Chapter 8-1 〜 王宮スキャンダル騒動


スティーブン、千階段を降りる。

スティーブンは激しい雨の中、僧にもらったミノを着て千階段を降りました。登った時以上に大変でしたが、心の底を温める幸せな気持ちは、雨にも消えませんでした。願望が叶えられた、それも期待していた以上の素晴らしさで叶えられたという思い、彼の「至福」のイメージに近い光景…

ドリアンの林のところまで降りると、士官候補生のシーモアがヒンズー寺院の廃墟で雨宿りをしていました。「すみませんドクター、オランウータンかと思って…」「私がオランウータンに見えたのか?」「正直に申し上げて、はい、見えました。」「このミノのせいだろう。これでなかなかいい雨具なんだ。ミスタ・オーブリーは元気かい?」「お元気ですよ。この間なんか、メインジャックまで駆け上がっていらっしゃいました。すごいですよね、あのお年で!」スティーブンが馬に乗る時、シーモアは親切に手を貸してくれて、この若者にとっては自分も「年寄り」なのだと気づいて、ちょっとがっかりするスティーブンでした。(オランウータンに間違われたのは平気、いや、むしろ嬉しいでしょうけどね、彼は。)

シーモア君は士官候補生の年長組で、たぶん17〜18歳ぐらい。このぐらいの子にとっては、ジャックやスティーブンももう「年寄り」なのねえ…ふぅ。でも、シーモア君は若いくせに、体力ではスティーブンに全然かなわないのですけど。

豪雨の中をとぼとぼと帰るスティーブン一行。シーモアは「昨日から街は大騒ぎだった」と言うのですが、その理由を聞いても、ちっとも要領を得ないのでした。街に着くと、道には人気がなく、商店は軒並み鎧戸を閉ざし、スティーブンの宿も閉まっていました。彼はぐったりと疲れているシーモアを艦に送った後、ヴァン・ブーレンの家に急ぎました。

スティーブン、ヴァン・ブーレンに話を聞く

ヴァン・ブーレンの家でコーヒーを出してもらって、やっと人心地ついたスティーブン。

「クマイはどうだった?」「素晴らしかったよ。あれほど楽園に近いところは、今生でも来世でも、二度と見ることはできないだろう。あそこに行けた喜びを言い表せる言葉はない。オランウータンと握手したし、メガネザルも見たし…しかし、それは後でゆっくり話すから、まず、何があったのか聞かせてくれないか?」「その前にひとつだけ。メガネザルの解剖用標本を持ってきてくれたかい?」「いや。何も殺さないと約束したんだ。それに、心が真鍮ででも出来ていなければ、メガネザルはとても殺せないよ。」スティーブンはアナンダの膝に乗った動物の愛らしい目を思い出していました。

「霊長類の標本のためなら、私は真鍮のハートを持っているがね。まあ、それはともかく、何があったかというとだね…誰かから情報を得たハフサ妃と彼女の一族が、ずっとアブドゥルを尾行していたんだが、ついに現場をおさえたんだ。アブドゥルとレッドワードとレイが一緒にベッドにいるところを捕まえた。

…レッドワードが美少年アブドゥルを「たらしこんだ」らしいと知って、私は「レイはレッドワードに捨てられたのか、やっぱり身体がたるんだせいかな」とか思っていたのですが…なんだ、3Pだったんか。(すみませんほんと、近頃下品で…)しっかし、この英国人のおっさん二人のどこに、美少年にサルタンを裏切らせるほどの魅力があったのだろう。レイはともかく、レッドワードにはけっこう「美少年殺し」なところもあったのかしら。(<はい、そうです、「パタリロ」を思い出していました。)

それにしても、穢れなき動物たちの世界から下界に降りてきたと思ったら、余韻を楽しむ間もなく、汚い人間世界のしがらみにどっぷり浸かっているスティーブンなのでした。

「レッドワードとレイは『サルタンに条約締結までは安全を保障するという約束を得ている』と主張して、大臣はとりあえず彼らを釈放した。アブドゥルは逃亡中だ。商店が戸を閉ざしているのはそのせいだ。サルタンには使いが出されている。それから、書記のルシュール(※)が殺された。フォックスと君は艦に戻った方がいい。レッドワードたちが君たちの命を狙ってくるだろう−この島では、殺し屋も毒薬もひと山いくらだからな。」

