ターボル戦記 第六部 【華麗なる長征】


「フス派は攻勢に転じた。ジシュカが死ぬと、彼の仲間は自らを(孤児)と称し大プロコプを首領に選んだ。ジシュカの弟子の、いわゆる禿げのプロコプである。1427年から32年まで、彼らは周辺の国々、とくにドイツを駆け回って城館や修道院を破壊した。」

白水社「チェコスロバキア史」より 


フス派の戦闘フス派軍の相次ぐ勝利により、神聖ローマ帝国とその諸侯の動揺は皇帝ジギスムントを悩ませた。フス派の戦士たちが歌う「汝神の戦士たれ」という賛美歌は、異端撲滅十字軍に参加したすべての将兵にとって恐怖の歌となっており、戦場ではフス派と対面するだけで、この賛美歌の音を聞くだけで逃走する兵士が続出した。皇帝も諸侯もこうした動揺を防ぐために、なんとかフス派軍に対して軍事的勝利をおさめようとあせったが、あせればあせるほど勝利は遠のき、フス派の「戦勝記録」を無用に増やすだけであった。また皇帝は当時、彼の王権の統治下にあったハンガリー王国のためにオスマン帝国と対抗せねばならず、そのために苦心しており、敵だらけの状況に辟易していた。

フス派の新指導者アンドレアス・プロコプは「ニ種聖餐説」の支持者であり、ドイツ人の血を引くものであり、聖職者であった。思想的には急進派に向いてたが、その思考の幅は広く、穏健派にも理解を示していた。しかし彼を、彼のいきる道をなにより確定したのは、彼が「ヤン・ジシュカの弟子」だったことだろう。彼がどの時点でフス派の説教師になったのか、どのような経歴でジシュカのもとで活動するようになったのかは不明だが、単純に聖職者としての指導力が買われた…というだけのものでもなく、あきらかに彼の軍事的才能が人々に買われたようである。そしてそれは、ヤン・ジシュカの遺産であった「孤児団」のリーダーになるということであり、同時にフス派全軍の指揮官になるということでもあった。

1426年6月16日、ウースチーの戦いにおいてはプロコプは見事な才能を発揮した。彼はヤン・ジシュカの戦術の一つ「戦車」を鎖でつないで防御陣形をつくり、味方の損害をおさえながら敵を完膚なきまでに叩き大勝利を得たのである。この戦では「ドイツ人の死体が麦束のように野原に散乱した」と言われた。実際、ほとんど虐殺に近いような戦いだったらしい。

1427年の異端撲滅十字軍(第四次)は、ほとんどドイツ諸侯のみで計画されたものであった。皇帝たるジギスムントがハンガリー方面で忙殺されていたこともあって、当面フス派の危機にさらされる諸侯が音頭をとって「異端撲滅十字軍」を立ち上げたのである。
軍勢は大きく4つに分かたれ、西からはライン諸侯と聖職者、およびネーデルラント、エルサス、スイス、シュワーベン、フランケン、バイエルンとその他諸侯が、北からはザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、チューリンゲン、ヘッセン、ブランシュヴァイク、メクレンブルク、ポメルンの諸侯、マルデブルク司教等、東からはシュレジェン諸侯とラウジッツ地方の貴族と市民軍、ドイツ騎士団、南からはオーストリア公アルプレヒトとザルツブルク司教、その他諸侯、聖職者とともに参加することとなっていた。
ところが、この計画は破綻した。ザクセン公は「体調の不良」を理由に十字軍参加を断って代理に子供を派遣、マインツ大司教はケルン大司教とともにヘッセン方伯と領地争いに突入してやはり不参加。選帝候としては結局ブランデンブルク辺境伯とトリアー大司教のみが参加しただけで、あとは不参加か代理出陣というお粗末ぶり。マイセン辺境伯、バイエルン公、バンベルク司教、ドイツ騎士団などは参加したものの、当初予定兵数には到底満たなかった。ただ、その中でも英国のヘンリー・オブ・ウィンチェスターの参加は注目をひく参加である…ごくささやかな兵数をひきつれての参加ではあったが。彼は教皇マルティヌス5世の教皇特使としてこの十字軍のために活動していた。

第四次異端撲滅十字軍を撃退したプロコプは、そこで一つの教訓を得る。
その一つは「強大な外敵の存在は、内輪モメを押さえる」というものであった。
また、異端撲滅十字軍のほとんどの兵士がドイツ方面からきたものであるということからも、ドイツの諸侯勢力を撃破すれば、十字軍を事実上無力化し、暴力を停止できると考えた。

