ターボル戦記 第七部【リパニへの道】


「復讐するは我にあり、我これに報いん」

ジギスムント皇帝第五次異端撲滅十字軍の計画は、もっぱらローマ教皇庁を中心に行われた。ジギスムント皇帝はあいかわらずハンガリー方面の諸事におわれており、積極的にこれに関わることができなかったが、新任の教皇特使枢機卿であるジュリアーノ・チェザリーニの熱意は、多くのドイツ諸侯を動かし、帝国の支持を得ることに成功した。1431年2月のニュルンベルク会議において、皇帝は再び「十字軍」を召集することを欧州世界に広く布告する。

ニュルンベルク会議において決められた「異端撲滅十字軍」の陣容は次のように決められた。その軍勢は7手に分けられ、ラインの四大選帝候による「ライン軍」、ザクセン・チューリンゲン・ヘッセンの兵からなる「中部ドイツ軍」、バイエルン・フランケン・シュヴァーベンの兵からなる「南部ドイツ軍」、マグデブルク・ブランデンブルク・ブランシュヴァイク・北方海浜諸侯の兵からなる「北部ドイツ軍」、帝国の諸都市からの義勇兵による「帝国都市軍」、シュレジェン・ラウジッツからなる「プロシア方面軍」、そしてオーストリア公指揮の「オーストリア軍」の七つである。
計画によれば、西方から侵攻する軍勢はヴァイデンで集合。そこで帝国旗を擁して参集したブランデンブルク辺境伯、教皇旗を擁したケルン大司教、ザクセン公、バイエルン王国旗を掲げたヨハン候、ボヘミア王国旗を掲げた司教軍、聖ゲオルグ騎士団、ウュルツブルグ伯、そして今回の十字軍の功労者ジュリアーノ・チェザリーニがブラウエン伯の300の槍兵とともに合流するはずであった。
しかし、実際にはジュリアーノは同時に「期日に参加しなかったもの」も記録しており、オーストリアのフリードリヒやライン宮中伯、そして遠くブルグントの地から参集を約していたブルグント公も不参加であったと記している。また、ドイツ外からの参加希望者もあったようだが、実際には記録されないほど小数であったらしい。
現実問題として異端撲滅十字軍召集にあっては「免罪符」がその資金源としてばらまかれたはずだが、これに対する教会内部での批判も厳しいものがあり、そうそう参加できるものでもなかったのかもしれない。

しかしこの十字軍召集の最中、教皇マルティヌス5世は卒中のためにこの世を去った。チェザリーニを教皇特使として各地に派遣し、十字軍への参加を呼びかけていた最中であった。そして彼の意思をついでエウゲニウス4世新教皇が、引き続きチェザリーニに命じて十字軍計画を推し進める。
こうして実際に組織された「第五次異端撲滅十字軍」は、総指揮にブランデンブルク辺境伯を任じ、その他ケルン大司教、ザクセン選帝候などが参加し、総勢約13万人という大規模なものとなった。

1431年8月にこの十字軍は、当初の予定とはいささか違った形で進撃を開始。途中、フス派遠征軍の支配下にあった地域を「解放」(これにはフス教徒の虐殺を伴った)しながら進み、最終攻略目標をプラハ市においた。これに対してフス派はプロコプ全軍指揮官の命令の下、各軍を集めて迎撃の用意をはじめる。
このときプロコプが、その寸前まで進めていた和平案への構想を断念したのかどうかわからない。彼はたしかに急進派ターボルのリーダーであり、そのコアともいうべき「孤児団」(シロッツィ)の指導者だった。しかし彼は急進派の主張を一時棚上げしても「プラハ4か条」に対する皇帝の態度如何によっては和平に応じる態度があったように思われる。これは皇帝側の代表であったローゼンベルクやブランデンブルク候もある程度は理解していただろう。
だが、こうした和平案に対して教会が乗り気でなかった。「シスマ」の件で教会は皇帝ジギスムントに大きな借りを作っており、さらには教会組織の建て直しも必要であった。皇帝ジギスムントの聖界への働きかけは、彼の壮大な構想である「欧州統一帝国」の一端であり、かつての強力な聖界権力の復活などではなかった。この点、教皇やその取り巻きは面白くなかった。教会は「普遍的で唯一」なるものとしての統一性を失いたくなく、その意味からすれば「プラハ4か条」など部分的であれ認めるわけにはいかなかったのだ。ましてジギスムントが巧みに「公会議」の権威を重視し、そうした聖職者に支援していることに不快感を示すものも少なくなかった。世俗権力の姿勢にひきずられるような形での和平は、彼らには容認しがたいものであった。

