく抵抗したため、国王は3つの修道院の管理する教会に限ってフス派の説教を許した。前述したように、これはフス派の不満を一層喚起しただけにとどまり、後の蜂起事件につながってしまう。

が、このとき地方に向かったフス派説教師達が問題となった。もともと地方、それもチェコ南部のウスティやピゼックの地は1339年にも異端がはびこった地方である。またプラハから地方を回ったヤン・フスもここで大歓迎されている。つまり地方にはフス派が発展する土壌があったのである。そして彼らフス派説教師達の説教会はしばしば原野の大集会という形で執り行われ、次第に「信仰共同体」として組織化されてゆく。こうした「信仰共同体」はあちこちに設立され、次第に高まってくるカトリック側勢力や帝国との政治的緊張とともに彼らに結束を促した。
やがて彼らは「ターボル」という場所に集まるが、この「元祖ターボル」はベヒン付近のターボルと呼ばれた山であった。1419年7月22日の大集会は、ここで開かれたとされる。当初、ここは二種正餐を説く説教師とその教えを聞く人々の一集会所でしかなかったらしい。地方での同様の集会はプルゼン、ザテック、ルーニィ、スラニィ、クラトヴィなどの町でもおこっていた。

ベヒン付近のターボル山はその後礼拝堂が建てられて、フス派の人々の集結の拠点となったが、やがてカトリック側の政治的圧迫が強くなったのでアウスティ近郊のフラディステ(12世紀には銀がとれたが後に戦争で廃墟と化した街)に共同体の拠点を移すこととなる。ここは1412年、プラハを追われたヤン=フスが説教した領主ヨハン・フォン・アウスティの城があり、フス派が巡礼する場所ともなっていた。ところが1419年、国王がフス派への圧迫を強めるとヨハンの子プロコプは、カトリック信徒の叔父ウルリッヒによってアウスティの城を奪われしまう。プロコプは一度逃れ、鋳鐘師フロマドカ、聖職者ヴァニチェック、ヨハン・フォン・ビリドンとフス派農民の助けを借りた。そして1420年にアウスティを急襲。内部の市民もこれに応じて城門を開き、彼の占領を助けた。彼は叔父らを追放したが、アウスティは防御に向かない街であり、予期されるカトリック側の反撃には対応しきれないとして、これを捨ててフラディステに移った。これは鋳鐘師のフロマドカの進言によるもので、フラディステは深い谷と川に囲まれた要害の地だったのである。
これを聞きつけたのが、当時ピルゼンにいたヤン・ジシュカであった。彼は配下の騎士フヴァール・レピキー・フォン・マホウィアに兵を与え、援軍としてこの地に差し向けた。が・・・やがてジシュカ自身もカトリック勢力に圧迫され、ピルゼンの共同体を率いてここに移動してくることとなる。これがターボルの運命を、いやフス派の運命を大きく変えていった。


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