全フス派はこれに合意して大軍の出動を準備することになる。これが「華麗なる長征」、あるいは「スパニレー・イーズディ(偉大なる行軍)」の始まりとなった。

この大遠征の記録は実に驚くべき「連戦連勝」の連続である。
フス派軍のこの強さの秘密は、戦術のたしかさ、各兵士の信仰の堅さや軍規への忠誠というだけでは理解し難いものでもある。各書物によく見られる「早すぎた近代軍」という評価は、それが「近代軍」というものの原型に類似しているという点で妥当であると言えよう。

しかし当然のことながら、フス派軍には階級制度があったわけでもなく、厳密には現場で指揮をとるような部隊編成にはなっていなかった。一番、単純な分け方では出身地別の部隊編成、それが転じて「四大指揮官制度」に準じた分け方となり、さらに各部隊(とはいってもおおまかな分け方)に戦闘指揮官がいたにすぎない。ましてやジシュカが「オレープ派」を作り、ジシュカ亡き後はそれが「孤児団」となると、もう別個の軍事集団である。こうした派閥毎の分裂をどのようにプロコプがまとめていったのかは、いまだに不明である。
また、一方において旧来の軍事的慣行、すなわち「貴族が指揮し、平民がそれに従う」というものが完全に廃されたわけでもなく、しばしばそれが平然と行われていたという点も注目しなければならない。そして、この弊害はプロコプの思惑とは別に、フス派が軍事行動にのめりこめばのめりこむほどに酷くなる傾向があった。

フス派の遠征は、1427年5月に本格的に始まる。プロコプ率いるターボル(シロッツィも含まれる?)軍が北部国境を突破し、チッタウ、ラウジッツを通過。ヒルシェフェルド、オストリック、ベルンシュタットを経てシュレジェンへ。ラウペン、ゴールドベルクなどを攻撃し荒らした上、ヤウエルとボルケンハインを経て帰国した。プロコプにとっては初めての遠征指揮である。
その後第四次十字軍を迎撃し、これを撃破した。続いて彼は遠征軍を繰り出し、さらに帝国諸侯に打撃を与える。1427年、プロコプは当時の野戦の常識である戦争をあまりしたくない季節である冬に、わざわざ遠征軍を発進させた。彼の軍勢はまずメーレンを通過、ハンガリー王国に侵攻しウンガリシュ・ブロッドを占領。ドナウ河畔のほとんどの町を攻撃して荒廃させ、プレスブルクの一部を焼き払い、まさに「火と剣で清めながら」ティルナウを経て帰国した。が、一隊は援軍を経てさらに進撃を続け、1428年2月にはシュレジェンに侵攻した。ポルニッシュ・オストラウ、カッチェル、ホッツェンプロッフなどの都市は、フス派の攻撃により市民が逃げ出して廃墟となり、ウェンツェル・フォン・トッロパウ候は幾つかの都市を手土産に、彼らに投降した。軍事的抵抗はほとんど不可能だったのである。だが、候はそればかりか「将来の軍事的支援」まで約束させられるはめになった。
フス派遠征軍はさらに進撃を続け、オーベル・グロガウを攻囲してこれを制圧。市民と貴族の多数を捕虜とした。またここに来た(救援?)ポレック・フォン・オッペルン候も投降せざるおえなかった。他の勢力も激しく抵抗したが、彼らの抵抗はほとんど無力であった。3月18日にはナイセ川河畔においてブレスラウ司教と若干の君候の軍勢が、彼らの進撃を止めるべく陣をひいたが、これも撃破された。その後彼らはオスト・マハウ、バッチュカウ、フランケン、ファルケンベルク、グロットカウ、ストレーレン、カント等を攻略。ほとんどの都市に火を放ち、そのことごとくを焼いた。ヨハン・フォン・ミュンステルベルク候はやはり投降し、彼らの攻撃をかろうじて免れた。ブリーグ候ルートヴィッヒはとても戦闘はできぬと彼らに投降したが、結局町が荒らされるのを止めることはできなかった。4月に入ってはケーニヒス・グレーツやフルーディム等の市民が、ボヘミアのカトリック諸侯軍とともに抵抗戦を挑んだが、これも壊滅状態に追いこみツォブテン要塞を占領した。さらに援軍にきたシュレジェン諸侯軍の接近を知ると、これを巧みにリーグニッツで撃破した。

悪夢のようなフス派遠征軍の猛烈な進撃に、しかしドイツの諸侯はそれぞれに果敢に挑んだ。その行動には軍事的なものもあったし、逃走によるサボタージュ、時には市民の安全を最優先にした投降もあった。だが、投降にしても、それを非難できる者は少なかっただろう。フス派遠征軍の軍事的力量は、一諸侯、一都市の軍事的実力をはるかに凌駕していたからである。

