東欧戦記 第一回

ハンガリー王の悲劇〜ラースロー4世とエドゥア王妃〜

ラースロー(4世)とエドゥア王妃

序章  まずは簡単なハンガリー始まりのお話〜♪

「おお神よ、マジャール人の矢より我らを守りたまえ!」・・・欧州がそう祈ったは、遠い昔のこと。マジャール族が、東方の偉大な遊牧帝国ハザールの配下を抜けだし、ペチェネグ族の襲撃を恐れつつ緊急回避的にカルパチア盆地に向かったのが、そもそもの始まりであった。このときマジャール民を率いたのが「ケンデ」の地位にあるクルサーンと、「ジュラ」の地位にあったアールパードである。地位的には「ケンデ」の方が「ジュラ」より上位であったらしいが、ハザールでの慣習に従って支配権は互いに分け合っていた。

侵攻した先のカルパチア盆地は動乱のまっただ中にあった。巨大なアヴァール族の帝国がカール大帝によって叩きつぶされて以来、フランク王国という西の強大勢力の隆盛を前に、様々な小勢力が試行錯誤を繰り返しながら、必死に生き残ろうとしていたのである。ブルガリア帝国はビザンツ=ローマ帝国と死闘を繰り広げており、後のハンガリー西部にまで至る広大な領土を持っていたスロベニア公国は、崩壊寸前であった。

マジャール族は、ペチェネギ族の脅威から避難するためにカルパチアに「移動」したのであるが、これは西欧諸国に「恐怖」をもたらした。マジャール族は、まずスラブ系諸勢力を撃破し、続いて猛烈な勢いでドイツ方面に攻め込み、あらゆる勢力を撃破した。教会は、諸侯があまりにも無力なるが故に絶望し、必死になって祈り続けたという。当時、西欧を代表する勢力といえばフランクのカロリング王朝であったが、カロリング王朝は衰退期であり、諸侯の中にはマジャール軍を招き入れるような者も少なくなかった。

904年「ケンデ」のクルサーンは、バイエルン領主の宴に呼ばれ、出かけていった所で殺害された。宴は罠だったのである。この結果、「ジュラ」の地位のアールパードが全マジャール族の長となる。(もちろん「ケンデ」のクルサーンにも子供達がおり、これは後々ハンガリー王国の運命に関わってくる)907年、エンス河畔の合戦でオストマルク辺境伯を敗死させ、さらに北方ではザクセン・ドイツ人の脅威にさらされているスラブ系勢力と手を結んで戦いを続けた。バイエルン公、イタリアの貴族達はマジャール軍を利用することしか考えず、とくにイタリアは全土がマジャール軍に蹂躙されるという事態を迎えた。

これに対し、しかし西欧もただ手をこまねいていたり、利用ばかりしていたわけではない。とくにハインリヒ捕鳥王は王権の強化を図ると、国内体制を引き締め、軍備を強化し、メルセンブルクの戦いでマジャール軍を撃破した。この敗北に、マジャール軍はその矛先をビザンツとの抗争に疲れているバルカン方面に向け、西欧はやっと彼らの危機から救われるかと思われた。

だが・・・・「ホルカ」の地位にあるブルツという人物が、再び西欧への進撃を開始した。彼の時代、有名な「おお主よ、マジャール人の矢より我らを守りたまえ」という祈りが西欧で行われたとも言われる。彼は西はアルプスやピレネーを越えてスペイン半島に進撃し、東はボスポラス海峡を越えた。ビザンツ帝国は彼のキリスト教化を考え、現にキリスト教の洗礼を受けさせローマの貴族にさえ叙したのだが、彼はまったく満足しなかった。「血の男」と呼ばれた彼は、あくまでも「征服」を欲したのである。西欧は、この「第二のアッティラ」に震え上がった。
しかし、彼は過去の遠征軍ほどの栄光を満喫できなかった。955年、彼の軍勢はアウグスブルクの地でオットー1世の軍隊に敗れ去り、他の将軍とともに処刑されたのである。

こうして「マジャールの脅威」の時代は幕を閉じた。
そして「ハンガリー王国」の時代が、いよいよ始まるのである。


第1章 「東より来たれるもの」

ハンガリー王国は、先述したように遊牧民が築いたものであった。そして、もともと遊牧民である彼らが、西欧とはいわずとも、定着した農耕文明にいきなり180度かわることができるはずもなく、さらに政治制度の面では従来の部族制度と、新しい「王権」の制度が激しくぶつかったために、ひどく動揺しやすい国となってしまっていた。初代ハンガリー国王聖王イシュトヴァーンに始まり、多くの王がこの問題を解決しようと、いろいろな策を練った。「キリスト教導入」に始まり、西欧の諸王・公家との婚姻政策、土地の所有に関する様々な改革等々・・・しかし、いずれもうまくいかず、諸侯の激しい反発を買っただけに終わる事が多かった。

遊牧時代の遺産は、王政の理念とは相容れないものであった。少なくとも、ハンガリーではそのようになってしまっていた。

1235年ハンガリー王に即位したのはベーラ4世であった。彼はハンガリー王権の伸張に致命的な遅れをもたらした先王アンドラーシュ2世の「新体制」に不満を覚えており、とにかく彼の王以前の状態に王国を戻すべく「復古政策」をとった。具体的にはアンドラーシュ王時代に権勢を誇ったような貴族、王の側近だった貴族らが「王にたかって」得た所領などを奪回したのである。これは、もともと「王領」であり、これを奪われることは王権の衰退を意味したからであった。さらに、それまで「口頭」で行われていた命令や制令などを「文章」にすることを決め、その記録を厳密に保管するようにしたが、これは貴族達の適当ないいわけや、「知って知らぬフリ」をする連中を押さえるためであった。