8月14日、ボヘミアのドマジュリツェに接近した十字軍はフス派軍が接近していることを聞いて直ちに陣をひいた。このときプロコプは先手を取り損ねたが、直ちに軍勢を整列させ、フス派の名高い賛美歌「汝、神の戦士たれ」を歌わせて士気をふるわせ、全軍に前進を命じた。
しかしこれは十字軍将兵に思わぬ効果をもたらした。
彼らはこの賛美歌に、ほとんど迷信に近い恐怖を抱いていた。ドイツ各地の都市が、この賛美歌の前に打ちのめされ、名高い騎士や諸侯が撃破され、屈辱的な和平や降伏を余儀なくされたことも覚えていただろう。とくに徴発されてきた農民兵などからみれば、たとえ相手が神の恵みから見放された「異端者」であろうと、自分達とはなんの関係があるわけでもない。かりだされてきただけなのだ。戦って利益をえるにしても、相手は「無敵」で知られたフス派軍である。騎士達が戦って勝てないものを自分達が相手にできるわけがない・・・迷信と恐怖心が混ざり、騎士達の叱咤激励も効をなさなかった。一人、また一人と戦列を離れ、勝手に退くものが出始め、その流れはやがて一部隊がまるごと、やがて一軍そのものが崩れるように退くようになった。十字軍中にいた聖職者達は「免罪符」を振りかざし、また「主は蘇りたもう」という賛美歌で対抗したが、熱狂と信仰への熱意という点でフス派軍に到底及びもつかなかった。ついには皇帝旗や王国旗が放り出され、司祭達は聖なる道具を蹴散らし、騎士は甲冑をつけず、諸侯は醜態に顔をしかめながら次々と戦列を離れだしたのである。

この「賛美歌による勝利」は、さすがに事実ではないだろうと思われたのだが、調べるとほとんどの記述がこの点では一致しているということに驚く。さらに、この「戦う前に逃走」という事態が、皮肉にも多くの十字軍将兵を救った。まともに戦闘に及べば、あるいは勝ったかもしれないが、大量の犠牲者をだしたことだろう。崩れ去る第五次十字軍は、その地平線まで埋めつくすような大軍にも関わらず、犠牲はわずかに2百名であった。フス派の詩人によれば「彼らは煙りのように散り、蝋のように溶けた」ということである。
チェザリーニ枢機卿は枢機卿の正服を脱ぎ捨て農民に変装して、教皇から受けていた「十字軍勅書」ですら投げ捨てて、かろうじてこの場所を逃れた。帝国皇帝旗、王国旗等は次々と追撃するフス派軍の手に渡り、嘲笑と罵声の的となった。全軍を指揮するブランデンブルク候もごくわずかな供回りで、必死にこの戦場を逃れた…屈辱と怒りに苛まれながら。

おそらく歴史上、兵力において劣勢にある方が、これほど完璧に勝利をおさめた例はない。

十字軍壊滅の報はたちまち全欧州に知れ渡った。皇帝の威信は地に落ち、教皇は恐怖の余り「フス派軍がアルプスを超えるのではないか」と幻想的恐怖を側近達に訴えた。また参加しなかった諸侯はひそかに胸をなでおろし、その後は皇帝からの誘いに一切のらぬと堅く、ひそかに誓った。
またボヘミア国内のカトリック諸侯、あるいは聖職者達は逃亡、あるいは亡命の準備をするが、一方でフス派穏健派と和平を結ぶべく、プラハ市の穏健派を介してプロコプと会談を持ちたがった。彼らは「プラハ4か条」に対して条件付ながらこれをすべて飲むという大胆な和平提案をしていたのである。だが、これは時期が悪かった。もしフス派が劣勢であれば、このような寛大な和平提案には喜んで飛びついただろう。だが、異端撲滅十字軍が無様な醜態をさらした後で、このような和平提案はあまりに弱かった。もっともプロコプがどうみたのかはわからないが。

