ターボル戦記 第四部 【混沌、そして勝利】


「ジシュカの印象的な野戦の記録が証明しているのは、彼の死後もボヘミアのフス派運動の生き残りを確実にした軍事力と軍事技術の優秀さである」

バート・S・ホール「火器の誕生とヨーロッパの戦争」より     


フス派軍出陣ヤン・ジシュカは第一回の異端撲滅十字軍を撃退した後、組織的な軍組織づくりに着手する。ターボルでは一部隊ごとのまとまりが作られ、それぞれに戦闘指揮官が配置された。この戦闘部隊には中核となる「ターボル」と呼ばれる場所が設けられ、ずっと後にある人物がフス派の戦術と一緒に受け継ぐことになるが・・・これはまだ先の話である。

ジシュカはさらにターボル軍の兵員確保のために農村や都市市民からの義兵を募り、これらの人々の訓練を開始した。何せ多くはろくに武器にさわったこともないような人々である。また当時欧州に広く軍馬を供給していたハンガリーは、皇帝ジギスムントの領土でもあり、当然のことながら「戦略物資」として馬の輸出を禁じていた。したがってターボル軍では、当時の戦場の主力である「騎兵」をつくることはできず、かわりに精強な歩兵隊の完成が急がれた。

ジシュカは、農民達に慣れない武器を持たせることの愚を悟り、彼らに柄の長い穀竿を持たせた。これは脱穀の際に使用する農具であるが、多くの者達が使いなれている上、重装騎士に対して大変効果的であった。また、クトナー・ホラや鉱山地帯を占領してからは武器の製造を急がせ、長い柄を持つ鈎付き槍、戦車の装甲板、鉄砲等々が次々と日に日を継いで生産された。ジシュカの訓練は、ときに実戦というもっとも厳しい形で行われたが、その規律の正しさ、身分を問わないで登用した指揮官達の有能さは卓越していた。この軍隊は行進するときは整然と隊列を組み、ときには戦車に乗り込んで移動したという。ドイツ人のさる史家にいたっては「まるで近代の機甲師団のように」移動したと評している。「寄せ集め」の軍隊は、次第に「プロフェッショナル」顔負けの精鋭軍に仕上げられていったのである。

一方、最初の十字軍撃退から約1ヶ月ほどたった頃、フス戦争の推進役のプラハ市ではジェリフのヤンが、自らの支持者及び党派を集めて密談を行っていた。彼はプラハ市の、特に旧市街地の裕福な家庭と貴族の家々が未だに「穏健的な」フス主義にとどまっていることを批判しており、時きたらば彼らの握る権限をも自らが掌握せんと狙っていたのである。また7月4日から予定されていた教会会議で、穏健派が急進派を排除するかも知れないという危機感を抱いてもいた。
そして1421年6月30日、彼は何人かの支持者とともに聖母教会の鐘を乱打させ、これに集まってきた市民を扇動して旧市街へ行進。再び市庁舎を襲撃し、旧市街の参事会員たちからその印章を剥奪し、旧市街と新市街の両方の合同を宣言し、新しい参事会員が選ばれるまでの臨時措置として4人の「執政官」を選出するための集会を開いた。この行動により、新市街に多い急進派は旧市街の穏健派を圧倒し、完全にその勢力を統制下においた。ジェリフのヤンはプラハ市における権限を一手に掌握したのである。
彼のこの行動により、新市街・旧市街双方から新たに15名づつの参事会員が選ばれ合同で市政の運営に当たることとなった。しかし、この行動はプラハ内部の分裂をより一層深めることとなる。当時のプラハにおいて穏健派の市民、貴族、聖職者らは新市街の急進派市民の過激さについていけず、カトリックとの妥協、あるいは少なくとも二種聖餐さえ認めてくれるなら和平も・・・という雰囲気さえあったのである。また、大学のマギステルで穏健派の指導者たちであり、フス派主義に原理的な固執をみる聖職者たちの少なからずも、ジェリフのヤンの行動に辟易し、彼とその取り巻きらの行動を束縛する必要性を感じていた。

