ターボル戦記 第五部 【摂政、そしてジシュカの死】


「地上には王も、主君も、家来もいなくなるだろう。そして租税や関税はすべて廃止され、何人も他人から何かを強要されることはなくなるだろう。けだし万人は等しく兄弟姉妹だからである」

ターボル派の宣言より         


フス派戦車2度に渡る「異端撲滅十字軍」の大敗は、ジギスムント皇帝の戦意を大きく挫くものであった。さらに大敗の報を聞いた帝国諸侯のフス派への恐怖も大きくなり、主戦派(ブランデンブルク辺境伯、オーストリー公等)と和平派諸侯とに意見がわかれるようになった。「フス派無敵神話」が帝国全土に広まり、出兵を渋った諸外国の君候は自分の見通しが正しかったと、ホッと胸をなで下ろした。さらにジギスムントにとって悪いことに、この時期オスマン帝国の活動が活発化しはじめ、バルカン情勢からも目が離せなくなってきていた。
東方の大帝国と強力な異端者の二つの敵を抱える格好となった皇帝は、しばらくチェコでの争乱に手を出さずにいる方針を決める。

一方、フス派内部ではつかの間の平和を喜ぶまもなく、きな臭い雰囲気が立ちこめてくる。すでにマルチン=フースカ事件などでも穏健派は急進派であるターボル派と論議をおこしていたが、とくにターボルから遠いプラハ市では、市の実権を掌握する説教師ヤン・ジェリフスキーの独裁に不満を持つ人々が増えていた。それはジェリフスキーの政策が急進派寄りだったということと同時に、彼の市政があまり順調でなかった事にも由来する不満であった。とくにプラハ市旧市街に住む人々、王宮、フス派貴族、そしてフス派の大学生や教授(マギステル)たちの印象は悪く、ジェリフスキーは身辺にいるシンパを頼りに政治を行っていた。
当然のことながら、こうした状態が長く続くわけもない。かつてジェリフスキー自身がおこしたクーデターで新市街と旧市街の政務は合同されていたが、もはやそれは形だけであった。

事件は1422年の3月に勃発した。「政治上の問題について重要な話がある」と旧市街の参事会員から聞かされたジェリフスキーは、シンパの人々共に旧市街の市庁舎を訪れた。ところが彼らが広間に入ったとたんに出口の大きな扉が固く閉ざされ、市庁舎内にいた旧市街の参事会員たちによって彼の命は絶たれた。

その頃、市庁舎の外にいた新市街のジェリフスキーのシンパたちは、市庁舎内部の異変を感じ取り騒ぎ始めた。そしてしきりに市庁舎の扉を開けるように要求したが、参事会員達の命を受けている門番が開けようとしない。群衆はついには実力で押し破ろうと扉に殺到した。この物音に驚いた参事会員達は、裏口から逃亡。そして市庁舎内に突入した人々が見たものは、床に倒れて動かないジェリフスキーであった・・・・・これを見た新市街の人々は激高し、その中の一人はジェリフスキーの首を掲げて町中を走り回り「旧市街の参事会の連中がやった!やつらは裏切り者だ!」と叫んだという。この騒ぎに街の人々も刺激され、新市街では次々と暴動が発生した。
彼らはとくに彼らが敵視していた旧市街へ攻撃をしかけ、市街地の多くの家々が破壊された。また穏健派の人々は家を棄てて郊外に脱出するしかなかった。この巻き添えを喰らって、カール4世の時代にプラハに住み着いた多くのユダヤ人が住む「ユダヤ人街」も破壊されている。

暴動は約2日に渡って続いた。そして2日目には旧市街の参事会員5名が「ジェリフスキー謀殺」の罪で処刑された。さらに多くの保守的な大学の教授達が投獄され、またその他の者も「罪の償いのため」と称して急進派の支配する都市フラデツ市に送られ、強制労働を課された。
一方でプラハ市全体はジェリフスキーの党派の残党が抑えたが、復讐を果たしたとはいえ旧市街の経験豊富な人々の力がなくては、事実上市政の運営は不可能であった。このため、追放や処罰にも関わらずプラハでの旧市街の人々や穏健派の勢力は除々に大きなものとなっていく。