一方、最大のダメージを受けたのは皇帝ジギスムント=フォン=ルクセンブルクである。彼の生涯の大事業、「欧州統一帝国」そして対オスマン帝国のための「汎ヨーロッパ十字軍」の夢はここに潰えた。帝国のために、欧州のためにと、その個人の幸福をも省みず、ききわけの無い帝国諸侯と、傲慢な聖職者達を脅し、あるいはなだめすかし、覇権をもとめる諸国との難しい外交を渡り歩いてきた百戦錬磨の皇帝であった。その間、彼はあまりにも年老いてしまった。若い頃「美男子」としてしられた面影は薄れ、機転と優れた外交センスで切りぬけてきた彼の運命は、異母兄ヴァーツラフ4世の残した悪夢のような遺産によって暗転してしまった。兄を帝位から追ったのはこんな結末のためであったのかと・・・彼は悲嘆せずにはいられなかった。
すでに「異端撲滅十字軍」は敗北し、再開は不可能であった。教会は皇帝を頼りとはせず、その軍事力にはもはや信頼を寄せなかった。帝国諸侯はブランデンブルク辺境伯やオーストリー、シュレジェン諸侯を除くとまったく消極的になり、その他の諸侯は繰り返し和平を結ぶようにと皇帝に申し出た。ジギスムントも、それを受け入れざるおえなかった。

和平交渉は1431年の7月にバーゼルで行われる会議でなされることとなった。このバーゼル公会議はなんとあのチェザリーニ枢機卿の提案によるもので、プロコプへは穏健派の代表格になりつつあったロキツァナのヤンによって伝えられた。フス派の軍事力の優秀さを知りながらも、その限界を感じていたプロコプもこれまでにない相手側の真剣さを感じたのであろう。これを快諾し、早速細かいうちあわせに入った。

実際、フス派の結束はかなり乱れていた。遠征軍はときどきコントロールを失って暴走していたし、穏健派と急進派の対立はシロッツィという抑止力がかろうじておさえていたが、それが双方に不満を引き起こしてもいた。またさらに、そうしたフス派軍事指導者の中から私財を貯めこむ者が現れ、彼らはほとんど封建領主と変わらない生活をしていた。農民からは禁じられていた(すでに原則論にまで後退していたが)地代を徴収し、「共同体のためだ」とはいって労役すら課す始末。頻繁に行われた遠征のために、農作業をほったらかしにして軍事遠征に借り出される者も多く、これはとくにターボル近辺の農民達の怒りを誘った。ついには農民達が決起し、ターボル軍と戦闘にまでおよんだほどである。また、それほどバイタリティのない人々は町や村を放棄して逃げ出し、そこは廃墟となった。ただでさえボヘミア国内はカトリック諸侯や十字軍との戦闘で荒れ果てていたので、その惨禍は目を覆うばかりであった。
こうしたフス派の乱れにさらに拍車をかけたのが、フス派聖職者である。説教師達の生活は、当初の清貧から大きく逸脱したものになった。また、軍事をつかさどるようになると、私財ではないものの勝手に資金を捻出するために事業をはじめたり、領地を持とうとしたりと、およそフス派の理念にそぐわないことをしだすものが現れた。おまけにターボルにおいては、手工業者達に税を課して、いったんは共同で集めておきながら、ひそかに蓄財するという不公平をおこなうものもいた。

だが、結局のところフス派最大の問題は、その軍事力であった。非常に強力なその軍の装備や維持には、莫大な費用がかかった。ところがフス戦争が始まって、皇帝による経済封鎖や戦争による経済の停滞、農村の荒廃などによって彼らの資金源は枯渇しつつあった。金がなければ武器もそろえられず、兵士達を食べさせるわけにもいかない。とくに穏健派とつねに緊張状態にある「孤児団」などの、非常に軍事的性格の強い共同体は、ほとんど常備軍に近い形態であった。彼らは戦闘がなければ農作業なりなんなりをして、生計を立てるはずだったのだが、実際にはそんな余裕はなく、ほとんど周辺からの地代徴集でまかなうしかなかった。このため、そのとりたては過酷を極めたという。なにせ「戦闘集団」とは、戦っていないときは非常に「ヒマ」なのだが、その間ほかのことをするわけにはいかないという非常に不経済なモノなのである。
当初、フス派の共同体が抱いていた理念はすでに崩れていた。追い重なる現実を前に、人々は自分でなんとかしようと考え、その結果理念は二の次となった。農民達はわけもわからず戦場にかりだされることになったし、元貴族身分の者達はそれ相応の生活をしようとしたし、戦闘マシンと化した一群は、もはや農作業を忘れた。
プロコプは、こうしたフス派の現状を非常に憂いていた。強力になった軍隊だけでは理想は達成できない…その現実に、彼は「和平」という形で打開策をみつけようとしていたのである。