ジェリフのヤンのプラハにおける権力掌握後、全フス派による教会会議が開かれた。この会議では主に聖職者の道徳の乱れが弾劾され、プラハで放置されたままのカトリック派の教会財産へのあらゆる権利要求が拒否された。これは世俗諸侯が、教会の財産を略奪しかねないためにされた措置である。しかし、全体的には穏和な内容の会議であり、従来からフス派の内部に巣くう「教義・信仰上の対立」に踏み込むような問題は慎重に避けられた。

ジェリフのヤン及びプラハの急進派は、教会会議を無事乗り切ると、穏健派ウトラキストとは対立しながらもプラハ市政を行う。その中には「レント」という賃貸料の基本的な廃止などもあり、都市の貧民達からは大変に歓迎された。しかしこれはそういう市民の多い「新市街」だからこその法令であり、旧市街の、おもに「貸し手」であるところの富裕市民達、不動産所有者たちからの評判は悪くなっていった。「狂信者」というジェリフのヤンへの陰口もたたかれはじめる。
この一件は、ジェリフのヤンの過激な演説や行動についていけなくなる人を生みだしてしまう。そして彼の回りには扇動演説にすぐにのってしまうような人ばかりが集まり、市政を運営するという重要な役目を任せられる人が少なくなってしまった。貴族達はそんなジェリフのヤンをひそかに冷笑していたが、彼の権力は恐れていたため、表面上は服従する姿勢を示した。

一方、ターボルも少しづつ建設当初の熱狂から冷めつつあった。そこには「原始キリスト教社会」への理想はまだあったが、現実に会わないその理想から離れ、かつ自らの利益を考える人々も少しづつ現れ始めていた。当初ターボルの聖職者たちは農民達に「地代を払う必要は聖書に書かれていないのだからないのだ」と説教していたが、1420年には「地代」を農民達に要求し、徴集し始めていた。(かれらターボルの聖職者は正式に聖職者に任じられていないものも多かったようで、正式に任じられた聖職者たちとの争いもあった。このため地代が二重取りされるような事態もおこった。)またピゼック市(ターボル派の同盟に参加)では市参事会が非ターボル派の市民財産を強制的に没収し、参事会員達で分け合ってしまっていた。他の同盟都市でも同様のことは起こり、これは止めようもなかった。
ターボルでは他のフス派都市とは違い、なかなか頑固に当初の理想を貫き通そうとしたようではあるが、その莫大な軍事費の捻出は共同体の税だけではとうていまかなえるものではなかった。そんな中、ターボルにおいては手工業の発展が起こり、報酬は安いが質の高い労働力と共同体であるという仲間意識も手伝って「都市市民」という社会を作りだしていく。これは当初はなんということもなかったが、やがてターボル派を支持する農民達との間に、すこしづつすきま風を吹かせる原因ともなっていく。

