ターボル戦記 第三部【神の戦士たる我ら】


「・・・こうしてこの丘とこの場所を、ある人々は建設者の名を取ってジシュコフと名付け、また別の人々はドイツ人の敗北を記念して戦場と名付け、また別の人々は正しく聖杯の山あるいは聖杯による山と呼んだ。聖杯の敵達が、この場所で神の助けで聖杯のために戦う人々によってうち負かされたからである。そして皆は、お互いにわかるようにするために、衣服や旗に赤あるいは白の聖杯の印をつけるようになった。」

プジェゾヴァーのヴァヴジネツの年代記より


CHAMI様作ヤン・ジシュカ像です。素晴らしい!窓外抛擲事件」により8月16日ボヘミア国王ヴァーツラフは卒中を起こし死んだ。王妃ジョフィエ(ゾフィー)は直ちにフス派の領袖たちを集め、とくに上位貴族のヴァンテンベルクのチェニェク(彼は1417年ロジュンベルク家領の教会会議を召集し二種聖餐を行うよう命令した)を中心に、国王亡き後のボヘミアの政治をまとめるべく尽力することとなった。
王妃の信頼に対しチェニェクは8月下旬から9月上旬にかけてプラハ市で実に63年ぶりの会議を行い、ここで王国に対して第一の継承権を持つ故王の異母弟、神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクに対しての「要望書」をまとめた。これは前半部は「二種聖餐の承認」及び「フス、イェロニーム(ヒエロニムス)への異端の疑いを解くこと」以外はさほど過激なものではなかった。が、後半の「共同体からの事項」となると調子ががらりと変わった。後半部では「チェコ語の説教を認めること」、「教義を巡る決定の留保」、「近年プラハで生じた争乱の処罰を行わないこと」など到底ジギスムントが飲むはずもない要求が現れているのである。

この後半部分については、おそらくその過激な内容からジギスムントには提出されなかったとされる。この部分の実際の作成者であるプラハ市民たちは、貴族層の穏健な改革プログラムよりはるかに先鋭的な方向へ進みつつあった。

一方郊外では、カトリック、フス派双方による武力対立が顕著になってきていた。
当初プルゼンにいたヤン・ジシュカは聖職者ヴェンツェスラフ・コランダとともに共同体を指導していたが、彼らに対するカトリック側の武力攻勢も厳しく、前回記述したとおり彼らは拠点をフラディステ、後のターボルに移すこととなる。ターボルには他にも各地から中小のさまざまな信仰共同体が流れこんできたが、その中には、それまでのフス派にはなかった「終末論」的な教義を含んだ集団もあった。それは時には現社会の秩序の否定をも標榜し、急進的な社会革命の様相さえ見せた。これらの集団の中には従来チェコにあった異端諸派やフランス(特にピカルディ地方)やイタリア北部の異端運動、あるいは東方の影響をうけた者も多く、「原始キリスト教社会」への人々の熱狂を誘った。彼らの中には「キリストの再臨」を告げる者たちさえいたが、この予言がはずれても彼らは信仰から離れようとはせず、ターボルに居着いた。すでにカトリック教徒たちの敵意は激しく、ターボル以外に逃れる場所がなかったことも事実だが、そのような多種多様な存在が混在する中でターボルを、そしてフス派をまとめ上げていく必要性も出てきていた。

ヤン・ジシュカ・トロツノフ(トロツノフ出身)はチェコ南部の没落貴族の家の出身であった。当時、騎士などの貴族最下層の家々の貧しさは最悪であった。食っていくことさえ満足にできない当時の没落貴族の青年がたどる道・・・それは傭兵になることである。戦場で戦うことはもちろん、盗賊紛いの略奪、金目当ての強請、あらゆる薄汚い仕事をやって糊口をしのぐ毎日である。そんな日々の繰り返しの中で、しかし彼の天才的な戦術家としての才能が身についていった。そして彼は自ら傭兵達を集め傭兵隊を結成。傭兵隊長として活躍を始める。
やがて、彼はポーランドで「中世最大規模の戦い」と言われるグルンヴァルトの戦いに参加。この頃すでにジシュカはかなりの高齢であったが、傭兵隊長としての腕は確かだったらしく、その名は一躍各国の宮廷に轟いた。このため彼はヴァーツラフ王の宮廷で「宮廷付き武官」として働くようになり、プラハの旧市街に家を持った。この頃、彼はヤン・フスの説教に触れ彼の支持者になったと言われる。ジシュカはその後地方に行き、静かに余生を送ろうとした(病気だったらしい)のだが、プルゼンの共同体の指揮(あるいは防衛?)を要請され、その後既述の事件を経てターボルへ向かうこととなった。