バーゼル公会議では、やはり「プラハ4か条」その中でもとくに「二種聖餐」の義務化が問題となった。全カトリック教会で「二種聖餐」を行うことは教皇をはじめとしてあらゆる聖職者が難色を示したため、プロコプはせめて「ボヘミア」および「モラヴィア」での「二種聖餐」を容認してくれるように申し入れた。これはとくに急進派の最低限の要求に含まれていたため、妥協できる問題ではなかったのである。
バーゼルでは3ヶ月間に渡って論議が行われ、その後プラハに場所をうつして討論が続けられた。実は公会議に参加した聖職者達は、ジギスムントの意を汲んだ「公会議派」と呼ばれる人々で、教皇至上主義を貫く聖職者達とは一線を画していた。このためどうしても「公会議」を成功させようと意気込んでいた。かれらは「公会議」を教会の重要な意思決定機関にするために、その威信を高めようとしていたのである。そしてそれには会議の成功という実績がどうしても必要だった。
しかし双方の熱意が若干の歩み寄りをみせるまでに、長い時間が必要とされた。その間急進派では「軍事的威信で敵を降伏的和平に追い込む」という方策を捨てきれず、ダンツィヒ攻撃や再度のドイツ遠征、国内においてはプルゼニ(カトリック防衛派の最大拠点)を猛攻した。ブランデンブルク領や遠くストラスブルクまで攻めこまれたドイツ諸侯は恐怖に震え上がり、「フス派がくるよ」というのは子守りの時、泣き止まない子供を諌める言葉の代表となった。すでに和平会談も始まっていたのだが、これを好まない急進派勢力もあったのか、遠征軍は激しく暴れまわった。また、この時期にはポーランド王の策略もあって、遠征軍がポーランド王にとって傭兵のような立場で戦ったりもしており、このあたりの彼らの理想主義の低下が顕著に見られる。

だが、こうした戦闘の連続にもかかわらず和平交渉は続いていた。もっとも教会・帝国側はフス派側の主用な交渉相手を全軍代表のプロコプから、むしろ穏健派のほうに比重を傾けつつあった。この穏健派の代表者がロキツァナのヤンである。彼は師であったヤコウベクの意思を受け継ぎ、1434年1月から和平会談を開始しており、その後急進派が軍事解決に走ったのを尻目に和平のための努力を続けていた。穏健派は「プラハ4か条」および「二種聖餐の義務化」でなおも粘っていた。もっともバーゼルではこの会談は実を結ばなかったが、その後カトリック教会側からのアプローチにより穏健派の態度がさらに軟化。とりあえず二種聖餐の件は置いておくこととして、まずカトリック諸侯との和平が図られた。
とはいえ、全軍において支持は圧倒的に急進派にあり、さらにその統制には「孤児団」があたっていた。そのため穏健派指導者達は、一部ロキツァナのヤンなどにも知らせず、極秘に会談を重ねたらしい。そして穏健派は「対急進派」のための防衛連盟を結成。ここにフス派の分裂は確実となった。もちろんこれには穏健派への多額の資金援助なども含まれていたのだが。この同盟の転換には、スペイン出身の神学者ホアン・デ・パロマールという人物が多いに活躍している。(彼はバーゼル公会議でも活躍し、資金の受け渡しなども担当した)

カトリック側の資金援助により武装を強化したフス派穏健派は、奇襲攻撃を計画。フス派の指導権を急進派から奪うべく、まずプラハ市を制圧することを考えた。1434年5月、穏健派とカトリック派の連合軍は、プルゼニ攻撃中の急進派のスキをつく形でプラハを急襲。一気にこれを制圧した。これは急進派にはまったくの予想外の出来事であったため、彼らの動揺は大きかった。プルゼニ攻撃中の孤児団もターボル軍もすぐには軍を転進できず、同年5月末にようやく軍を出した。
急進派軍は一度兵や装備を補充しようとしたのか、すぐにはプラハ方面にむかわずコリーン方面に向かっていたが、ここは急進派の根拠地の一つであった。これに対して穏健派とカトリック諸侯の連合軍も出陣し、5月30日プラハから40キロ(30キロ?)離れたリパニの丘で両軍は激突した。急進派軍はプルゼニ攻撃からの転進組と急遽かき集められたターボルの兵で構成されていたようで、兵の数と装備において欠けるところがあったらしい。フス派穏健派とカトリック諸侯軍は丘の下に、プロコプ指揮下の軍勢はなだらかな斜面上の有利な位置を占拠し、ここに陣を構えた。そして戦車陣を形成しつつ、互いの出方を伺った。