さて、プラハ市のフス派穏健派においては、チャースラフ会議での結果を受けてボヘミア(チェコ)王国の新しい君主の選定を進めていた。彼らは急進派の唱える「聖書に基づく王も貴族もない世界」という体制には当然のことながら賛成しておらず、またその一方で「フス派を容認しないジギスムント皇帝の国王即位」もあいかわらず拒んでいた。それゆえに、各国が承認するような強力な後ろ盾をもつ世俗君主を擁立し、フス派を公認してもらうことこそが彼らにとっての急務であった。
選定では様々な候補がいたが、とくに話題となったのが1410年グルンヴァルトの戦いでドイツ騎士修道会に対して大勝利をおさめ、一躍欧州一の強国へと変貌を遂げた隣国ポーランド・リトワニア王国である。
すでに交渉は始まっていた。1420年4月、プラハの城伯であるチェニック・フォン・ヴァンテンベルクがポーランド王ブワディスワフ・ヤギェヴォに密かに使者を送り、その内意を確かめていた。同年8月再び使者が派遣されたが、このときポーランド王はちょうどジギスムント皇帝と対立関係にあった。ジギスムント皇帝はハンガリー国王としてポーランドの王位継承権をもつ故ラヨショ大王の娘マリアと結婚していたが、その際に「ポーランド王位はヤドヴィガ(ラヨショの娘にしてヤギェヴォの妻でありポーランド国王)の死の後は姉マリアにある」と主張していた。そしてヤドヴィガは1399年死亡。その後ジギスムントとマリアは「その権利を保留」するとしていたが、完全にその権利を放棄したわけではないとなにかと文句を付けてきていたのである。

ポーランド・リトワニア王国は西欧の国々とは違い、貴族身分の権力が大きく、彼らの承認がなくては王位の正統な継承はなされない。ヤドヴィガ亡き後、ヤギェヴォの地位はリトワニア公国との強いつながりを背景に承認されてきた。そこにジギスムント皇帝の横やりが入ったのである。とくにジギスムントが王位継承権の放棄と引き替えに、リトアニアの領土の一部を要求してきたことにヤギェヴォは激しい怒りを覚えていた。したがってヤギェヴォは、チェコからの使いに対して非常に愛想が良く、宮廷全体の雰囲気もきわめて友好的であった。このため使者はまずヤギェヴォ自身に「チェコ国王」の地位に就いてくれるように懇願したが、亡き妻ヤドヴィガのもたらした厚いカトリック信仰もあり、これはやんわりと断らざるおえなかった。
この間、フス派穏健派内部では「外国の王に王冠をもたらすのはどうか?」という論戦がなされ、ニコラウス・フォン・フシネッツ等が「チェコ王国の王冠はチェコ人にのみ与えられるべき」と反対したが、そのニコラウスが落馬で急逝。20年12月26日、ヒュネック・フォン・ヴァルドシュタインを長とする正式な使節がポーランドの宮廷に送られ、「全フス派の総意」としてヤギェヴォ自身に「福音の保護者」となって欲しいと懇願した。しかし王はこれを拒絶。そこで使節はリトワニア大公の宮廷へ向かい、そこで大公ビトルド(リトワニア名:ヴィタウタス)にチェコ王国の主になるように懇願した。ビトルドは覇気が強く征服心旺盛であったため1421年6月、これを受けて正式に「チェコ国王」と宣言された(ただし王冠は送られていない)。そしてチェコには「摂政」として、彼の甥であるジグムント・コリブート候を送ることにしたのである。