当時ターボルは諸派の混在する状態ではあったが、都市下層民、農民、下級貴族等々からなる人々は熱狂的に町の建設を始めていた。そして外的に対する防御の必要性から優秀な指揮官を求めていた。傭兵隊長として広く戦場を駆けめぐったジシュカは経験・才能そちらをとっても一級の人物であり、人々はこぞって彼に指揮を執ることを求めた。彼はプロコプ(アウスティ)や彼の旧知の聖職者たちの支持を受け軍事的な指導を引き受けたが、そのためにはターボルの状態を改善する必要があった。
まずターボルでは全成員が4つの大きな政治的・軍事的集団に分けられた。彼らは相互に助け合い、防衛戦あるいは生産物の配給にも平等に義務を負い、並びに配給を受けることとした。「すべてのものは、すべての人にとって共有でなくてはならない。人は何ものも個人のものとしてはならない。さもなければ彼は死の罪を犯すことになる」という言葉通り、厳格な平等主義が提唱され、これにもとづいてターボルの一切の生活が行われるように定められた。もっとも宗教的な価値観の差異や、絶対平和主義の理想を掲げる党派から防衛戦争への参加を期待することは容易ではなかったが。

1419年9月17日、プジィー・ホラで開かれた会議ではターボル派以外にも多くのフス派が集結した。そこではまだ終末論の影響が強かったが、「全身分への呼びかけ」とされた声明で「すべての身分の者がそれにとらわれることなく立ち上がり、自由に神の言葉を聞くことと、二種聖餐の権利を守ること」を呼びかけた。そしてこの会議の後、さらに30日にクーシュキで会議を行った後、その一部がプラハに向かう。プラハは風雲急を告げていた。

チェコ王国摂政となった王妃ジョフィエはジギスムントとフス派の橋渡しの役目を果たしていた。彼女は熱烈なフス派教徒ではあったものの、これ以上チェコが争乱に巻き込まれるのは避けたかった。ジギスムントもそれを理解しており、彼女の摂政を認め、フス派であるチェニェクの補佐を認めたのである。しかし事態はジギスムントにとって次第に耐え難い方向へ動いていく。1419年11月4日〜9日、彼がプラハの王城に送った軍勢(数は少ない)は、彼の戴冠式の用意をするはずであったがプラハ市によって拒まれ、小競り合いの内に本格的な戦闘に激化。用意の整っていない軍の消耗を心配したジギスムントは「和平」を結ばせいったん軍を引き上げさせる。しかしこの事件がもとで、ジェフィエが摂政を辞任したので、ジギスムントとフス派の間を取り持つ者はいなくなってしまった。
翌12月、モラヴィアのブルノに現れたジギスムントはチェコ王国からの代表団と会見をもったが、ここでジギスムントは全く治安上の問題からこれまでのフス派教徒の暴力行為を容認してきたプラハ市の責任を咎め、カトリックの聖職者や市民の帰還を行うこと、最近市が構築した防御施設を破壊することなどを求めた。プラハで8月から9月にかけて開かれた会議の結果(前述)は無視され、プラハ市には無条件降伏のような形で皇帝の命令が突きつけられたのである。また、この皇帝の命令が知れ渡るやいなや、クトナー・ホラでは逮捕され鉱山労働に従事させられていたフス派の聖職者が坑道の縦穴に放り込まれ殺された。代表団はプラハに戻ったが、もちろん憤激をもって迎えられる。もはや、皇帝との対立は避けられない情勢となった。