攻撃は穏健派軍の攻撃で始まった。双方ともにフス派であるため、「汝、神の戦士たれ」は双方で歌われたのであろう。今やその音は狂気の響きとなって戦場を圧した。「兄弟殺し」の始まりである。
先手をうって有利な位置を占めたターボル軍を主とする急進派軍は、攻め上ってきた穏健派軍をなんども退け、逆に退却する彼らを追って攻勢に転じた。が…彼らは知らなかった。すでに急進派内部、それもこともあろうに「孤児団」の中に、裏切り者がいたことを。その人物…チャペック将軍は急進派の中でも膨大な「領地」を獲得しており、それだけで十分なものを得ていた。彼にとっては急進派陣営にいることで、もはや得られるものは少なかったのだろう。穏健派が彼の領地を認め、王国貴族として正規に認めてさえくれれば、急進派の現実ばなれした理想主義など、彼には用のないものであったのかもしれない。
プロコプは穏健派軍が退却をはじめると「追撃」の命令を出した。いつもどおり秩序だって攻撃に転ずる急進派軍。勝利は九分九輪彼らのものだと思ったとき…突如、穏健派軍が逆に攻勢に転じた。数の上では穏健派軍のほうが有利であったため、プロコプはいったん追撃にうつった兵を戦車陣内に退避させようと考えた。ところが、退いてきた兵らは思いがけないものを見る。それは彼らに向かって大砲や銃が向けられていたことだった。チャペック将軍とその同志らが反旗を翻したのである。
戦車陣内に逃げ込めない上に、味方の陣から砲撃と銃撃をくらって、攻勢に出ていた軍勢は壊滅状態になった。その上反旗を翻した者達が、プロコプの本陣をも攻撃しはじめたため、急進派の陣形は完全に崩壊し、一気に劣勢へと落ち込んだのである。これを見ていた穏健派軍は勇気付けられ、ついに「総攻撃」の命令を下した。そして急進派の戦車陣内部に攻めこんだのである。
この結果、急進派軍は急速に崩壊した。総指揮官プロコプは戦死、他の指揮官も次々と戦場に倒れた。とくに「孤児団」のメンバーは、裏切り者達を除いて次々と戦死し、ほとんど全滅状態となった。

「リパニの戦い」…そう呼ばれたこの戦いは、その後フス派に暗い大きな影を投げかけることとなる。穏健派軍は勝利したが、この戦いでフス派の大きな柱の一つが倒されたのである。また、急進派の主張「万人は等しく兄弟姉妹である」という言葉も、もはや意味を失った。そして代わりに彼らを捉えたのが「リパニの兄弟殺し」という悲惨な殺戮の物語であった。急進派軍は戦場でことごとく殺された…穏健派にしてみれば、彼らの報復を恐れていたのである。それほど彼らの軍隊は強力で、恐れられていたのだ。そしてこの殺戮の悪夢が、やがてくるであろう平和の夢の中で浄化されることを、多くの人々が望んでいた。

だが、誰が予想できただろう。
この血まみれの悪夢の中から、一人の人物が生まれたことを。
信仰の戦士としての喜びを捨て、「狂気」の戦争機械となる人物が、その歩みを進めたことを。
死体の散乱するリパニの地から、悪夢の血が消え去ることはなかったのだ。
そしてプラハは、長い年月の後に、そのツケを支払うこととなる。



リパニの戦いの後、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクは1435年7月6日、プラハ市に対して「穏健派のみが完全なプラハ市民である」との政令を発表。あわせて穏健派が望んでいた「教会や修道院への賃貸料の支払い停止」などを承認した。そして同じ年10月21日にはボヘミア議会において、穏健派の事実上の指導者ロキツァナのヤンがプラハ大司教に選任される。カトリック教会は抗議したものの、これは皇帝が封じ込め、この前代未聞の任命を承認した。そして翌年2月・・・ボヘミアの議会は、皇帝ジギスムントとの和解を決定した。
1436年7月5日、ボヘミアとモラヴィアの間にあるイフラヴァ広場において、皇帝、ハプスブルク家のアルブレヒト、公会議代表団、フス派代表が集まり、和解が成立した。これがいわゆる「バーゼル協約」である。この内容は、表面的には1421年の「プラハ4か条」の承認に見えた。そしてこれを「フス派の勝利」として、人々は平和とともに歓迎したのである。