こうしたやり方は、当然多くの貴族達の反発を招いたのだが、そこに「モンゴル軍」という想像もしなかった要素が加わることで、より複雑な様相を見せ、そして後にはラースロー4世とエドゥアの悲劇を招くこととなる。

少々時を遡ってアンドラーシュ2世時代。
カルパチア山脈の向こう側には、ロシア諸侯と一定の緊張関係を孕みつつポロヴェーツ人(欧州では「クマン人」と呼ばれる)が住んでいた。彼らは、先住のペチェネグ族をうち破りこの地方にまで進撃してきたのだったが、アンドラーシュ2世は十字軍で果たせなかった夢を、彼らの改宗で果たそうと思い立った。

1211年、ドイツ騎士修道会の総長ヘルマン・フォン・ザルツァはハンガリー国王アンドラーシュ2世に呼ばれ王城に赴く。王は、ヘルマンに「ドイツ人をトランシルバニアの南東部に入植させよ」といい、併せて騎士修道会のための土地も用意したことを告げた。野心的で極めて賢明なヘルマンはこれを好機ととらえ、すかさず騎士修道会により「植民団」を組織。これを率いてトランシルバニアへ移住し、計画的な都市計画を展開。開墾などで次々と土地の開発につとめた。
しかし、国王アンドラーシュの意図としては、彼らにポロヴェーツ人を征服して教化してもらうのが狙いであった。すでにアンドラーシュの権威は落ちており、自前で軍隊を召集するのは困難であったため、ドイツ騎士修道会のような軍事的な外国人組織が頼りだったのである。だが、騎士修道会はやっと安住の地を見いだしたのであって、戦争は2の次であった。トランシルバニアにおける自らの足場を固めることが、重要だったのである。騎士修道会は独自の貨幣さえ発行していた。
そして騎士修道会は、ハンガリー王との封建的主従関係を断つために、ローマ教皇に直属しようとする姿勢を見せた。1224年、ヘルマンはローマ教皇ホノリウス3世に使節を出して、騎士修道会をハンガリーに服属させているプルツェンラントの司教の管轄権を、ローマ教皇そのものに直属させることができないかという伺いを立てたのである。これは、アンドラーシュ2世には致命的な動きであった。そしてハンガリーにおける影響力強化を狙う教皇が、これを承認してしまったことからハンガリー王は諸侯に突き上げられることとなった。
むろんアンドラーシュ2世自身も、この「裏切り」には愕然とした。1225年、アンドラーシュ2世はヘルマンに対し「与えた特権のすべてを廃止し、ハンガリーから追放する」という命令を発する。軍事的にはまだ弱い騎士修道会はこれに従うしかなく、おとなしくハンガリーを去り、幸いお呼びがかかっていたポーランド方面に向かう。

一方、ポロヴェーツ人に対しては、もはや武力改宗など思いもよらず、托鉢修道会による穏やかな改宗が行われたが、なかなかうまくいかないでいた。ところが、そこにモンゴル軍が近づいていたのである。1235年、ドミニコ会の修道士ユリアヌスが「東方にマジャール語をしゃべる人たちがいる」という噂を聞いて、それを確かめるために東方へ向かうが、そのときにちょうど「西方」に迫りくるモンゴル軍の噂を聞いた。モンゴル軍接近の報は、モンゴル軍に破れたポロヴェーツ人たちからもハンガリーに伝わったという。

1237年、ドニエプルとドニエストル河畔に住まうポロヴェーツ族がモンゴル軍の攻撃を受けて壊滅。ポロヴェーツ族の指導者ケテニュは、多くの避難民を抱えて西方に移動し、ハンガリー王国のあるカルパチアに入った。ケテニュは王国に使えることを約束したため、国王ベーラ4世は彼らをドナウとティサ川の両河川の間に設けた「居住区」に受け入れた。ベーラ4世は、アンドラーシュ2世のように彼らが戦いに役立つと考えていたのである。
しかし、遊牧民であるポロヴェーツ族とハンガリー農民との関係は悪かった。ポロヴェーツ族は牧畜をするが、その家畜が勝手にハンガリー人農地に立ち入って、農作物を食い荒らしてしまうことがたびたびあったからである。ポロヴェーツ族には、農民達の持つ「テリトリー」の概念は理解しがたいものであった。そして、これを利用しようと貴族達が騒ぎ始めたのである・・・「ポロヴェーツ(クマン)族を殲滅しろ!」と。
だがベーラはこの見え透いた貴族達の要求を退けた。ベーラ4世はモンゴル軍の情報を収集して警戒し、彼らとの戦闘経験を持つ強力な騎馬兵力ポロヴェーツ族を手放すわけにはいかなかったのである。それになにより、ポロヴェーツ族は王権の敵である貴族達を押さえるのに有効であった。
貴族達はこの国王の意図を知っていたがゆえに歯ぎしりし、なんとかしてポロヴェーツ族をハンガリーから追い出そうと農民達を扇動。農民達はケテニュを「ポロヴェーツ族の頭目」と見て、これを襲撃して殺害した。ケテニュ殺害は、ポロヴェーツ族を憤慨させ、ここに内乱が発生。ポロヴェーツ族はハンガリー軍と交戦しながら、再び東方へ去った。