1420年に入り、事態はさらに緊迫の度を深める。ジギスムントはひそかに軍勢を召集。すでに昨年末より彼は「正統な王位継承者」としてチェコのカトリック諸侯及び聖職者に重税を課し、彼と友好的な宗教的な領地から十分の一税を徴集していた。さらに2月にはプルゼニ、フラデツ、ピーセクなどへ「ウィクリフーテンの処刑」を命じ、ローマ教皇にはウィクリフーテン及びフス派教徒への「十字軍」宣言をしてくれるよう求めた。これに対し、相次ぐフス派の事件に憂慮した教皇マルティヌス5世は1月にフィレンツェで「十字軍勅書」を発令。全キリスト教諸国に対し、異端撲滅のために十字軍に参加し、参加する者には「贖罪」の特典が付与されると宣言した。さらに聖職者に対してはこの十字軍についての説教をし、参加者を増やすことを求め、かつ多数の説教者がヨーロッパ各地に派遣された。特に教皇特使ルカ司教フェルディナントの尽力は大きく、十字軍への参加者は増大した。

一方、プラハでは4月に入りジェリフのヤンがジギスムント皇帝を「黙示録の赤い龍」に例えた演説をし、いよいよ武力による対決が避けられないことを告げた。3日には旧市街、新市街のフス派教徒が集結し、参加者は命がけで二種聖餐を守ることを誓い、あわせて今後の体制として両市街に4人ずつの執政官を任命。20日にはボヘミアとモラヴィアのすべての身分と共同体に「決戦」のための呼びかけを行った。これにはフス派の貴族、ヴァルテンベルクのチェニェクとロジュンベルクのオルシトフなども参加。ジギスムントの「王位継承」を破棄させることを目的とした共同防衛を宣言した。また、このときにフス派に属する様々な意見の代表者達の間で取り決められたのが「プラハ4箇条」である。5月に行われた会合で決められたその内容は
1、神の言葉はチェコ王国全域において自由に、そして妨げられることなく聖職者によって述べられ、説かれるべきである。
2、神の肉と血は、パンと葡萄酒によって、あらゆる忠実なキリスト教徒に自由に与えられるべきである。
3、多くの聖職者は世俗の法にもとづいて財産を所有し、キリストの教えに反し、聖職者としてのつとめを損ない、世俗の領主身分を妨害しているので、これらの不正な財産を没収するべきである。
4、死に値する罪を犯した人々、神の法に背いた人々は、どのような身分であれ裁かれるべきである。贖宥状の売買、聖職売買等々・・・。

というものであった。
しかしこの内容は、急進派の主張を盛り込んだものではなかった。多くの急進派には不満なものであり、容認はできるがそれだけでは物足りないというしこりを残すものであった。だが、迫りくる脅威を前にしては、内輪の不満はささいな問題に過ぎなかった。

ジギスムントの「異端撲滅十字軍」は教皇の使節達の活躍もあり、欧州のかなり広範囲より兵を集めることができた。その参加者として記録されるものはハンガリー人、クロアチア人、ダルマチア人、ブルガリア人、シカール人、ワラキア人、クマン人、ヤツィーグ人、ルーテン人、ライツ人、スロヴァキア人、クライン人、ケルンテルン人、シュタイエル人、オーストリア人、バイエルン人、フランケン人、シュワーベン人、スイス人、フランス人、アラゴン人、イギリス人、ブラバント人、オランダ人、ウェストファーレン人、ザクセン人、フォイクトランド人、マイセン人、ラウジッツ人、マルク人、シュレジェン人、ポーランド人、メーレン人、ベーメン(ボヘミア)人等々である。またイタリア人も若干名参加しているし、聖職者達ががローマから皇帝の元へ駆けつけていた。見かけないのは北欧人だけというまさに多国籍軍である。当時の記録に寄れば「30以上の国州から無数の人」と書かれている。この膨大な軍隊は騎士だけでも7万を数えたとも、武装せる人8万にも達すると言われ、最低でも1万2千であったとされる。当時の世界でこれだけの大軍が集結すれば、結果は目に見えていた。ジギスムントは大いに満足し、5月になってやっと進撃を開始する。15日、クトナー・ホラの彼の元に最期の和平のチャンスを求めたフス派の代表団が訪れたが、ジギスムントは「例え王国が滅びようとも異端を撲殺する」と断言し、この短い会談を終わらせた。

