Chapter 7-2 〜 サンクチュアリ(聖域)


スティーブン、オランウータンと共に階段を登る

こちらに気づいたら逃げてしまうと思って、スティーブンはオランウータンを望遠鏡で観察しながら、距離をとったまま進みました。こんなチャンスは千年に一度かもしれないので、逃したくなかったのです。

六百段。オランウータンは足を痛めているらしく、どんどんペースが遅くなりますが、スティーブンも脚が爆発しそうでした。階段は真直ぐではなく、時々曲がって先が見えなくなっている所があるのですが−頂上近くの曲がり角の一つを曲がると、そこにオランウータンが休んでいました。

スティーブンは驚き、狼狽して、とりあえず「神が君と共にありますように、お猿さん」と、アイルランド語で挨拶しました。(なぜか、他の言語よりふさわしいような気がしたので。)彼女は(メスでした)悲しそうで、ひどく疲れているように見えましたが、敵意は感じられませんでした。その時、上空に一羽のハヤブサが見え、スティーブンと彼女はハヤブサが飛び去るのを一緒に見送りました。

彼女は立ち上がり、またゆっくり歩きだしました。スティーブンはその後ろをついて行きながら、彼女の動きを観察し、足腰に比べて肩と腕の筋肉が発達していることに気づきました。歩くより、木から木へ伝って動くのに適しているのだろう。

二人がようやくクレーターの頂についた時、彼女は振り返って、うれしそうにスティーブンを見ました。

スティーブン、寺院につく。僧が迎える

スティーブンは頂上で脚を休めながら、クレーターの内部を眺めました。それは直径何マイルもある巨大なクレーターで、真中あたりに湖が見えます。内側は外側に比べてずっとなだらかで、小道があり、その両側にはずっと上の方まで林が茂っています。下に寺院が見え、煙が上がっていました。オランウータンは道をそれて林に入り、木を伝って降りて行きました。

スティーブンが寺院に着いたのは夕暮れ時でした。

サフラン色の古い僧衣を着た僧侶が来て、挨拶して、「お茶でもいかがですか」と聞きました。スティーブンが彼について行くと、あのオランウータンが擦りむけた足を手当てしてもらっていました。僧は彼女に「ムオン、ちゃんとご挨拶しなさい」と声をかけました。「私はムオンと一緒に千階段を上ってきたのです。」「ドリアンの所まで行っていたのですか?足を痛めるのも無理はない。」

スティーブンはアナンダ(この僧の名前)とムオンと三人でお茶を飲みました。ムオンは僧に懐いているようです。「あんなに遠くまで行くには、ムオンはもう年をとりすぎているのです。ドリアン目当てではなく、あそこに好きなオスがいるのです。しかし、その若いオスは彼女のような年寄りを相手にしないので、いつも心破れて、疲れて帰ってくるのです。ここにも親戚のオランウータンがたくさんいるのですが…彼女が好きなのは下のあのオスだけなんです。ムオンは小さいときに母親を亡くして、私が羊の乳で育てたのです。」

その後、アナンダはスティーブンにブラウンライスとドリアンの夕食を出してくれて、「今夜はどこで寝ます?」と聞きました。会って以来、これがアナンダが最初に訊いた個人的質問でした。「上に巡礼者用の部屋があるのですが、長いこと使っていないのでコウモリが住み着いています。下はヘビやヤマアラシが来るのですが…」スティーブンは、ムオンが寝る所ならそこでかまわない、と答えました。

なんか、凄いな、いいなと思うのは…巡礼者すらめったに来ないらしい所へ、見知らぬ外国人がいきなりふらりとやって来たのに、「誰か」とも「どこから何しに来たか」とも訊かず、訊くのは「お茶はいかがですか」「どこで寝ますか」…まるで、毎日遊びに来ている近所の友達を迎えているみたい。