モンゴル軍は、その間にも着実に近づきつつあった。侵攻作戦にはチャガタイの子バイダルの他に、カイドゥ、オルダ諸王の軍勢が集結し、兵力は約3万であったという。(バトゥスブタイ軍は別に行動)冬季に始めるという珍しい侵攻作戦であった。

ドイツ騎士修道会はポーランドのヘンリク(クラクフ候)の要請を受け、軍勢をポーランドに送り、モラヴィア辺境伯も軍勢を召集した。集まった軍勢はかなりの数となったが、混成軍としての弱点ももっていた。一方モンゴル軍は、常勝の勢いでこれに迫り、1241年4月9日リーグニッツより四キロ離れたナイス河畔に戦列をひいたドイツ&ポーランドの混成軍に激突した。ドイツ&ポーランド軍は個人的な武装面でモンゴル軍に劣るということはなかった(少なくとも貴族階級は)が、戦術はまずかった。モンゴル側のみせかけの敗走にだまされ追撃した瞬間、攻守所を変えてしまったのである。ドイツ&ポーランド軍は撃破され、かなりの数の兵士が首を取られたという。(このことからワールシュタットの戦いという名称ができた)だが、この大勝利にも関わらず、モンゴル軍は堅固な要塞であるリグニッツァ要塞を占領していない。1241年5月はじめに、バトゥ&スブタイ軍とこの軍勢は合流した。

モンゴル軍が本隊と合流したため、ハンガリー王は直ちに臨戦態勢に入るように指示したが、その用意は不十分であった。オゴテイの皇子カダンの軍勢はトランシルバニアから、バトゥ率いる本隊は1241年末、ドナウ川を渡ってハンガリーの当時の王都エステゴルムに攻めかかった。ついに、モンゴル軍がハンガリーに本格的に侵攻を開始したのである。
4月1日のシャヨー河の戦いは、ハンガリー軍の全滅で終わった。バトゥは国王ベーラ4世の身柄を押さえることを狙い、執拗に彼を追いかけた。このためベーラ4世は逃げて逃げて逃げまくり、アドリア海の小島トロギル島まで逃げるが、このことで著しく西欧への印象が悪くなったことは否めない。同年8月の初めには、モンゴル軍の一部はオーストリアへも侵攻し、このときモンゴル軍に協力していたイギリス人使節が捕らえられている。
西欧は震え上がるか、無関心を決め込んでいたが、わずかな人々はハンガリーが落ちれば次はドイツであり、フランス、イタリアであることを理解していた。フランスのテンプル騎士団長ポンセ・デュポンは「タタールがドイツを征服するのが神の意志だとすれば、戦いの重圧は陛下の肩に降りかかって参りましょう」とフランス王に警告しているし、ルイ王の母ブランシュ太后は、真剣にモンゴル軍の侵攻を恐れていたようである。ところが、これに関してルイは侵攻問題ではなく「信仰問題」であるかのように、まるで教理問答のように答えるだけだった。

モンゴル軍は1241年12月11日、帝国本土からの急使によって大カン=オゴテイが死んだことを知り、翌年3月馬首を東へ向けた。とはいえ、彼らは静かに東へ帰ったのではなく、その間にも抵抗する国々を片っ端から攻め落としている。まさに、西欧にとっても東欧諸国にとっても「神の恩寵」によるモンゴル軍の退却であった。


第2章  流離える王国

モンゴル軍の撤退により、国王ベーラ4世は無事ハンガリーに戻ることができた。が、その前に疲弊した王国を狙ってオーストリア公フリードリヒ2世が攻め込んでくるというショックが王を襲った。フリードリヒは、前々からハンガリー西部を狙っていたのである。そしてベーラ王を捕虜にさえした。この屈辱に、しかしハンガリーは金銭でもって対応するしかなかった。そして、このオーストリアの行為を周辺諸侯は素知らぬ顔で、見て見ぬふりさえしたのである。ベーラ4世は、「忍耐」の文字に徹した。

ハンガリーの被った被害は大きく、王国はいたるところ荒廃していた。ベーラ4世は、必死になって国土の防衛と再建に取り組むが、またしても貴族と王権の軋轢が改革を鈍らせた。とはいえ、民族的な文化を築くという点では貢献し、ハンガリー貴族層のある程度の妥協を引き出しもした。ブダはこのとき王宮所在地(バールヘジュ)となり、近隣の生き残り農民達を積極的に招致して、ブダの復興を図った。そして以前のブダ(王宮所在地は新ブダ)と、新たに造られたペシュトの3つが合わさり、後の「ブダペシュト」が完成するのである。また、それまでの平屋建築要塞を石造りにする運動も起こし、これはモンゴルの恐怖を骨身にしみた貴族達が積極的に行った。とはいえ「オリガルヒア」(大貴族)と呼ばれる貴族層は、次第に国王の掣肘を疎ましく感じていくようになる。

一方、防衛政策では彼はまたしても過去の例にならいポロヴェーツ族を招致した。ただし、今度は第一に大貴族層に対するより一層強力な抑止効果を期待してのことであり、思い切ったことを計画していた。ベーラ王は皇子イシュトヴァーンと、バルカン地域から招いたポロヴェーツ族の族長の娘を結婚させたのである。ポロヴェーツ族長の娘の名はわからないが、イシュトヴァーン皇子とは仲むつまじい夫婦であったという。ベーラ王は、とりあえずこのことにほっとし、次々と軍の改革を実行に移したが、次第に大貴族達の雲行きが怪しくなっていった。

