Chapter 4 〜 栄光の手


(91p〜p94)マオンから出航する商船団の護衛にブリセイス号、ギャニミード号、レインボー号の3隻をつけたので、次の寄港地マルタへと出発した時、ジャックの艦隊はサプライズ号、ポモーヌ号、リングル号の3隻に縮小していた。

いつの間にやら、3隻きりになってしまったジャックの艦隊。幸運のお守りが割れてしまった話が、サプライズ号はもとよりポモーヌ号やリングル号にも広まり、艦隊はなんとなく、しょんぼりした雰囲気でマオンを出航したのでした。

他の艦の人々は、もともと、そんなものがあると知っていたわけではないのに、「貴重なものが壊れてしまった」という話を聞くと、それだけでなんとなくがっくりきてしまったりするのですね。

面白いと思ったのは、スティーブンの昔からのシップメイトたち、ボンデンやジョー・プライスは、ダイアナが死んだ時には特にお悔やみを言いに来たりしなかったのですが(何て言ったらいいかわからないし、それに「立場ではない」から)、ドクターの一角獣の角が割れた後には、「まったく、お気の毒なこってした」と、心のこもったお悔やみを言いに来たということです。表向きは角のことでも、本当は両方のお悔やみを兼ねているのかも。

しかしほどなく、もう一方の「幸運のお守り」にも災難がふりかかるのでした。

(p94〜p97)マオンで乗り組んだ海兵隊の隊長ホブデンは、「ネーズビー」という名の大きな黄色い犬を飼っていた。人懐こい犬でみんなに可愛がられ、すぐに喫煙所の仲間に加わるようになる。

ある日、ドクターたちがアルコール漬けで保存していた「栄光の手」のアルコールが盗み飲みされてしまい、腐ってきたので甲板に干していると、なくなってしまう。現場には少量の血と、犬の足跡がついていた。

喫煙所にいたネーズビーのところへ、スティーブンがホブデンを連れてやって来て、犬の前足に傷がついているのを見せて「これが証拠だ」と言う。ネーズビーは正直者なので、耳とシッポをだらりと下げて全身で「有罪」を表す。スティーブンが「強力な下剤か手術で、手遅れになる前に『手』を取り戻さなければならない」と言うと、ホブデンは怒って「そこらに置いていた方が悪い、私の犬には手を触れさせないぞ、この実利主義の卑怯者(pragmatical bastard)め」と、スティーブンには絶対言ってはいけない一言を言ってしまう。

「その言葉を撤回なさるおつもりはありませんね?」「死ぬまで撤回しない。」スティーブンは二等海尉のソマーズに介添人を依頼する。


2巻でジャックと決闘になりかけた時もそうでしたが、"bastard"(「卑怯者」ぐらいの意味の罵言ですが、元の意味は「私生児」)と呼ばれると、まるで条件反射のように決闘を申し込んでしまうスティーブン。ちょっとアレ、"chicken"(腰抜け)と呼ばれると必ずキレてケンカしてしまう「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公を思い出したりします。

でも、この時はホブデン隊長が「死ぬまで撤回しない」と言ったら、なぜか「にっこり笑って」出て行った、とあるので、スティーブンが本気で怒っていたとは思えないのでした。久々に決闘するのが嬉しかったのかしら?本当に決闘までゆくとは思っていなかったのか?それとも、決闘しても大事(どちらかが死ぬとか、大怪我とか)には至らないという自信があったのか。ちょと謎ですが。

「手」を盗み食いしちゃったネーズビー、ちょっと意地汚い犬ですが、スティーブンに証拠をつきつけられて、全身で自白してしまうあたりはかわいいです。飼い主は往生際がわるいけど。

(p97〜p100)艦隊司令官のところへハーディング副長が来て、ドクターがホブデンに決闘を申し込んだことを話す。「お話したのは、乗員たちが動揺しているからです。船乗りというのは老女のように迷信深いので…例の角と同じぐらい、『栄光の手』が幸運をもたらすと信じているのです。」ジャックはすぐにホブデンを呼び出す。