だが、より一層深刻な対立が急進派内部に引き起こされつつあった。ターボル派以外の急進派・・・ピカルディアダム派等との争いである。

少々話は戻る。ターボル創生期である。
ターボルにはチェコ国外からの影響があったことは前に見たとおりである。もともとヤン・フス自身をして感化せしめたのがイギリスのウィクリフの教説であることもあり、イギリスからはペトル・イングリッシュ(英語名:ピーター・ペイン)元オックスフォード大学の学者などがやってきた。彼はウィクリフの教えに従うローラッド派の信奉者であり、イギリスでの異端審問の難を避けて1413年にこの東の国にやってきたのである。彼はその後プラハ大学に入り、そこでフス戦争のすべてを見て行くこととなる。また、1418年にはフランス・ピカルディ地方からと思われる異端者の群が現れ、プラハに住み着いた。彼らは祖国での弾圧を逃れてきたと告げ、フランスにおける異端思想をプラハに伝えたという。彼らの思想には同調者が多数生まれ、これがフス派の思想とも混じり合って、さらに大きな集団となった。ボヘミア各地にできた信仰共同体の一つにこの「ピカルディ派」がある。彼らはフス派と違い、かなり「終末論」の影響の濃い「千年王国思想」を有していた。そしてこの共同体の指導者となったのがチェコ人のマルチン・フースカである。
フースカはターボルなど急進派に近い立場を維持していたが、急進派においても特異な立場にあった。彼らはターボル軍の軍事行動にも参加したし、ミサや集会にも参加したが、それでも独自の集会を行った。その他の急進派とは違い、彼らの場合行動様式が異なっていたというより、思想的な差異が大きかったというべきだろう。すでにプラハからはピカルディ派に対する「弾劾」の声が上がっていた。「ピカール主義」といういうような非難がそれである。ピカルディ派の主張とはことさら二種聖餐にこだわらず、「聖餐」は単に象徴的な意味しかなく、聖別の後にもそれは単なる偶像に過ぎないという一種の合理主義であり、ある意味フス派全体の結束の核(二種聖餐)を、斜めに構えてみている雰囲気があった。つまりフスの思想からさらに離れた、もっと違う方向の異端者だったのである。そしてこのような主張は、フス派全体の結束を乱すおそれがあった。事実、千年王国思想からはフス派当初の理念である「絶対平和主義」への回帰者が現れ「共同体の義務」である相互防衛にさえ否定的な者がでてきていた。これはフス派にとって危機である。十字軍、あるいはカトリック諸侯という現実の脅威を前にして戦闘を忌避するものの存在を許していては、軍紀が乱れる恐れがあった。

マルチン・フースカとの交渉役は、おもにヤン・ジシュカが請け負っていた。ターボルの聖職者ニコラウスとジシュカは宗教問題に関してはかなりアバウトだったようで、マルチン・フースカ率いるピカルディ派が戦闘ではかなり役立つすぐれた兵士であることも彼らの心証をよくしていたらしい。が、今やターボルにおける指導的な地位にいる聖職者(説教師達)たちはジシュカ等をせっついて彼ら「ピカルディの輩」に宗旨替えを迫るように促していた。当初、ジシュカはこの問題にあまり深く関わらなかった。というより、ボヘミア国内のカトリック諸侯の掃討に忙しく、そんな暇は無かったのである。が、十字軍も撃滅し、一段落してターボル市に保守的な傾向が見え始めたところでこの問題は急に盛り上がってきた。もとより「フス派全軍指揮官」であるジシュカにとって宗教的な会談は苦手である。彼はニコラウスと語らって、マルチンと会談をもった。そこではピカルディ派の教義を全フス派の前でつまびらかにした上で堂々と討論を行えばいいというジシュカらの主張が示され、マルチンも歩み寄りを見せた。ところが、これに穏健派が激怒した。当時は次の十字軍の脅威が危険視されていた頃である。ジシュカは突き上げられ、貴族達は「騎士を引き上げるぞ」と脅しをかけた。フス派軍において騎士とは、大貴族らが有するものであり、これはいかに歩兵隊が優秀であってもまだ欲しい戦力ではあった。

だが、マルチンのほうが何を思ったかターボルの共同体を離れ、軍務にも参加せずピカルディ派の独立の気配を示した。これにはターボルの人々も怒り、ジシュカはやもうえず1421年1月末にマルチン・フースカの身柄を拘束する。続いてターボルはピカルディ派の追放にのりだし、200から300人のターボルに住むピカルディ派が追放された。彼らはターボル近郊の廃要塞を手に入れるとこれを修復し、この中で新たに共同体を復興しようとした。とくにこの共同体では「結婚しなくても肉体的な性愛行為を認める」という事が容認され、女性の独占などが禁止された。これはもはやフス派の教義とはなんの関係もない事柄である。これには従来ピカルディ派に対して擁護的であった人々でさえも、離れざる終えなかった。(ただしピカルディ派内部でもこういったことには異論があった。マルチンもこれに与していなかったとされる)
こうしてプラハとターボルはジシュカに対して「軍事出動」を命じた。目的は「ピカルディ派の制圧と根絶」である。ジシュカはマルチン投獄後もプラハのフス派大司教とマルチンの会談を提案し続けていたというが、これはあっけなく拒否された。マルチンは釈放され、ジシュカの軍勢がピカルディ派の掃討を行うその矛先をかろうじて避けた。そして生き残った信徒とともにモラヴィアに逃亡したがそこでフス派のシンパに捕らえられた。当初、ジシュカは彼の身柄をターボルに引き渡すように強行に要求したという。彼はマルチンを殺すつもりはなかったと思われる。が、ジシュカの思惑を知るプラハの穏健派は「フス派大司教に」引き渡すことをより強硬に主張した。そして穏健派だったマルチンを捕らえた者は、プラハに身柄を護送したのである。マルチンには凄惨な拷問が加えられ、改悛(フス派に)することを求められたが、彼はすべてきっぱりとこれを断ったという。1421年8月21日、迫りくる第二次異端撲滅十字軍を前に、彼はフスのよう焚刑に処された。しかし、ピカルディ派はこれで根絶されたわけではなく、その後もターボル、あるいはそれ以外の地域に存続し続けた。ターボル軍の中にも「ピカルディ派」の名前は後々まで登場している。