1260年シュタイエルマルクの支配権を巡って、チェコ王オタカル2世が実力行使にでるという事件が起こった。もともとベーラ4世は、オーストリアのバーベンベルク家が断絶したことを理由に、1254年オタカルと結んだ条約に基づいてシュタイエルマルクを領有した。ところが、シュタイエルマルクの多数を占めるドイツ人領主層は、ハンガリー王国の統治を嫌い、代官を追いだし、チェコ王に領地を差し出すという行為に出たのである。オタカル軍はマルヒフェルトの戦いで勝利すると、バーベンベルク家の領地とあわせてシュタイエルマルクも領有した。そして、このことがベーラ王と皇子イシユトヴァーンの間に、思いがけない波乱を引き起こすのである。

イシュトヴァーン皇子は活発で、明朗快活であったが、父王ベーラ4世の「忍の一字」の政策展開には腹が立っていた。外交でも常に弱気で受け身のベーラ王を見るたびに、彼は王国の威信が損なわれているように感じた。とくにチェコの驕慢な王オタカルの要求に対し、できるかぎり穏健策をとろうという父王の政策に、彼は真っ向から反対した。もともとシュタイエルマルクは、彼の領地になる予定だったのである。そして、この親子の微妙な対立に、貴族達がつけ込む隙をみつけるのはたやすいことであった。
イジュトヴァーン皇子は貴族達を集め、父王の政策に不満をぶつけた。貴族達はこれに賛同し、「ベーラ王はお年をめされ、耄碌されたのだ。チェコ王の驕慢は我慢がならぬ。まず国王を引退させ、イシュトヴァーン陛下のもとにチェコ王と戦おうではないか」と扇動した。イシュトヴァーンもこれには乗り気となり、「あくまでも平和的に」国王を引退を追い込むため貴族軍を召集した。仰天したのはベーラ4世である。彼もあわてて軍勢を召集したが、兵力は互角であり、戦えばせっかく端緒に付いたばかりの王国復興がご破算になるのは目に見えていた。王は歯ぎしりしたが、出遅れたこともあって1262年、息子イシュトヴァーンに「若王」という称号を贈り、併せて王国の東半分、ドナウ川以東の支配権を与えた。王国は、分裂したのである。

しかしこれはあくまでも形式上の分裂にすぎなかった。事態は、むしろより深刻であった。貴族の一人一人は、その定められた支配権にも関わらず、どっちの陣営に付くかは勝手であった。実際、イシュトヴァーン若王を支持したのは、ドナウ川以西の貴族達だったのである。そして父王と若王の和約にも関わらず、両陣営に属する貴族達は勝手に戦争を始めていた。この機会に、少しでも多くの領地を確保しようと、私欲むき出しの争奪戦に突入したのである。ベーラ王も、イシュトヴァーンも、この「既成事実」にどうしようもなかった。そして2人の王は、ただでさえ少なくなりはじめた「王領」を貴族達に下賜することで自軍の数を揃えようとしたのだが、このことは王権の威信を著しく損ねたのである。

だが、さすがに著しく激化した争乱は、貴族達ですら疲弊させた。とくに中小貴族たちの疲弊は大きく、彼らは一致団結すると1267年エステゴルムで「2人の王」に対する要求文を出した。いわゆる「1267年法令」である。この結果、とりあえず戦乱は収まった。しかし、これをきっかけに大貴族だけでなく、中小貴族たちでさえも王の威信の及ばない存在と化してゆく。ベーラ4世にとっては、すべてがご破算になった最悪の結果であった。
彼は意気消沈し、1270年まるで朽木が倒れるように息絶えた。モンゴルと貴族に翻弄され、西欧とチェコ王に馬鹿にされ続けた過酷な生は、やっと休息を得たのである。

だが、すでにハンガリー王国の崩壊は止めようもなかった。1270年のベーラ4世の死と同時に、再び政治的闘争が再発したのである。後継者は、あのイシュトヴァーン皇子であったが、彼がイシュトヴァーン5世として即位すると、元ベーラ4世派の貴族達はチェコ王オタカルに近づいていった。とくに太守(バーン)の一人、ケーセギ=ヘンリクは自分の所領を勝手にチェコ王に差し出した。驚いたイシュトヴァーンは、早速兵を出してチェコ軍をうち破った(ラーバ河の戦い)が、このときチェコ王との和平会談でケーセギ=ヘンリクの処遇については無視された。ケーセギは仕方なくイシュトヴァーン王にわびを入れたが、この野心家の魂は、まだ何もあきらめてはいなかったのである。

ケーセギは表向きはおとなしくしていた。このため王もある程度は行動の自由を許していた。ところが、ケーセギはこれを好機として、王妃の寵愛を受けている太守ヨアヒムの助けを借りて、ある日突然皇太子ラースローを拉致したのである。当然、イシュトヴァーン王は激怒した。彼はただちに軍勢を集めてケーセギを追撃したが、その最中にイシュトヴァーンは急に苦しみだして、死んでしまった。王妃、ヨアヒム、ケーセギ=ヘンリクは陰謀の絆で結ばれていたらしい。