十字軍のチェコへの接近に伴い、クトナー・ホラの炭坑では、強制労働に従事させられていたフス派の人々が、坑道の深い穴に落とされて虐殺された。「異端撲滅」の大義に酔いしれ、勝利を疑わぬ大軍は皇帝を擁してゆっくりとプラハへ進軍。プラハの王城はフス派に囲まれながらも健在で、ジギスムントに忠誠を誓っていたので、たちまち開城。ジギスムントは王城に入り戴冠式の用意を始めるが、これに対しフス派軍は市街部防衛のために兵力を集中していた。

フス派軍は王城からヴルタウァ河沿いに北側に陣を引いた十字軍とプラハ市の城壁を背にして対峙した。また、王城の包囲に失敗し十字軍に追い払われたフス派軍はジシュカ率いるターボル軍の援軍を求め、プラハ郊外のヴィトコフの丘に立て籠もった。ジシュカ率いるターボル軍は、凄まじい数の十字軍を前に、籠城戦の弱点「防御から速やかに攻勢に転じること」を考え、あえてプラハ市の壁の中に立てこもろうとはしなかった。ターボル派兵士らはジシュカが急製造させた不思議な「戦車」を盾に大量の火器を並べて、川向かい十字架軍と対峙する。

7月14日、十字軍がついに大規模な攻勢を開始した。数の上で圧倒的に劣勢なフス派軍であったが、騎士たちの得意とする「騎兵突撃」はジシュカの中では計算され尽くしていた。彼は重装された騎兵の突撃は恐るべきものではあるが、それはまったく無防備で規律のない歩兵隊や騎兵達にだけ有効なのであって、機動性のある「戦車」(ドイツ語で「ワゴンブルク」という)に守られ、多量の火器を集中的に使用し、規律のとれた陣形を持つ歩兵の密集体形の前には騎兵部隊は無力であると考えていた。実際、十字軍側の攻撃は熾烈なものであったが、ターボル軍の「戦車」と「火器の集中攻撃」にはまったく手も足も出なかった。数ばかり多く、功名を焦る十字軍側の指揮の乱れもあったのだろう。合戦自体は数日続いたものの、ついには十字軍は敗走するに至った。帝国の軍旗や十字軍の勅書さえフス派軍の手に落ちたとされる。大兵力の軍勢が寡少な規模の軍に完膚無きまでに破られたという、歴史上数少ない事例の一つとなった。(なお火器については、このときチェコ語で「ピーシャラチ」といわれていた小型銃が、やがて西欧で「ピストル」と呼ばれたと言われている。)

ドイツ、あるいはハンガリーへ向かう街道は、戦場から逃走する十字軍兵士で満ちたという。一様に皆恐怖に震え、戦場におけるフス派・・・特にターボル軍の壮絶な攻撃に青ざめていた。そこには騎士の戦争の優雅さはなく、必死の攻撃があったからである。落馬した騎士にもフレイルや槍の一撃が加えられ、串刺しになった騎士が宙に放り出された。長柄の槍に串刺しになった騎士たちの体から流れ落ちる血で、戦場に「血のカーテン」が張られたようであったという。火器の一斉射撃の轟音は馬の戦列を乱し、後陣の兵士はもはや戦う前に戦意を消失し、逃げ出す始末であった。