またこのピカルディ派の影響を、さらに一層押し進めたのが「アダム派」と呼ばれる一派である。彼らはついに「原罪」を否定するにいたり、イエス・キリストの十字架の意味さえ「処刑」というそのままの形で認識した。が、それがゆえに神秘的な創造主への崇拝を呼び、アダムとイブの世界を理想とする世界を構築すると訴えた。悪も善も皆等しく神の中にあるというような論理を展開し、戒律や書物の必要性を認めず、完全な財産共有制を唱え、男女の差別に反対し、結婚を「罪悪」とさえ呼んだ。さらに「裸体には汚れも罪もない」として素っ裸で歩き回る人々さえでる始末。この派の指導者ペトル・カーニシュはこのような前衛的な主義をマルチンから影響を受けたとしているが、マルチンはさすがに否定した。ジシュカもカーニシュとターボル指導部の会談は一応呼びかけているが、やがてピカルディ同様に軍事行動を起こし、激烈な戦闘の末にこれを撃破した。アダム派の戦士はなかなか頑強で優秀だったようで、ジシュカも大いに苦戦したようである。カーニシュは捕らえられ、やはり焚刑に処せられたとされる。

急進派にはこのほかにもたくさんの諸派があったが、いずれも広く急進派に吸収されたと言える。そしてこのような幅広い多種多様な意見を一つの固まりしておくことは、容易ならざることであった。

また、特にマルチンとピカルディ派の事件において、ジシュカとプラハ(穏健派)の対立はあきらかとなり、これは早晩爆発せずにはいられないということが予感された。

一方、穏健派はカトリック教会及び皇帝との対話の道筋を確保していた。彼らは1420年7月プラハの広場においてカトリック側とフス派側の会談を行い、「プラハ4箇条」について討論した。このとき「二種聖餐」は必ずしもカトリック教会が受け入れがたいものではないという主張がなされ、会談は順調に運ぶかと思われた。しかし、その後の公開討論の手続きの話で双方の主張がぶつかり挫折。ジギスムントはこの会談の結果を受けてしばらく静観していたが、第一次異端撲滅十字軍が惨敗に終わるとフス派の主張を認めようという譲歩を示した。1421年4月、ジギスムント皇帝の命を受けたウルリッヒ・フォン・ローゼンベルクは、次回の交渉までフス派に「プラハ4箇条」の主張を認めると告げ、チャースラフの会議で「プラハ4箇条の厳守」が誓われたときも「余はこれを受け入れ広く討議することを望む」とその容認ともとれる姿勢を見せた。4月20日にはプラハ大司教がプラハ郊外の城で和解交渉を始めたがこれはうまくいかなかった。ジギスムントはことの成り行きに失望し、再び軍事力による威嚇を試みることとなる。