こうして、権力は王妃とヨアヒム、そしてケーセギ=ヘンリク一党に渡った。だが、事態は簡単には収拾しなかった。この陰謀に、大豪族の一家チャーク家が公然と反旗を翻したのである。チャーク家はケーセギ一党を激しく非難する声明を発表し、自党派を組織すると、1274年再び皇子ラースローを拉致してケーセギ一党を襲った。この戦いでケーセギ=ヘンリクは戦死。1277年には太守ヨアヒムも死んだ。しかしケーセギ=ヘンリクの息子達は追いつめられてもなおよく戦い、一方でチェコ王の助けを求めた。このためチャーク家陣営も、チェコ王と争っているハプスブルク家のルドルフに応援を求めた。ついに、外国を巻き込んだ大争乱へと発展したのである。
戦闘は、かの有名なマルヒフェルトの戦い(1278年)となった。ルドルフ軍には、チェコ王オタカル2世を撃破すべくチャーク家が提供した良馬がそろっており、オタカルの勇名をはせる騎兵部隊をうち破る作戦もあった。激しい戦闘は、当初はチェコ&ケーセギ軍の優勢であったが、後半はルドルフ軍が相手を追いつめ、ついに敗走させた。ハプスブルク家隆盛の基は、ここに築かれたのである。しかし、ハンガリー王国の混迷はなおも続いた。

マルヒフェルトの戦いの前の1277年、ハンガリー王国の内乱状態を憂慮した聖職者達が、中小貴族、一部大貴族、ポロヴェーツ族をペシュト東方にあるラーコシ平原に集めて集会を行った。ここでラースロー4世が「成人に達した」ことが宣言され、身分制議会とともに王国の政治体制の建て直しが国王への忠誠とともに表明された。しかし、この時点では大貴族達の多くはこの会議に参加せず、国王ラースロー4世に対して反旗を翻す者も少なくなかった。

ラースロー4世はイシュトヴァーン王が娶った、ポロヴェーツ族の妃から生まれた子供であった。つまり、母親の系統でポロヴェーツ族の血を引いているのである。(このため「クン・ラースロー」つまり「クマン族のラースロー」と呼ばれた)それゆえか、それとも少年期の彼を相互に拉致して、いいように利用しようとした大貴族達への反感からか、彼は遊牧生活へのあこがれを抱いていた。テントでの生活を喜んだり、ポロヴェーツ語を学んだり、ポロヴェーツ人の風習を身につけたりと、とてもカトリック教国の王とは思われない行動をとった。異教祭儀にも理解を見せ、自らそれに参加することもしばしばであったという。カトリックに背を向けたわけではなかったが、その行動に大貴族達は不安感を抱いた。

とはいえ、理解者もいなかったわけではない。ラースロー4世の神父であったケーザイ=シモンは、中小貴族に基盤を置く王国支配という理想と、過去の偉大なるフン族そしてアッティラへの崇拝心から、ラースロー4世の大貴族への敵視を喜んだ。ラースローも中小貴族との同盟には積極的で、大貴族とそれを支持する教会には公然と反発心を表明していたから、その点での両者の中は悪くはなかった。しかし、ラースローの遊牧民への過剰なあこがれは、時としてケーザイの理解を超えるものであった。同様に中小貴族達も、国王のポロヴェーツ族へののめり込み方は不安でもあった。もっともポロヴェーツ族の幾人かは、ハンガリー貴族との通婚によって正式に貴族となっていたが。

1279年、再び会議が招集されたが、このときまでには公然とラースローに対して反旗を翻していた大貴族は鎮圧されていた。国王軍は中小貴族とポロヴェーツ人からなる強力な軍団を擁して、王国の反乱を根こそぎにしたのである。ところが、このときまでに「国王がポロヴェーツ人のテントに入り浸っている」とか「ポロヴェーツ人は異教徒ゆえ、いつ裏切るかわからん」などといった中傷がばらまかれていた。さらにローマ・カトリック教会は、このときまで不問か、あるいは見て見ぬ振りをしていたポロヴェーツ人への「改宗問題」をいきなり持ち出してきて、「直ちにポロヴェーツ人を改宗させ、定住化させよ」という命令口調の文書を送りつけてきたのである。ラースローはもちろん激怒した。ポロヴェーツ族は、いまや国王軍の主力であった。モンゴル大侵攻以来、草原世界の戦法がハンガリーでも有効なことをしめし、大貴族へのプレッシャーになっているこのポロヴェーツ人たちは、いまだ異教にとどまるとはいえ王にとって絶対に必要な人々だったのである。

この要請をローマ教会からさせたのは、エステゴルムの大司教ロドメールであった。彼は国王とポロヴェーツ族が「近すぎる」と感じ、とくに異教の風習を自由にさせているラースローに怒りを感じていたのである。ロドメールはローマ教会からの手紙を無視した王に対し、今度は「教皇特使」を送りつける。特使には「破門権」があり、これならいうことを聞くだろうと大司教はタカをくくっていたのである。ところが・・・ラースローはこれをも拒絶した。それどころか「破門じゃ!」とわめく使節を、ポロヴェーツ族のまっただ中に連れていって、そこで生活するように強要したのである。彼の意図にしてみれば、「異教がそのように野蛮で神に背くものか、一度生活してみるがいい」という強烈な皮肉でもあり、信念を変えぬという意思の表明でもあったのだろう。教皇特使は震えながら、異教徒のまっただ中で暮らすしかほかになかった。