フス派遠征軍の第二波は5月にブレスラウに迫って外市を焼き払い、ミュンスターベルク、ラティボール、オスウィエチム、テッシェンの諸侯はこれを恐れて「金銭による和平」乞うた。この遠征軍は奇襲と神出鬼没ぶりでドイツの聖俗諸侯を恐怖のどん底に叩き落した。
またこれとは別にバイエルン方面に侵攻した軍勢は、5月にタハウからオーベル・ファルツに侵攻。ベルナウ方面を荒らし、ファルケンベルクを占領。モスバッハ、ニッテナウを襲撃し、ヴァルデンバッハでは修道院を破壊。ヴァルド・ミュンヘンを制圧して7月にプラハに凱旋した。さらに別の一軍はメーレンからブリュン市に侵攻。オーストリアにも侵攻し、ヌースドルフ対岸のドラウの河畔を荒廃させ、ウィーン方面に至るまで攻撃を止めなかった。
また夏になるとターボル軍はウルリッヒ・フォン・ローゼンベルクと国内のカトリック諸侯等と和平を結んだ上でメーレンへ侵攻。これを全面制圧した。他方面の軍勢はリヒテンシュタイン、オーベル・ラウジッツ、ロバウを攻撃した。が、これに対抗しようとしたアルブレヒト・フォン・コルディッツは帝国各地からの援軍を得て遠征軍をじりじり追い詰め、11月16日ついにクラツァウ付近の戦闘でフス派遠征軍に対して大勝利を挙げる。要塞ツォブテンは再奪還され、「無敵神話」に泥をつけたせいか、シュレジェンでも「反フス派」の防衛同盟が結成された。しかしこの勝利はひとときの喜びに過ぎず、その後「復讐」にもえるフス派軍の侵攻をうけ、ミュンステンベルク公は敗北。オーラウ公領は強掠され、1429年にはオーストリアが遠征軍の「火の洗礼」を受けることとなった。

1429年にはいってジギスムント皇帝はフス派に対してプレスブルク(プラチスラヴァ)で、フス派自身の弁護の機会を与えた。この弁護に関する会議では、フス派と皇帝の和平ということも論議になると思われたが、カトリック側はこれをはねのけた。
和平のご破算は、戦の再開である。今回はプロコプが軍勢を率いてオーベル・ラウジッツを経てドレスデン、グローセンハイン、ツィタウ、バウシェン、ニーデルラウジッツに入り、ブランデンブルク国境沿いを強掠。オーデル河畔を荒らし、ゲルリッツにまで至った。さらに同年12月、プロコプの遠征軍が帰還すると、プラハで全フス派の会議が開かれ、全フス派による大遠征が計画される。兵力は騎士三千五百、歩兵四万、戦車二千五百両。指揮には再びプロコプが立った。その進軍スピードは凄まじく速く、ドイツ諸侯が出した援軍は間に合わなかった。そして遠征軍はドレスデン市とマイセン市を包囲したが、大砲の用意が足りず、これを落とすまでには至らなかった。その後、遠征軍はいくつかの部隊に分かれて進撃し、ブランデンブルク辺境伯の軍勢を追撃しながらその先々の都市を破壊、あるいは強掠した。
ライプチヒでさらに遠征軍は5部隊に分かれて進撃。アルテンブルク、ゲラ、ブラウエン、フランケン等を攻撃してこれらの地を荒廃させた。この間クローナッハやヴンシデールなど遠征軍の攻撃を耐えきった都市もあったが、大勢は変わらずであった。そしてバンベルグ市の選帝候フリードリヒ・フォン・バンベルグは、市に対する遠征軍の攻撃を避けるために「和平を金で買う」ことを申し出た。これにつづいたのが、ジギスムントのドイツにおける本拠地の一つニュルンベルク市であった。ニュルンベルク市は遠征軍の攻撃を避けるために和平の交渉を呼びかけ、遠征軍はこれに応じた。1430年2月11日にブルグ・ベハイムシュタイン条約が成立し、ニュルンベルク市、ブランデンブルク辺境伯、ファルツ伯等がそれぞれ莫大な資金をフス派に提供することでその攻撃を回避した。このときの遠征軍の凱旋では、戦車3000両に莫大な宝物を載せてプラハ市内を行進したと言われている。