第二次十字軍計画は、ジギスムントより教皇マルティヌス5世からでたものだった。当時、ジギスムントはヴェネツィアやハンガリーの騒擾、オスマン帝国に対応しなければならなかったので、十字軍を起こすだけの暇がなかったが、教皇側の強い申し入れにより第二次攻撃に賛同したという。1420年末ニュルンベルクで帝国議会が行われたが、これは一向に盛り上がらない会議であった。この時点ではまだフス派の脅威といっても、遠い異国の地の騒擾に過ぎなかったからである。このため教皇の命を受けたライン地方の大司教達は同年3月にポッパルドで会談し、皇帝にさらなる会議を召集することを求めた。これに応え、4月13日に再度ニュルンベルクで帝国議会が開かれた。この会議に集まったのはライン地方の選帝候や司教、教皇特使のミラノ大司教、アクィレア総司教、バイエルンの候達、ヘッセン候、バーデン辺境伯、ナッサウ候・・・等々である。第一次十字軍に比べるとほとんどドイツ地域ばかりの顔ぶれであり、しかもジギスムント皇帝はオスマンとの交渉の最中にあって会議に出席していなかった。このため会議自体も不成立になってしまったが、その後回を重ねる事に会議の参加者は増えて行き、4月23日にはニュルンベルクで聖職者の「対フス派」同盟が誕生、さらに各諸侯も兵馬の動員に同意した。そしてヴェーゼルでおこなわれた会合では、ついに「聖バルトロメオの日」をもって、ドイツから進撃することが決定したのである。この指導者はラインの4選帝候とブランデンブルク辺境伯であった。

十字軍の構成は各地からの志願兵、及び聖職者によってなり、とくにライン地方と5選帝候が熱心であった。また、伯爵や中小領主の数は数百名以上になり、オーストリア公、ハンガリー王国、セルビア、クロアチアなどからも兵が集結した。軍勢は大きく二手に分かれることが決定され、まずブランデンブルク辺境伯やラインの軍勢を中心とする「ドイツ方面軍」が正面からボヘミアに侵攻、続いて皇帝ジギスムント率いる軍勢がメーレン方面から侵攻するはずであった。しかし、ドイツ方面軍は途中のフス派要塞にひっかかってはかばしい戦果を上げずに退却。つづいて秋にメーレンから侵攻した皇帝直卒の軍勢は、順調に進撃を続けた(ジギスムント帝とオーストリーの軍勢はモラヴィアのフス派貴族軍を撃破し、これらを服従させることに成功した)が、クトナー・ホラでの劣勢を挽回(既述した火器による攻撃戦法)したジシュカ率いる軍勢がプラハのフス派軍に合流。フス派最精鋭のターボル軍が加わったことで俄然張り切るフス派軍に、さらにウトラキストの援軍も合流した。
こうして11月1日プラハ郊外ヴィシェフラッドの丘での戦いは皇帝軍の惨敗に終わった。あまりの惨めな敗北に、オーストリー公が嘆いたという戦いである。フス派に対する最初の戦いの教訓は、まったく生かされていなかった。異端撲滅十字軍の、それは完全な敗北であった。

「異端者がたくさんの銃砲を撃ち、長い鉤付きの槍で高貴なる騎士や信仰厚い兵士達を馬から引きずり落とす。戦場は阿鼻叫喚の地獄と化し、逃げ込んでくる騎士達で味方の陣地さえ混乱した。算を乱した我が軍は崩壊せり・・・」(当時の記録を参照)

皮肉なことではあるが、没落貴族のヤン・ジシュカの生みだした戦術は近代の戦術に非常に近かったものの、騎士たちにとってそれは致命的であった。フス派の銃撃を主に喰らったのは、華麗な騎士道の精華とも言うべき重装の騎士達である。彼らは、もし飛び道具がなければ容易に倒せる相手ではなかった。またその甲冑の厚さから、速射の効く弓矢の効果は期待できなかった。しかし、距離を置いて安全な状態で騎士の槍に怯えず、強力な一撃が見舞えるとしたならどうだろう・・・ジシュカは気づいていたかもしれないが、これは騎士達にとって破滅的な事であった。制度的にも追いつめられていた彼らではあったが、戦争の技術としても彼ら騎士たちの時代は黄昏を迎えつつあったのである。

ドイツ及びハンガリーへ向かう道は、再び敗走する兵士で満ちた。そしてこの2度に渡る大敗北の噂はあっという間に欧州全土に広まり、兵士達の口から次々と次のようなうわさが広まる。「フス派は神か、あるいは悪魔の力を得ているに違いない。人間が勝てる相手ではない。彼らは無敵なのだから」と。


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