一方でラースローは、即位と同時に貴族達から押しつけられた王妃(シチリア王の娘エルジェーベトと言われる)を離縁した。彼はポロヴェーツ族の女性、エドゥアを妃に選んだのである。エドゥアとは母方の縁を通じて知り合いだったのだろう。ラースローは、ここで驚くべき事にキリスト教式の結婚式はせず、ポロヴェーツ人の風習にならって式を挙げた。異教で祭式を執り行ったのである。ハンガリー貴族達は、この行為に仰天し、エステゴルムの大司教は激怒した。大貴族達はただちに兵を集め、「ポロヴェーツ(クマン)追討」の旗印のもとに、ポロヴェーツ族と戦端を開いた。国王はポロヴェーツ人の味方であったが、ポロヴェーツ人の勇戦むなしく1280年ホード湖の戦いで敗北した。そしてラースローは貴族達に捕らえられ、エドゥアは強引にその地位を追われたのである。

ポロヴェーツ人の敗北により、ラースローはぎりぎりの選択を迫られる。そしてそのとき彼の脳裏に浮かんだのは、史上最強の悪夢、モンゴル帝国軍であった。


第3章 再来、そして王の死

ここで、少しハンガリーを離れる。モンゴル帝国と当時のバルカン情勢の事である。

モンゴル帝国において、もっとも西方にあったのはジンギスカンの長子ジュチのウルスであった。ジュチはまだ中央アジアの方に本拠を構えているにすぎなかったが、その子バトゥはロシアを攻め、さらに西方へ進撃の足を延ばし、キプチャク(「クマン」「ポロヴェーツ」で呼ばれるところの人々が住んでいた場所)平原を占領した。そして彼はここにバトゥ一党による勢力圏=バトゥ・ウルスを築く。さらに彼は、ポロヴェーツ族の抵抗が激しかったため、その後方にあるロシア諸侯領を攻めたのだが、同時に東欧は彼らの逃げ込み先でもあったため、制圧して追い出す必要があった。

バトゥやスブタイ、そして他のウルスの諸皇子による欧州遠征はオゴタイ=カンの死でうち切られたが、その後も西方に居を構えたバトゥ勢力圏下の遊牧民は、しばしば各地に攻め込んできた。その中でも、とくに有名なのが、ドニエプルとドニエストル川の間に本営をおいたらしいノガイ=カンである。

ノガイ=カンはジュチの子ボアル、その子タタルの子である。ノガイの役目は、当初は敵対している中東のフラグ=ウルスとの戦争の司令官であった。フラグ=ウルスはモンゴル帝国の一部であるが、カフカスの領有権を巡ってバトゥの弟(ベルケ=カン)の代から争奪戦が繰り広げられていたのである。ノガイは数度に渡り敵の攻勢をうち破り、逆に各地に進撃したが、最終的な勝利はつかめずに撤退せざるおえなかった。また、一方で彼はこの戦争を有利に進めるために外交でも活躍し、ビザンツ=ローマ帝国、エジプトのバイバルス政権と同盟を結び、フラグ=ウルスを追いつめた。
ところが、モンゴル帝国を揺るがした東方の大内乱が一呼吸ついたころ、彼の野心は「西方」へ向かう。ビザンツ皇室の娘を娶り、バトゥ=ウルスの実力者に上り詰めた彼にとって、いまや西方進撃はバトゥ以来の栄光を実現しノガイの実力を天下に届かす大計画であった。彼は少年期、西征のモンゴル軍に従った。偉大なるモンゴル帝国の大征服を直接知る世代である。バトゥの血筋は未だ健在であったが、かつての世界征服の覇気を失いつつある帝国西方領土の中で、ノガイはバトゥ=ウルスの目を西方に向けようとした。

当時、バトゥ=ウルスのカンは、ノガイが野心的な策謀を巡らして擁立したトフタ=カンであった。仏教に帰依した人物で、性格は冷静だが、時に火のように激しい感情を現すこともある若いカンである。彼はノガイに擁立されてカンの位についたものの、ノガイが有力者として次第にカンの掣肘を離れていることが気になるようになった。ノガイの権勢は非常に高く、人望も厚かったため、カンは彼を恐れるようになったのである。

一方ノガイは、西方進出のためにその足がかりをバルカン半島に得ようとした。彼はかつて征服したポロヴェーツ族の族長達を自軍陣営に取り込んでいた。そしてそれら族長とともにモラヴィア地域に本営を配置すると、ブルガリア及びバルカン北部地域に攻め込み始めたのである。ところが、そこに意外な人物が立ち現れた。

当時、ブルガリアは第二次帝国時代である。ハンガリー出身の后妃アンナ・マリアから生まれたコロマンが年少でイヴァン=アセンの帝位を継いだが、モンゴル軍侵攻でブルガリア帝国も大損害をうけ、さらにバトゥ=ウルスへの貢納を余儀なくされていた。しかし、そんな中でも政争は起こり、コロマンはイヴァン=アセン故帝の妻イレネによって殺されて、イレネの子ミハイル2世が幼少ながら帝位についた。一方、十字軍に帝都を奪われたビザンツ帝国復興を掲げるニカイア帝国はブルガリアから幾つかの都市を奪い、帝国を追いつめた。またハンガリーもベオグラードと ブラニチェヴォ州を奪ってロシア諸侯の一人、ロスチスラフ・ミハイロヴィチにその統治権を委ねる。