「ホブデン大尉、何があったか聞いた。すぐに君の侮辱を撤回し、ドクターに『手』を回収させるか、さもなくばマルタで艦を降りてもらう。誰でも一瞬の怒りにかられて侮辱の言葉を吐いてしまう事はあるが、まともな人間なら後で撤回するものだ。直接言いにくいなら、手紙を書きたまえ。ここに紙とペンがある。」ホブデンはすっかり観念して、犬をドクターのところへ連れて行って謝罪の手紙を渡す。ドクターは「ありがとうございます。ネーズビーのことはご心配なく。傷つけたりしませんよ。」と言う。

医者たちは犬に強力な下剤をかける。手はすでに消化されてしまっていたが、骨はほぼ完全な形で出てくる。骨はきれいに洗われ、元通りに組み立てられて、ガラスケースに入れられ、乗員たちが列をなして見学にくる。みんなは「これほど栄光に満ちた手は見たことがない」と話し、サプライズ号の気分は明るくなる。


まるでアレ、聖遺物(中世の教会で呼び物になっていた聖人の骨とか)のような扱いですなあ。腐りかけの筋肉と腱がネーズビーの腹で消化され、きれいに骨だけになったことで、ますますエンギものらしさを増したようです。…この骨がどこを辿ってきたのか考えると、ちょっとアレですが(笑)。

骨だけになってしまったら、もう解剖用標本としては役に立たないので、スティーブンが手の回収にこだわったのは自分のためではなくて、縁起かつぎの乗員たちの気持ちに配慮してのことだったのですね。決闘申し込みは、ちょっと人騒がせでしたが。

(100p〜108p)その夕方、二隻の船が目撃される。軍艦のようで、白旗を上げている。ジャックは白旗を信用していないので、夜明けに風上に回りこめるように操船する。

その夜、スティーブンはクリスティーン・ウッドと霊長類の骨を組み立てている夢を見るが、砲声に起こされる。しかしそれは戦闘ではなく、礼砲の交換だった。キリックがまだ寝ぼけている彼の髭をそり、きれいな服を着せて甲板に連れて行く。ジャックが「おはよう、ドクター。ほら、素晴らしい眺めだろう。彼を憶えているかい?」と指差した先には、フリゲート艦とコルベット艦がブルボン王家の白い旗を上げて停まっていて、バージでこちらへ向かっているのはフランス軍のクリスティ=パリエール艦長だった。

フリゲート艦はクリスティ=パリエールのカロリン号で、彼は再開戦からまもなく、国王ルイ18世に対する支持を表明してナポレオン軍を離脱したのだった。ジャックとスティーブンと彼は心のこもった挨拶を交わす。「あなた方が味方に加わって下さるのは、まことに頼もしい限りです。地中海はひどく戦力不足ですので…」「仲介をお願いできますか?」「もちろんです。」


フランス軍のクリスティ=パリエール艦長は、1巻の終盤でソフィー号を拿捕し、2巻の短い和平の時はフランスに行ったジャックとスティーブンに、二人が後で折に触れて「あの時の食事は美味しかった」と思い出すほど美味しいフランス料理をおごってくれた艦長です。彼とジャックの間には敵味方を超えた友情が存在していたのですが…ついに正式に味方になってしまいました。

クリスティ=パリエール艦長はもともと英国に親戚がいたりして縁が深く、そのせいか元々「ナポレオン派には警戒の目で見られていた」そうです。そういえば、ジャックがアジアで偶然会った彼の甥のピエールも「伯父はパリでデスクワークに回されてくさっている」と言っていましたね(13巻)。まあ、そういう伏線もあって、ついに王党派を表明したのでしょう。

この巻は、1巻からの懐かしい登場人物の再登場が多くて、ちょっと「一周して戻ってきた」感があります。

(108p〜113p)その日は日曜だったので総員点呼が行われ、クリスティ=パリエール艦長とその秘書のリシャール氏は艦隊司令官の艦内巡回を見学する。リシャールは英語が話せないので、スティーブンが通訳として一緒に艦を回る。

巡回の間、スティーブンは大勢の昔からのシップメイトからニコニコと挨拶される。その後、艦長室でクリスティ=パリエールとジャックと話す間、スティーブンとリシャール秘書はガンルームのディナーに出席する。