それと、若いオトコに冷たくされている純情オバサン、ムオンに思わず感情移入してしまいました。かわいそう…

スティーブン、寺院の庭で寝る

というわけで寺院の庭先で寝たスティーブンですが、それはまるでノアの箱舟で寝ているようなものでした。

月明かりの中、プロ・プラバン島生息種のおそらく半分以上が庭にやってきて、スティーブンがいることをまったく気にせず、のんびり座ったり毛づくろいをしています。この仏教の聖域では、もう何千年にも渡って、人間に殺された動物はいないからだ−そう理解してはいても、この光景はスティーブンには驚きでした。

やがて眠りに落ちたスティーブンは、何か大きな動物が、甘い匂いの息を顔に吹きかけているのに気づいて目が覚めました…が、その時には月が沈んでいたので、何の動物かはわかりませんでした。

夜明けに目覚めると、ムオンのところへ遊びに来ていた親戚のオランウータンが、のんびり帰ってゆくのが見えます。庭には沢山の足跡がついていました。寺院の中からは、朝の読経の声が聞こえます。スティーブンが草露で顔を洗っていると、銅鑼が鳴って読経がやみ、お坊さんたちが出てきました。建物の中には、大きな石の仏像が見えます。

スティーブン、捧げものを渡す

読経の後、スティーブンとお坊さんたちは、地面に座って一緒に朝食をとりました。スティーブンは、銀行家のリュー=リアン(中国式の仏教徒)にアドバイスしてもらって揃えた捧げ物を渡しました。中身はお茶とbenzion(<これがどの辞書にも載ってなくて苦労したんですが…どうやら、樹脂から作るお香の一種らしい)。

僧院長は礼を言っただけで何も訊きませんでしたが、スティーブンは自己紹介しました。「私は海軍の軍医で、英国とフランスの戦争によってこの島に来ました。医学のほかに、生き物に興味があります。また、仏教に興味のある友達のために、寺院を測って絵を描きたいのです。また数日かけてここの動物を観察したいのですが、よろしいでしょうか?」「絵を描くのはかまわないが、動物を殺さないと約束してほしい。我々は一切殺生をせず、米や果物だけを食べています。」と、僧院長は答えました。「殺す気はまったくありません、観察するだけです。」

別の僧が、「あなたはイングランド人ですね」と言いました。「いいえ、私はアイルランド人です。今はイングランドに占領されているので、フランスと戦争状態にあるわけです。」「イングランドとアイルランドは、世界の西の端にある小さな島ですね。二つの島はあまりに近いので、どちらがどちらかもわからない。空高く飛んでいる鳥たちがどちらの島に降りるかわからないほどです。でもイングランドの方が大きい」「そうです。たしかに近い。こんなに遥か遠くからでは、区別をつけるのが難しいほどです。しかし、善と悪もそうです。

「善と悪は、時に非常に近いものです。」僧院長が言いました。「紙一重の差もないことがある。しかし、若者よ、動物たちのことは、傷つけないと約束するなら、彼らの中を歩き回ってよろしい。ムオンが仲間を紹介してくれるし、猪もテナガザルの仲間もいる。しかし、あなたも他の巡礼者と同様、千階段を登って疲れているでしょう。今日は風呂に入って、その後で寺院の絵を描くといい。明日には疲れが取れるだろうから、動物のところへ行くとよろしい。」

なんか「禅問答」って感じですね…禅寺ではないけど。殺生は一切禁止、厳格なベジタリアンなのは小乗仏教でしたっけ。(<本当はこの言い方は間違っていて、「上座部仏教」と言うそうですが <これもまた大雑把すぎる言い方のようですが)

スティーブン、動物たちを観察する

温泉に入れてもらってすっかり疲れが取れたスティーブンは、動物たちを思う存分観察しました。

険しいクレーターに囲まれたこの「聖域」内には、肉食動物がほとんどいない(せいぜい山猫と熊とニシキヘビぐらい)し、何より人間に殺されたことが一切ないので、動物たちには警戒心と言うものがまるでありませんでした。

ルサ(サンバー)の群れをかきわけながら歩いても、彼らはまるでスティーブンが仲間であるかのように、気にもとめませんでした。マメジカの仔に木の上のほうの葉を取ってやった時も、一瞬のためらいもなく食いついてきました。