やがて帝位を巡る内紛が起こり、スコピエのコンスタン=ティフがブルガリア皇帝となる。ティフはニカイア帝国の皇帝テオドロス2世ラスカリスの皇女イレネと結婚し、ハンガリーに立ち向かおうとしたが、ハンガリー軍は怒濤の勢いで攻め込んできたため、和平を望むしかなかった。さらに1261年には、ミハエル=パレオロゴスが帝都を奪還。再興なったビザンツ帝国と、ブルガリア帝国は事を構えることとなる。ブルガリアはナポリ王国のアンジュー家のシャルルと手を組んでラテン帝国を復興しようとしたが、これは失敗した。

この大混乱の中で、ハンガリーに攻め込まれたときハンガリー王に臣従を余儀なくされたヤコブ=スヴャトスラフというロシア系ブルガリア帝国貴族がいた。彼は1272年までにハンガリー王の支配下を離れ、ヴィディンを拠点として「ブルガリア皇帝」を自称。1277年にティフの皇后マリアに殺されるまで「皇帝」と称した。

この自称皇帝とティフの戦いの最中に、ノガイ軍はバルカン地方に進撃してきたのである。ビザンツ帝国はすでに懐柔されており、内乱で帝国各地方は疲弊していた。モンゴル軍と戦うことは至難の業と思われたのだが・・・・ここに奇跡のような人物が現れた。豚飼いイバイロである。イバイロは貧しい豚飼いであり、自分の豚さえもっておらず、雇われて豚を飼育していた。が、彼はある日「神の啓示を受けた」として人々を集め、1277年に蜂起。ドナウ河畔の戦いで、なんとモンゴル軍を撃破してしまうのである。寄せ集めの農民だらけの軍団が、無敵のモンゴル軍を撃破したのだ。人々は「神の啓示」を信じて次々と蜂起。モンゴル軍侵攻に対しなにもできず、しないティフ皇帝に対して人々の怒りは向けられた。このためイバイロは帝都タルノヴォ目指して進撃。途中皇帝ティフの軍勢を破り、皇帝を殺してなおも進撃を続け、1278年にはタルノヴォを包囲した。

一方、ノガイはビザンツと連絡を取り、ブルガリアの思わぬ抵抗を排除すべく考えていた。そこでビザンツ帝国は、イヴァン=アセン3世をブルガリア皇帝にして、イバイロ軍を撃破することにして、介入軍をブルガリアに派遣した。これに対しイバイロは、先帝の妻マリアと結婚してタルノヴォの政府と妥協し、なんと正式に帝位についてしまった。豚飼いが、豚飼いのまま帝位についたのである。貴族達もぶつぶついいながら彼に忠誠を誓ったが、当然内心は反抗心だらけであった。実はこの和平は、ビザンツの父皇帝と宗教問題で対立していたマリア皇后の思惑が強く影響していたのである。ビザンツ軍はイバイロ軍によって破られた。

イバイロはその後、再び侵攻を企てたモンゴル軍と戦うために出陣したが、この留守中にクーデターが勃発。例のイヴァン=アセンが帝位についたが、イバイロ軍は一時的にピンチにたちこそすれ、逆に貴族軍をうち破り、タルノヴォを包囲した。イヴァン=アセンはビザンツに逃亡し、この件は一件落着かとおもいきや、今度はゲオルギ=テルテルという人物が貴族達に推戴されて帝位についた。テルテルは貴族であり、その点で皇帝には申し分なかった。貴族層はこれで一致団結することができ、イバイロは追い込まれる。そしてイバイロは、窮余のあまりなんとバトゥ=ウルスに亡命するのである。当時、ノガイとトクタ=カンの仲違いがどこまで知られていたのかはわからないが、ノガイの事をカンがよく思っていないのなら、自分は助かると思ったのだろうか。結局、彼はノガイの命令で毒殺された。

1285年、ノガイはブルガリアに侵攻。ゲオルギ=テルテル皇帝はノガイに対して娘を差し出すこととなった。しかしこれは小手調べにすぎず、ノガイはすぐにさらに大規模な大軍を送って今度はブルガリア帝国全土を制圧した。テルテルはもはや帝位にとどまれず、コンスタンティノープルに逃亡した。(ただし、ノガイとテルテルはビザンツを挟んで通じていたようでもある。)

ここで再びハンガリーに戻る。

ラースロー4世に残された道は少なかった。彼は、ひそかに使節をモンゴルに派遣し、その援軍を仰ごうとした。このとき、西方政策でフリーハンド状態だったノガイはこれに応じ、軍勢を召集してハンガリーへ進めさせた。「王国の主たる者に背く輩は、滅びるがよい」という言葉そのままに、1285年モンゴル軍は再びハンガリーを襲撃し各地の城塞を破壊した。恐怖におびえた貴族軍はまもともにこれに立ち向かうことができず、モンゴル軍は再び幾多の勝利を重ね凱旋したのである。この破壊の後に、ラースローには、もはやポロヴェーツ族しか味方はなかった。高まる国王への憎悪の中、エステゴルムのロドメール大司教は、「異教国王に対する十字軍」を宣言するためにローマ教会に許可を求める。

唯一、ラースローにとって救いだったのはエドゥアが戻ってきたことだった。エドゥアはラースローの元に戻り、今度は正式に「王妃」として擁立され、貴族達から押しつけられた妻は修道院に送り込まれた。ラースローは宮廷にムスリムやモンゴル人を招き入れ、もはやローマ・カトリックなどに興味などないかのようであった。しかし、彼は決してキリスト教を「棄教」していたわけではなかった。母親から受け継ぎ、慣れしたんしんだ異教文化に敬意を持って接していたにすぎないのである。