ここで、お馴染みのシップメイトと彼らの善意に溢れたこのサプライズ号を、スティーブンは「自分の村」と呼びます。久しぶりに、いっぺんに大勢のシップメイトと言葉を交わしたことで(普段は患者になった時しか話さない人が多いし、いつもの点呼の艦長巡回の時は彼はシックバースに待機しているので)、彼はいつになく幸せな気分になりました。もちろん、そのすぐ下には暗い、荒涼とした気持ちが広がっているのだけど、その二つは同時に存在しうるのだと。

スティーブンは、いわゆる「帰属意識」とはおよそ世の中で一番縁の遠いタイプだと思っていましたが…海軍に入って15年、彼もこんなことを思うようになったんだなあ。

でも、スティーブンと彼のシップメイトとの関係は、本物の村みたいな普通の帰属意識とはちょっと種類が違う気がします。もしこれが本当の「村」で、スティーブンがそこのお医者さんだったりしたら…彼はこんなにほんわか温かい気持ちにはならず、かえって息苦しさを感じそうな気がするし。

あと、普通の軍艦と違ってサプライズの仲間には、シェルマーストン出身の元密輸船・私掠船乗りがかなりの数混じっているので、海軍全般よりいくぶん自由な、独特の雰囲気があるのかもしれません。

ガンルームのディナーのシーンで、「幸せな気分は続いていた、それには一部には(リシャールのために)フランス語で話していることも関係していた」という記述があるのが興味深い。フランス語は、スティーブンが「若く、恋愛に情熱的で、政治にも熱狂的だったパリ時代」に使っていた言語だから、だそうです。スティーブンにも恋愛に情熱的な時代があったとは驚きです。(いや待て…考えてみれば、スティーブンはある意味ずーっと恋愛には情熱的だったかな…)

もちろん、フランス革命の頃の二十歳前後のスティーブンに対する言及は、どんなに短くても喜んでしまう私です。「びっくりするほど老けた二十歳」だったんじゃないかなー、とか、失礼な想像をしたことがあるのですが…「恋愛に情熱的(amorous)」だったってことは、意外とモテたのかも。いやまさか。

まあ、それはともかく、ある時代に使っていた言語を使うと、その時の気分が蘇ってくるというのが面白いと思いました。私はそういう経験がないので(ずっと日本語だから)、どんな感じかなーと、想像してしまいました。

(113p〜121p)クリスティ=パリエール艦長がカロリン号で去ると、ジャックはスティーブンに彼の話を伝える。

相次ぐ政変に、フランス海軍本部は混乱状態で、アドリア海にいたクリスティ=パリエールの艦はほったらかしで、装備も修理もできない状態だった。アドリア海ではナポレオン派も王党派(連合軍側)もいるが、ほとんどは日和見を決め込んでいる。その中で、ラグサ・ベッキオ(アドリア海東岸、現モンテネグロ)という港にいるフリゲート艦は、熱心なナポレオン派の艦長が指揮していてる。また、クリスティ=パリエールもイスラム教徒傭兵のロシア・オーストリア軍妨害作戦の噂を聞いていた。

スティーブンは、傭兵の話は海軍省も掴んでいて、実はドクター・ジェイコブが乗艦しているのはそのためだとジャックに話し、リングル号でジェイコブをクタリに派遣して、サイアハン・ベイを始めとする当地の友人たちから情報を集めさせることを提案する。ジェイコブはスティーブンが書いた手紙を持ってクタリへ向かう。

その後、サプライズ号とポモーヌ号はアドリア海に到着。ジャックはまずラグサ・ベッキオのナポレオン派フリゲート艦をなんとかしようと、カッターを商船に偽装して偵察に行かせる。そのフリゲート艦アルダン号は、もう出航準備を整えていることが分かる。


アドリア海とイオニア海はお隣ということで、出ました、クタリ!まあ、今回はジャックとスティーブンは行かないので、名前が出るだけで直接は出てこないのですが、8巻と並行して読んでいるのでなんとなく嬉しかったです。やはり8巻の一件で、クタリの人々はジャックたちに恩義を感じているのですねえ。しみじみ。