コリブートはポーランド王の許可も得て傭兵5000、さらにフス派に共鳴した中小貴族の軍を引き連れ1422年2月はじめにチェコへ向かった。軍勢を引き連れたのは王の威厳ばかりでなく、途中帝国側の要塞を襲う腹づもりでもあった。実際、途中オルュミッツを制圧し、続いてノイ・シュタットを占領した。その後チャースラフではフス派の会議に参加し、そこで「プラハ4箇条」を承認した。1422年コリブート軍はチェコ国内の皇帝側要塞を攻撃するが、これはなかなかうまくいかなかった。とくにコリブートにはジギスムント皇帝側についているカルルシュテイン城を陥落させるという使命があったがこれはなかなかうまくいかなかった。しかしそれもなんとか落とすことに成功し、プラハではフス派が管理して問題の種になっていた国王の財産がコリブートに返却された。またクトナー・ホラの造幣局も渡されることとなり、彼はしばらくフス派穏健派の中で行動することとなった。

コリブートは彼はフス派の国際的な承認を取り付けるためにいろいろな手を打ったが、ポーランド本国においてズビグニェフ・オレシニツキが王都クラクフの司教に就任すると、ポーランドやリトワニア本国からの支援は怪しくなってきた。ズビグニェフはポーランド本国における異端の増殖を怖れ、ことあるごとに「フス派の鎮圧」を国王に要請していた。(実際ポーランド国内ではフス派へのシンパ勢力が増大し、さらに現状に不満な中小貴族達がこれを後押ししていた)もともと宗教的な信条には無縁なヤギェヴォ国王であったが、亡き妻の意志と戦争のこれ以上の拡大を望まないことからこれを受け入れ、ジギスムント側も折良く「講和」の使いを送ってきた。間に立ったのはローマ・カトリック教会である。

こうしてコリブートには1422年12月にプラハを立ち、1423年にはチェコの穏健派貴族達の願いも虚しくリトワニアに帰国した。その後1年ほどしてコリブートは再びチェコに戻り、1424年の夏にはほとんど個人として穏健フス派・ウトラキストとターボル派の仲介をした。このためにフス派の一部からはコリブートを「チェコ国王」として承認しようという動きがおこったが、コリブートが密かにローマ教会とフス派の和平を企てていることがばれ、1427年4月17日プラハの王宮で捕らわれてヴァルドシュテイン城に送られ、強制帰国させられることとなった。コブリートは1435年にリトワニアで戦死している。

1422年10月におこされた第3次異端撲滅十字軍はニュルンベルクで開催された国会で決議された。この時本来はジギスムント皇帝が全軍の指揮権をとるはずであったが、かわりにブランデンブルク辺境伯フリードリッヒに指揮権が託されることとなった。その軍勢は10月13日にチェコに侵攻。その他の侵攻軍とペーテルスブルク城で合流するはずであった。
ところがそこに参集したのはブランデンブルク辺境伯の兵とヴュルツブルク司教の十字軍兵、あとは中小様々な領主達の軍勢のみであり、ジギスムント皇帝軍はこず、他のドイツ諸侯は「無敵のフス派」との戦を怖れて資金のみの提供にとどまっていた。このため軍勢は防御の手薄なピルゼンを攻略したのみで戦果をあげることができず、遅れて侵攻したマイセン公の軍勢も2,3の砦を焼き払ったのみであった。結局、このときはプラハに入った「摂政」コリブートの仲裁の労もあり、また十字軍の動きも鈍く、とくに書き記すような戦闘もおきないままに翌年3月までに全十字軍が退却した。

さて、一方急進派ターボルの方はヤン・ジェリフスキーの非業の死に警戒感を強めていた。指導者であるヤン・ジシュカはターボル軍を整え、チェコ国内のカトリック諸侯を掃討し、凄まじいばかりの成果をあげていたが、プラハの事件以降はターボル内部での論争にも注意するようになる。実際、ターボルも初期のターボルではなくなりつつあった。細々ながらも手工業が栄え、市の実権を握る聖職者達には私利私欲を計るものも現れ始めていた。また何よりマルチン・フースカの事件の時、ちっとも協力的でなかったターボル聖職者層の「非寛容」に、ジシェカは腹を立てていた。