長い戦争は終わった…疲弊したジギスムントは、教会側のこうるさい抗議を無視する形で、強引に和平を進めた。すでに齢60を超え、かつてのヤン・ジシュカの年齢に近づきつつあった皇帝の心の中には、挫折感と孤独感が渦巻いていた。唯一、慰めがあるとすれば彼の妹が嫁いだハプスブルク家の勢いと、側近としてそばにあった若きハンガリーの騎士フニャディ・ヤーノシュの成長であったろう。皮肉なことに、この両者とも、やがてこのフス戦争の「置き土産」とでもいうべきものに、てこずらされることになるのだが。
1436年8月7日、皇帝は和平の結果としてボヘミア王国を受け取ることとなった。兄ヴェンツェルの死後17年も経っていた。順当にいけば、極当然な王位継承だったボヘミア王位である。それが17年もかかったのだ。しかも国内には、まだ急進派の残党が各地で抵抗していた。彼はプラハの王宮でのんきにしているわけにもいかず、老体に鞭打って急進派残党討伐のため軍勢を進発させ、1437年9月6日、ついに最後の抵抗拠点シオン城を陥落させるにいたった。
だが、彼の命はそれが限界であった。
彼の夢見た壮大な企図はついに実現することなく、1437年12月9日、急進派滅亡からわずか3ヶ月で彼の人生に幕が下ろされた。彼の王国であったハンガリーに向かう途中、モラヴィアのズイノモでの死であったとされる。享年69歳。彼は子供を残さなかったため、ルクセンブルク王朝は4代にして神聖ローマ帝国の帝位を永遠に喪失した。


こうしてフス戦争は終結した。後に残されたのは荒廃しきったボヘミアの大地、あいも変わらず内紛に明け暮れ、時期帝位を誰にするかと野心と打算の限りを尽くす帝国諸侯、オスマン帝国の脅威がいよいよ身近になってきたハンガリー、新しいフス戦争の戦場となってしまったポーランド、そして何よりもハプスブルクの影である。

ハプスブルク家は、スロバキアをルクセンブルク家との縁組によって獲得していた。そしてハンガリー王位をも獲得することに成功した。このときアルブレヒト国王は、亡きジギスムント王の意思をついで「対トルコ戦争」を行おうとしたが、疫病に倒れてこれを果たせずに亡くなった。そして次期後継者の選定となったのだが、ハンガリー宮廷の実力者であるガライ一族は、先王ジギスムントとハンガリーの門閥貴族であるツィレイ家の娘エルジェーベットとの間にできた皇子ラディスラウスの王位継承を唱えた。これに対して、ジギスムントがガライ一族等に対抗する意味で育ててきた貴族層はポーランド王ヴワディスワフ3世を王位に推戴。この結果戦闘が起こり、ヴワディスワフ3世派が勝利をおさめた。

ところがガライ家やツィレイ家を始めとする門閥貴族はヴワディスワフの王位継承を認めず、勝手にハンガリー王国の土地をラディスラウスの後見人であるハプスブルク家のフリードリヒ3世に委ねてしまう。そしてこの際、ラディスラウスの宮廷に一人の人物からの接触がはかられた。その人物こそ誰あろう…かつてのフス派急進派、孤児団の生き残りにして優れた戦闘指揮官であったイスクラという人物であった。彼は、ボヘミアにおける「フス派王」の異名を持つイジー王の弾圧から逃げ延びた元急進派の生き残りを集めて精鋭軍を再建し、傭兵部隊を形成していたのである。王妃も彼らのことは知っていたのだろう。「スロバキアにおけるラディスラウスの権威回復」を目的として、イスクラを雇うことを決意する。
だが、イスクラという人物は見かけよりはるかに危険な人物であったのだ。
後にヴラド・ツェペシュが、あるいはマーチャーシュ・フニャディが見ぬいたように、彼と彼の軍団はリパニの洗礼を受けた、地上最強軍の狂気の核であった。信仰を失った戦闘機械として、より強大な敵を倒すことだけを生き甲斐として、漆黒の衣をまとい、戦場を求めてうろつく危険な連中であった。
ハプスブルク家は、あまりに危険な連中に手を出していた。


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