ジギスムント皇帝は7月28日、聖ヴィート大聖堂(プラハ王城内にある)でボヘミア王として戴冠式を上げたが、軍勢が大敗したことを受け、すぐに退却しなければならなかった。それは寒々しい戴冠式で、敗北の悲哀の満ちる重苦しい雰囲気の中で執り行われたとされる。皮肉なことだが、生前あまり仲の良くない兄弟であった異母兄ヴァーツラフの、これが報復であったのか。
ジギスムントは王冠と旗をもって、自らが継承したはずの王国から逃げ出さなければならなかった。

ジシュカは勝利の後、ヴィトコフの丘に防衛施設を建設した。これをもってこの丘を「ジシュコフの丘」とも「勝利の丘」とも呼ぶようになったという。また、冒頭の年代記の言葉の通り、この頃からフス派はお互いが友軍か敵かをみわけるために「聖杯」の印を衣服などに付け始めた。そして多くのフス派の人々が、この戦いの奇跡的な勝利に神の助けを信じ、「二種聖餐」の厳守などをあらためて誓い合った。

1420年の十字軍撃退から21年はじめにかけて、フス派穏健派(ウトラキスト)とターボル軍は協力してその敵と戦闘を繰り広げた。とくに西ボヘミア地方でカトリック諸侯を中心として結成された同盟に対しては攻勢を強め、プルゼニやその他の都市を落とした。この時点でフス派全軍の指揮官であったジシュカの戦術は確実で、冴え渡っていた。彼の「戦車」は鉄板、あるいは固い木材による防御板を施した4輪、あるいは2輪のもので、中には改良された大砲、あるいは軽砲が載せられた。へりには弩がつけられ、これは一カ所からの操作であっちこっちに矢が発射できたという。戦車には20人までの乗り込みが可能で、兵士達は長い穀竿を武器にしたものや槍を持ち、それに小火器を組み合わせていた。小火器はタンネンベルクガンや、その改良系のもの、サーペントタイプ(S字型の引き金式点火・発射装置のついたもの)の銃も存在した。これらは敵の騎士たちの突撃のタイミングを見計らって構えられ、戦車に近づく頃に発射された。火器の威力が乏しいために用いられたやり方ではあったが、実に効果的な戦法でもあった。また、クトナー・ホラの戦闘では、ジシュカ率いるフス派軍はクトナー・ホラの中で完全に敵軍に包囲されてしまったが、従来防護戦の補助に使用していた火器を攻撃的に用いることでこの危機を脱したという。このような臨機応変の用兵術はまさにジシュカの才能であった。

こうして築かれたフス派の優勢は、1421年6月3日から7日にかけて行われた「チャースラフ会議」で決定的なものとなった。この会議はヨーロッパ初の「国民会議」とさえ呼ばれているもので、ほとんどすべてのフス派の支配地域から代表者が集まった。主題は「王国の平和」。決議文作成者には筆頭にプラハの両市街の市長、この年4月にフス派に入ったプラハ大司教コンラート・フォン・ヴェヒタと貴族達、そしてフス派に所属する都市の代表者が名を連ねた。決議文は主に三点から構成され、「プラハ4箇条」の承認の後、ジギスムントの王位継承が改めて否定された。そして最期に20名の「執政官」が選ばれて、王国の管理が任せられることとなった。その構成は上級貴族5名、プラハ代表者4名、下級貴族11名となっている。ジシュカはこの下級貴族に入っていた。「執政官」たちの補佐役としてはプラハ大学のヤン・プシーブラム、説教師ヤン・ジェリフスキー(ジェリフのヤン)の意見が聞かれることとなった。こうしてフス派の全国的な組織は固まり、指導部の完成したのである。それは従来の王国政治とはかけ離れた、革命的な政権の誕生であった。

しかしこのチャースラフ会議においても、急進派(ターボル等)と穏健派(ウトラキスト及び都市の市民)、あるいは貴族と市民や農民の考え方の相違は露呈し、対立することも少なくなかった。とくにプラハ市において大きな実権を握るジェリフのヤンの行動は、やがてフス派に大きな波乱をもたらすことになる。そしてまたターボルにおいても、様々な意見が混在することに限界がきつつあった。


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