そして1423年・・・ついにヤン・ジシュカはターボルから居を移すことを決意する。とはいっても、今度はジシュカに付き従う者だけが移動した。彼らは説教師アンブロシェの作ったオレープ派(オレブ派)の拠点フラデツへ移動し、そこで新たな共同体を結成したのである。その名はそのまま「オレープ派」と呼ばれたが、宗派として独立したというよりはターボルでの聖職者主導の共同生活が生に合わなかったり、ヤン・ジシュカを指揮官として慕う者達の集団であったといえる。ジシュカはここでターボル軍とは別な「オレープ軍」を仕上げることに着手する。それは全フス派の高度な戦闘体系をまとめ上げ、その軍事力を一層強めるものになるはずであった。そしてそれは桁外れの戦闘能力を有する軍集団を形成したのである。

1423年よりフス派穏健派と急進派の対立は頂点に達し、ジシュカがオレープ派を結成した頃には双方の軍事衝突もおこった。1424年、ポーランド王国では例のズビフニェフが台頭し、ヤギェヴォの世継ぎ問題に介入。ますますポーランド・リトワニアのフス派支援姿勢を抑えるようになる。コリブートは積極的に穏健派と急進派の仲をまとめようとしたがうまくいかず、カトリックにとどまるチェコ貴族とフス穏健派(カリックス派)とが同盟を締結。共同でフス派の実権を急進派から奪おうと、まず急進派の中核であるオレープ派を攻撃する。ヤン・ジシュカはただちにこれに反応し、逆にこの攻撃を粉砕。つづいてオレープ派とターボル派の連合軍を指揮して一路カリックス派の巣窟であるプラハを攻撃した。
敗北しプラハ市に追い込まれたカリックス派はここで和平を提案。ジシュカもフス派の内輪もめの拡大を恐れ、これに応じる姿勢を見せた。そこでカトリック諸勢力は再びカリックス派から離れ、ヤン・ジシュカの指導力はカリックス派にまで及ぶものとなった。ここに「フス派全軍指揮官」であり執政官としての彼の権力は絶頂に達したのである。

しかしそれがジシュカの最後の活躍であった。1424年10月、オーストリア公アルブレヒト5世(ハプスブルク家出身:ジギスムント皇帝の女婿でもある)が皇帝の要請をうけてモラヴィアに侵攻してきたのを迎え撃つために出陣したが、その途中ペストにかかり11日に死亡したのである。オーストリア公の軍勢は退却したが、ジシュカの死は多くの人々に衝撃を与えた。プラハの穏健派ですら涙を流したくらいである。そして、しばらくの間全フス派的に、指導権を巡る混乱が続いた。
この間、オレープ派では指導者ジシュカを失ったことを大きな悲しみとして、自らの集団を「シロッツィ」(孤児)と名乗るようになり、これがオレープ派の総称となった。

1420年代後半、ターボル派、オレープ派は急進派、プラハの旧市街とベロウン市、リトムニェジツェ市、ムニェルニーク市、コリーン市、フルジム市、ポリチカ市が穏健派にとどまっていた。とくにプラハ市では旧市街と新市街の対立がひどく、政争が相次いでいた。そんな中、ロキツァナのヤンという非常に若い聖職者が登場した。彼は穏健派の要求に賛成すると同時に急進派にも理解を示し、やがて大勢の支持を集めていくこととなる。
また急進派でも一人の新しい指導者が生まれようとしていた。もともとはアーヘン出身のドイツ人領主の子で、両種聖餐説の支持者でもあったアンドレアス・プロコプである。彼はターボルの聖職者達の中にいたが、やがてヤン・ジシュカの側近のようになり、彼のもとで優れた軍事戦略と戦術をマスターすることとなった人物である。ジシュカ亡き後、混乱した急進派の結束のために、彼は同名のプロコプという説教師などとともに「結束」を旨とする説教を繰り広げ、ついにそれに成功する。この時、急進派の人々はプロコプを指導者として推戴することを決定した。

プラハのロキツァナのヤン、そしてターボルとオレープ派の代表プロコプ。この二人が、やがてこの戦争の、フス派の行く末を決めることとなる。


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