Chapter 6-1 〜 ジャワ総督ラッフルズ


ディアンヌ号、ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)に入港。総督のラッフルズに紹介され夕食に招かれる

スティーブンが予想していた通り、海の上では冴えなかったフォックスはジャワについたとたんに本来の自分を取り戻し、生気に満ちて、ずっと付き合いやすい相手に変身しました。バタヴィアに上陸したジャックとスティーブンはフォックスからジャワ総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズ氏に紹介されました。

ラッフルズは「名高い亀、テストゥード・アウブレイの発見者とその名付け親を、同時に我が家にお迎えできるとは。これほど光栄なことありません」と、感じよく二人を歓迎しました。ジャックとスティーブンはラッフルズの広い知識と素晴らしい人柄にたちまち魅了され、ラッフルズがフォックスを高く評価しているらしいのを見て、二人のフォックスに対する評価もぐんと上昇したほど。

さて、このラッフルズ氏ですが…とにかく、調べれば調べるほどすごい人です。このシリーズに登場する全てのキャラクターの中で、あらゆる意味でスティーブンより凄い人がいるとすれば、それはこのラッフルズさんでしょう。こんな人が実在したのだから、「スティーブン・マチュリンのキャラは出来すぎだ、現実にあんな人はいない」なんてことはないのです、きっと。

4章でリンクした日本語版のウィキペディアは英語版をずいぶんカットしてあるようですね。(英語版はここ)ここを読んだだけでも、彼の凄さが分かります。1781年、貿易商の息子として船の上で誕生。父が事業に失敗し、14歳で家族を養うために一介の書記として東インド会社に入社。働きながら独学し、24歳で会社のペナン(マレーシア)の事務長に出世しました。

ナポレオン戦争でオランダがフランスに併合されたので、英国はフランスにアジア通商路を開かせないため1811年にオランダ領ジャワに侵攻し占領。ラッフルズはマレー語や地元の知識・コネを買われて30歳の若さでジャワ総督代理に就任。その後すぐスマトラ総督にも就任しました。ここに登場するのは、その2年後なのですが…

彼はジャワ・スマトラ総督として、オランダのまずい植民地経営によって荒廃していた農村に農地改革を施して蘇らせ、奴隷貿易を廃止させ、部分的な自治政府を創設。1815年にナポレオン戦争が終わり、英国がオランダにジャワを返還すると同時に英国に帰国しますが(彼の改革が「やりすぎ」だと感じた本国が呼び戻したという説もあり)、1817年にナイトの称号を受けて「サー・トーマス」になった後、1818年に再びスマトラへ戻り、マレー半島の先端に自由貿易港を設立。これが後にシンガポールとなりました。

以上のように、政治家としては時代に先駆けたビジョンと手腕を持ち、地域の近代化に貢献し(植民地の総督としてとはいえ)、それどころか一つの国の創始者になってしまったラッフルズですが、凄いのは、博物学者としても、考古学者としても、それだけでも歴史に名を残す存在であったという点です。

博物学者としては世界最大の花を発見してその名(ラフレシア)の元になり、後に世界初の動物園となったロンドン動物学協会&研究園を創立し、考古学者としてはジャワのボロブドール遺跡を始めとするいくつもの古代遺跡を復元し、「ジャワの歴史」というこの地域初の歴史書を著し…ビジネスマン、エコノミスト、政治家、博物学者、考古学者として全ての分野で偉業を成し遂げた、「出来ないことはあるんか」と言いたくなるほどの天才でした。

この時のラッフルズは32歳、ジャックやスティーブンよりひとまわり年下の筈ですが、それでもこれほどの人物なら、二人が心酔するのも無理はない。おまけにこの章では、ジャックとスティーブンを招いた夕食に「ツバメの巣のスープ」を出すほどのグルメでもあり、ジャックの専門用語だらけの航海の話にも軽くついてゆき、「私は船の上で生まれたのですから」とにっこりするほどの優秀な船乗り(?)でもあることが判明してます。

ラッフルズは「私のコレクションを正当に評価してくれるお客を迎えるのはめったにないことですから」と、忙しい時間を割いて、膨大な熱帯植物の数々、大規模な私設鳥類園などを案内してくれました。スティーブンはロンドンに「動物学協会と研究園」を作るという彼の計画(この時点ではまだ構想段階)に全面的な協力を約束し、友人のオランダ人解剖学者ヴァン・ブーレンについて訊ねました。

「確かに彼はプロ・プラバンにいますが、それはわが国がジャワを占領してオランダを追い出したためではありません。彼は我々に劣らずナポレオンを嫌っていますし…ひとつには、あの辺りの出身であるマレー人の奥さんのため、もうひとつは、プロ・プラバンに生息するオランウータンとテナガザルのためです。よろしければ、彼に紹介状を書きましょうか?」「いいえ…総督であるあなたに紹介状を頂いたら、『友人と旅行しているただの博物学者』という私の立場が損なわれるかもしれません。」

「それより、信頼できる銀行家で、プロ・プラバンに取引のある人を紹介して頂けませんか?買収のために莫大な金が必要になるかもしれませんが、身に付けて行くより当地で引き出せた方がいいので…それに、現地で商売している人はいろいろと貴重な情報を持っている。情報を流してもらうには信用が必要です。ここで信用を得るには、あなたのご紹介以上のものはないでしょうから。」「お褒めいただき、ありがとうございます。…しかし、たしかにその通りです。シャオ=イェンという中国人になりますが…ここで銀行業を取り仕切っているのはほとんどが中国人なので…よろしいですか?」「もちろん。」「優秀な中国商人には、ジョン・カンパニー(東インド会社)も到底敵いませんよ。」

「フランスの使節団については何かご存知ですか?」「詳しくは分かりません。全権公使はデュプレー、他に随行員が数人、それに例の悪名高いカップルです。数日前にプロ・プラバンに到着しましたが、サルタンは狩に出ているので、まだ謁見はしていない筈です。」

「悪名高いカップル」とはレッドワードとレイのことですが、やっぱり「カップル」だということは知れ渡っているのか。それとも、単に「二人組」という意味で言ったのかな?