だが、もはや彼の事を「使徒王国ハンガリー」の王と考える者は少なくなっていた。農民達の憎悪も国王に向いていた。ポロヴェーツ人たちとの仲の悪さは、むしろ農民との間で激しさを増していたのである。ロドメール大司教はローマ教会より「破門宣告」をもらい、あわせて「国王に対する十字軍」という前代未聞の行為について許可を得た。そしてそれが実行される直前・・・ラースロー4世は大貴族達が雇ったポロヴェーツ人によって殺された。暗殺されたのである。エドゥア王妃は狂気のように泣き叫び、大貴族達を罵ったが、すべては終わっていた。若き王は、父や祖父たちが苦悩したのと同じ闇の中に、飲み込まれていったのである。

王の葬儀は、そらぞらしく行われた。自らがそそのかして殺した王の遺体の側で、貴族達は次の王はもっと操りやすいものにしようと笑っていた・・・・・・・・・・。


終章  エピローグ

ラースロー4世の死は、ノガイにも届いた。とはいえ、ノガイはもはや西方の出来事に気を取られている場合ではなかった。当時、ノガイはブルガリアの完全平定と、トフタ=カンの異常な動きに忙殺され、西方への進出を一時中断されていたのである。そしてトフタ=カンが、かつてノガイに殺されたトロブガの遺児二人の「仇討ち」要求を受け、ノガイに対して詰問の使者を差し向けるという思い切った行為に出ていた。トフタは、これを機会にウルスを牛耳るノガイをのぞこうと考えていたのである。そしてノガイもこれに反応し、軍勢を召集していた。
1297年、トフタ=カンとノガイはヤサ河のほとりで決戦に及ぶ。このときは、手練れのポロヴェーツ騎兵を主力に攻めに転じたノガイ軍が勝利を納め、トフタ=カンは単身やっとのことで戦場を逃れた。

この勝利により、ノガイの覇権は揺るぎ無いものと思われた。ノガイは軍勢を豊穣なクリミア半島に向けたが、これはヴェネツィア商人達がノガイに協力をもうしでて、クリミア半島における利権を期待したからであり、司令官はノガイの女婿アクダンであった。当初は、大軍ゆえに話し合いでケリがつくだろうと考えていたノガイだったが、クリミアのカッファ市ジェノヴァ人たちは決戦の覚悟を固めており、話し合いに来たアクダンを計略で殺してしまった。激高したノガイは、全軍を上げてクリミアに攻め込み、クリミアの各都市を荒廃させたが、これは逃亡していたトクタには貴重な時間であった。

ノガイ軍はクリミアで勝利を収めたが、トクタはあちこちで手を回して自陣営の再建に懸命になっていた。そしてその間に、ノガイの3人の息子達と、その配下の将軍達との間で争いが起こってしまう。マジ、スドン、ウトラジ、アクブグ、タイタという諸将と3万の騎兵が、ノガイの息子ジェケ、テケ、トゥライと仲違いするのである。この結果は、重大であった。諸将は、トクタの方へ寝返ってしまったのである。ノガイは自身の馬鹿息子どもを罵ったが、後の祭りであった。ノガイ自身の声望は高くても、その「親の七光り」に生きる息子達は勝手気ままであり、その壮大な意図など理解できなかったのである。

トフタとの2度目の決戦は、カガムリイク川のそばで行われた。ノガイ軍は数が減り、トフタの陣営は先の戦の復讐にもえ、数も増えていた。ノガイは激烈に戦ったが、戦況が圧倒的に不利であることを悟ると、再びトフタ軍の中につっこみ・・・・そして2度と戻らなかった。ノガイを奉じる将軍達の多くもトフタ軍の中に散った。逃げ出して、生き延びたのはノガイの息子達だけである。そしてトフタはこの勝利により単独でバトゥ=ウルスの支配者となったが、モンゴル帝国の世界征服の夢は完全に消えた。


追記

1.ノガイの3人の息子のうち、1289年ノガイによってブルガリア皇帝にさせられたスミレスの関係で、ゲオルギ・テルテル(=タタール)の子スヴェトスラフはジェケを「皇帝」に推戴しました。しかし、ノガイ勢力の崩壊により、スヴェトスラフはジェケを殺害し、トフタ=カンの了解を得て帝位につきました。ブルガリア帝国は、これにより体制を立て直し、なおもその歴史を続けます。

2.ケーセギ=ヘンリク一門は、あんなことを引き起こしておいて滅びず、トランシルバニアの領主だったらしいのですが詳細ははっきりしません。同名の人物は、アールパード王朝最後の王アンドラーシュ3世亡き後の混乱期に再び破門されています。相変わらず、破天荒な野心家一族です。

3.チャーク家一門も後に破門されましたが、どうも全然応えていなかったようです。「俺は酋長〜王なんて知らぬ〜」と惚けております(笑)教皇特使は「ハンガリーにはキリスト教徒はおらぬ」と破門が効かないので激怒していました。

4.ノガイの一族は、この敗北の後、全員が(後にトフタに一掃される馬鹿息子どもの家臣とかも含めて)奴隷として売り飛ばされるという過酷な運命となりました。ところが、この大敗北より約1世紀後、中央アジアのチムールのもとに一人の青年が駆けつけます。彼こそ、後に「大ノガイ」と呼ばれる一大勢力を北方に築くことなる人物、エディゲイでした。ただし、彼はノガイの直接末裔ではなく、マンギト族の出身だったようです。


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