このようにフス派の遠征は、場合によっては「専守防衛戦争」というより、攻撃によって「利益を得る」ことが目的となったりもした。このため遠征軍はしばしば現地で「和平交渉」に入ることになったが、この際市の代表達を脅す意味でずいぶん脅迫的な行動や、ときには乱暴を働いた。ただし、この記録によく見られる「荒らした」「強掠した」には、文字通りフス派軍が関与したというより、フス派の侵攻によって耕作地を追われた人々や、フス派に共鳴して蜂起した人々によるものがかなり含まれているとも言われている。実際、ドイツ各地の農民や中小騎士のフス派軍への参加もあった。また、都市における政治権力を巡る抗争にこの遠征軍を利用したもの達もいた。都市を牛耳る貴族と、それに対立する都市の有力市民階級の抗争では、フス派のような第三勢力の軍事力はおおいに利用できるものであった。

だが、遠征軍を利用しようとした者達はそればかりではない。国家も、彼らを利用しようとした。とくに一時はチェコの王冠を手にしかけたポーランド王国は、彼らの西方の敵であるドイツ騎士団に対する軍事勢力としてフス派軍を考慮していた。幸いというか、フス派軍にとってもドイツ騎士団(修道会)は敵だった。皇帝と盟約を結び、異端撲滅十字軍として行動したこともある騎士団への敵意は強いものがあった。そしてグルンヴァルトの戦い以降、没落の兆しを見せ始めていた騎士団にとって皇帝/帝国との関係強化はその地位を維持する上で必要だったのである。
とくに1430年の3月からの遠征では、例の「摂政」コリブート候の軍勢、ポルコ・フォン・オッペルン候の軍勢、フリードリヒ候、およびロシアからの義勇兵が参加し、ボイテン、クラヴィッツを占領。プリーグを制圧し、ニムプチュを占領した。その後騎士団との本格的戦闘に入るはずであったが、これは実施されずに終わった。
ロシアからの参加者は、以前ヤン・フスの同志であったヒエロニムスが、リトワニアで「御身らはまことのキリスト教徒なり」といったことに感激し参加した…とも言われているが、実際のところは彼らにとっても脅威であった騎士団勢力を弱体化させるためであったのだろう。

1430年4月からの遠征では、ティルナウの戦いでジギスムント帝の軍勢を撃破。しかしこの戦いでは皇帝軍(十字軍ではない)もしぶとく抵抗し、フス派軍にかなりの損害が出た。このため彼らは素直に退くことにしたが、別働隊をひきいたプロコプ指揮の軍勢はメーレウを攻略、ブリュン、ステルンベルクを攻囲。8週間の攻撃でこれを降した。
さらに同年後半にはシュレジェン、ラウジッツへの再度の遠征が行われ、リーグニッツ候に包囲されたフス派の根拠地ニムプッツュを救援。その後、この軍隊はほとんど勝手に進撃を続けて翌年まで各地を荒らしまわった。(この軍がどのような計画に基づいていたのか定かでない)

1427年の第四次異端撲滅十字軍大敗の戦場から、命からがら逃げ延びた枢機卿ヘンリー・オブ・ウィンチェスターはフランクフルト市で同年9月15日を期して会議を催した。参加者はわずかではあったが、彼は熱弁を振るって「フス派の脅威」が今や全欧州規模の問題であることを訴えた。これに一時は失望し、落胆していた教皇マルティヌス5世も揺り動かされ、あらゆるキリスト教国に対して「異端撲滅のための十分の一税」の徴収と、さらに自らの金庫から全収入の5分の一を差し出した。これらは「対フス派」のための軍備にあてがわれることとなり、次の十字軍のための準備金となった。1429年にはヘンリーは英国から5千名の兵士を率いて十字軍に参加しようとし、ジギスムントも軍勢を用意したが、これは実行されなかった。というのも、教皇は同時にフス派との和平も考えていたのである。

教皇マルティヌス5世はこの時期揺れていた。ヘンリーの気迫に押されて異端撲滅十字軍を支持したものの、老齢になりつつあった皇帝ジギスムント帝は次第に軍事手段に慎重になりつつあったからである。というのも、バルカン情勢が緊迫しており、オスマン帝国という巨大な危機を前にして大戦争になりそうな「対フス派戦争」を勝ちぬける自信がなかったのである。両者は話し合いで「和平」を勝ち取れるのなら、それに応じてもよいという態度を示しつつあった。そして実際、1430年の2月、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒとフス派全軍指揮官プロコプの会談がフランケン地方のベハイムシュタイン城で行われ、次のニュルンベルクでの帝国議会への参加が確約された。(これはおそらく「ブルグ・ベハイムシュタイン条約」のときのことだろうと思う)ところが、肝心のこの会議がお流れになってしまったため、和平路線は途絶した。

再び、武力解決が問題となった。


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