ディアンヌ号、バタヴィアで随行員を乗せてプロ・プラバンへ出航する

翌朝、ラッフルズからシャオ=イェンに紹介してもらって商談を締結したスティーブンは、ラッフルズの温室で植物や鳥やテナガザルを堪能して気持ちのいい午前を過ごしました。しかし午餐では、使節団に加わるという信じられないほど退屈な役人たちと付き合わされ、心の底からうんざり。

フォックスは、「あんな連中でも、正式の場で正装して威儀を正していることだけは得意なのです。とにかく、フランスに対抗するには随行員の数も合わせないとならないので…」と言いました。「この同盟を首尾よく締結できれば貴族位、いや、男爵位も夢ではないのです。そうなれば、母が喜ぶでしょう。」

今まで有能なわりにあまり官職に恵まれなかったフォックスが、この任務にちょっと過剰なほど熱心なことは、スティーブンも以前から感じていましたが、この言葉に、彼がまさにこの同盟に命を賭けていることを確信したのでした。

さて、ジャックはプロ・プラバンに出航する前に、ぜひラッフルズ総督を招待したいと思いました。ラッフルズは喜んで招待を受け、ディアンヌ号の13発の礼砲に迎えられました。彼はジャックにディアンヌ号の艦内を案内してもらい、感謝して帰って行きました。船のことをよく知っている上に申し分なく礼儀正しい彼を、「艦に来る賓客がみんなあんなだったらいいのに」と賞賛しました。

というわけでプロ・プラバン島に向けてバタヴィアを出航したディアンヌ号。浅瀬の多いやっかいな南シナ海を、東インド会社のマフィット艦長(3巻)に譲ってもらった海図を頼りにそろそろと進むのですが、ジャックにはもうひとつ頭の痛い問題がありました。

バタヴィアで乗艦した三人の随行員、水兵たちに「Old Buggers」とあだ名をつけられる

ジャックが言っていた通り、艦に賓客として来る役人がラッフルズのような人であることはめったになく、特にバタヴィアで使節団に加わった三人の高級官僚は、たちまちディアンヌ号の全員に嫌われることになりました。

彼らはまずスティーブンに、「音楽がうるさくて夜眠れないので、あなたから艦長に言って欲しい」と言ってきました。スティーブンが「私は艦長の客なので、そんなことを言う立場にない」ときっぱり答えると、怒って「それでは直接言います」と言うのですが…やっぱり艦長は怖いのか、直接は言えないのでした。

そういうわけでジャックがこの件について知ったのは、「音楽についてしつこく文句を言ってくる、あの馬鹿じじいども」(Those Old Buggers)について、キリックがボンデンに愚痴っているのを小耳にはさんだせいでした。

気を遣ったジャックはフォックスを呼んで、「音楽がうるさいとは気づかなかった、以後気をつけます」と謝るのですが、フォックスは「私は音楽が全然わかりませんが、寝るときは耳栓をしていますのでご心配には及びません。あの三人のことなら、あなたのご親切もご苦労もちっとも理解しないほどの馬鹿どもですから、放っておいていただいて結構ですよ。」と笑うのでした。冷たい関係だと思っていたフォックスの親切な反応は、ジャックにはとても意外だったのですが、それだけに嬉しく感じました。

この三人の役人は、水兵たちにも(ときどき作者にも)まとめて"The Old Buggers"と呼ばれているのでした(笑)。"bugger"の意味については辞書を引いてほしいのですが、日本人としては「バガー」の発音があまりに「バカ」に近いので、また意味的にも間違ってはいないので、つい「三馬鹿大将」とか訳したくなりますな。

Old Buggersは、直接艦長に文句を言う勇気はないのですが(やっぱりジャックは艦上では恐いらしい)、そのぶん副長や士官候補生たちを困らせているのでした。砲撃訓練の時に全員の荷物を船倉に移すのに文句を言ったり、荷物が「正確な位置に戻されていない」とか、夕方に水兵たちが歌と踊りで過酷な労働の気晴らしをするのが「うるさい」とか、自分たちの召使たちが厨房を手伝わされるのが気に入らないとか…

しかし、ある日ディアンヌ号は小さなボート二艘に分乗した地元の海賊に襲われそうになりました。もっとも、相手が軍艦に偽装した商船ではなく本物の軍艦だと気づいた海賊たちは、早々に退散したのですが…

それ以来、なぜか三馬鹿大将はおとなしくなりました。この航海がどれほど大変なものなのか、ようやく気づいたようです。それでも、航海が終わって彼らがディアンヌ号から降りた時、ジャックは心から嬉しく思ったものでした。

ディアンヌ号、プロ・プラバン島へ到着する

プロ・プラバンは大きな火山と、火山跡の巨大なクレーターのある島でした。ディアンヌが入港すると、礼砲の交換に続いてすぐに使者を乗せたボートが出てきました。