ここを出たことのない他の動物たちと違って(クレーターの険しい外側を降りられる動物は少ないので)、鳥たちだけは銃を持った狩人もいる外の世界を知っているので、少しは警戒心があるはずですが、それでも、彼の頭や肩にとまりに来ました。彼はまるで夢の中を歩いているような、人間としてのアイデンティティを失ったような、あるいは透明になったような気分でした。

彼をまったく気にとめていない鹿たちと違って、イノシシたちや、金猿やテングザルは好奇心が強く、僧たちとはまた違った様子の新顔に興味深々で集まってきて、彼と遊びたがりました。しかし、何と言ってももっとも好奇心が強いのはオランウータンでした。

ムオンは数人づつ、親戚を紹介してくれました。彼らは興味深そうに、口笛でも吹くように唇を突き出し、彼の青白い毛のない腕や顔や、薄い髪(薄くても、髪があるのは珍しいのかな?僧たちは剃髪しているから)をぺたぺた触ったりしました。ある日、とても年寄りのオスが木の上から降りてきて、彼に挨拶しました。彼は気さくで、年配者にありがちな気難しさはなく、スティーブンの肩を親しげに抱擁して、その重そうな身体からは想像もつかないほど、トップマン(檣楼担当員)のように身軽にツタを登って木の上に帰って行きました。(<そう書いてはいないけど、スティーブンはジャックを思い出しただろうなあ。)

スティーブンはムオンと親戚たちが話している言葉(声と言うより、微妙な表情の変化)を理解しようと努力したのですが、ほとんど理解できませんでした。(別の種の動物っていうより、外国人に招かれているみたいだなあ。)

スティーブンは今までも動物に好かれていましたが、ここでは動物たちの方のなつっこさとあいまって、まるで夢のような光景になっています。いや、ここでは「人間」対「動物」っていうよりも、人間は多くの動物の中の一種に過ぎず、オランウータンたちも「鹿よりは自分たちに近い動物」としか思っていないという感じ。スティーブンのことも、オランウータンたちは僧たちの仲間だとなんとなく理解しているだろうけど、他の動物には「何だか見たことない動物が一匹だけでうろうろしてるぞ(<僧たちとは服装が違うので)」と思われているような気がします。

スティーブン、最後の日に湖のほとりにゆく

スティーブンが一番重点的に観察したのは、ムオンの親戚の姉妹とその子供たちでした。ムオンもいいけど、彼女は人間に育てられたってことで完全な野生とはちょっと違うのと、子育て中の方がやはり観察対象としては優れているのでしょうね。彼はこの2組の親子を詳細に観察し、細かいところまで憶えていられればいいが、と思いました。

ムオンはこの贔屓が気に入らないらしく、あの姉妹は立派なレディではないから、彼が付き合うのにふさわしい相手じゃない、と彼に伝えようとしている様子でした。それでも、スティーブンの滞在最終日、アナンダとスティーブンが一緒に頼み込むと、湖のほとりにある彼らの住処に連れて行ってくれました。

ムオンはそこまで彼を案内すると、一人で寺院の方へ帰ってゆき、スティーブンは子供たちが遊び、ケンカするのをゆっくり観察していました。

激しいケンカの末に湖に落ちた子供たちを、ついに母親たちがやってきて、ガミガミと叱りながら連れて行きました。その時、スティーブンは今まで大きな灰色の岩だと思っていたものが突然動き出したのに仰天しました。

それはサイ−一角犀でした。サイはしばらくじっと考え込んでいたかと思うと、おもむろに、すごいスピードで走って行きました。スティーブンが望遠鏡で見ていると、丘の向こうから来た別のサイと激しく身体をぶつけました。両方ともオスです。二頭は唐突に方向転換して、競争するように肩をならべて、こちらへ向ってまっすぐ走ってきました。地面が揺れ、スティーブンは飛び上がりました。二頭はものすごい地響きを残して彼の横を駆け抜けて行ったかと思うと、あっという間に丘を越えて見えなくなりました。

マメジカはこちら。ラブリー。
ルサはこんな感じ。