※インド出身のフランス使節団書記で、英国側に情報を渡してた。中国人銀行家ウー=ハンに借金があり、彼を通じてスティーブンが渡りをつけていた。

スティーブン、フォックスに警告する

くたくたに疲れたスティーブンは、その夜は艦に戻って寝床に直行しました。キリックたちが「売春宿が店じまいしたんで、ドクターがご帰還だぜ」と笑っている声が聞こえましたが、気にせず眠りにつきました。

翌朝、彼は上陸してフォックスのところへ直行し、「レイとレッドワードが逃げているので気をつけるように」とヴァン・ブーレンの警告を伝えました。

「そのことなら知っています。レイがメッセージをよこしましたから−『自分を保護して別の島へ逃がしてくれたら、レッドワードを差し出す』とね。レッドワードが死ぬところを見たいのはやまやまですが、サルタンは二人の安全を保証しているので、名誉のために約束を守るかもしれません。どちらにしても、条約はこちらがもらったも同然です。」フォックスは上機嫌でした。

「そこまで言っていいのですか?アブドゥルがあの美しい顔で、サルタンの心をもう一度動かすかもしれませんよ。」「そうですか?それほどまでに?…今日の午後にサルタンが巡礼から戻って来て、夜に王宮で会議があるはずです。あなたの売春…いや、宿のバルコニーから、宮殿の庭が見下ろせるはずです。今夜うかがってよろしいですか?クマイの話も聞かせてほしいですし−クマイには行かれたのですよね?」

スティーブンとフォックス、王宮の庭で騒ぎが起こるのを見守る

その夜、フォックスは海兵隊員に変装して現れました。「こんな格好ですみません。」「いえ、賢明な変装です。」

「下着を忘れたの」と部屋に入ってきたスティーブンの「スリーピング・パートナー」が、出て行く前に、フォックスを好奇心あらわにじろじろ眺めていました。

夕方、二人がバルコニーで見守っていると、王宮にサルタンが帰ってくるのが見えましたが、それからしばらく何の動きもありませんでした。日があるうちに、スティーブンはフォックスにクマイの絵を見せ、寺院の話に限って(フォックスは動物には興味はないので)詳しく話しました。スティーブンの描いた、手のひらをこちらへ向けている仏像の絵を見て、フォックスは喜びました。「これはアバーヤ・ムドラー(施無畏印)の仏陀です。このポーズは、『怖れることはない、全てはうまくゆく』という意味なのです。何と言う吉兆だ!」

この仏像は実際の12フィートよりずっと大きく見えたこと、前に立つと不思議に敬虔な気持ちになったことをスティーブンが話すと、フォックスは「よくわかります。私も、キリスト教の教会より、仏教寺院に入った時の方が神聖さを感じるのです。」と言いました。

スティーブンは絵はあまり上手くないはずだけど…簡単な絵でも、知識のある人には「ああ、あれだな」と見当がつくのでしょうね。写真のない時代は不便です。それにしても、フォックスさんって、自分の研究する仏教寺院のことを話している時は、すごく感じのいい、愛すべき人に見えるのですけどね…条約と自分の出世のこととなると、別人のように俗物になるんだ、これが。

日が落ちた後、突然、宮殿からドラムと喇叭とマスケットの音が響きだし、庭に大きな炎が燃えているのが見えました。「誰かが処刑される。レッドワードだといいが…」フォックスが言いました。

それからしばらく、宮殿の庭から怒鳴り声と笑い声と、くぐもった叫び声が聞こえ、やがて静かになり、炎が消えました。音は聞こえても内部を見ることはできなかったので、フォックスは「何があったんだ!」と叫び、いかにも苛々した様子でした。「何があった?誰が処刑された?サルタンの断食が終わるまでは謁見もできないし…」「内部の情報を一時間で手に入れられる知人がいますよ。朝になったら会いに行ってきましょう。」「今、行ってくれますか?」「だめです。」

翌朝、スティーブンはヴァン・ブーレンに会い、しばらく動物の話をした後、昨夜の王宮の騒ぎのことを訊ねました。「私の同僚が知りたくてたまらないらしい。アブドゥルはどうなった?あの美しい顔とガゼルのような瞳で難を逃れたのかな?」「いや。ハフサ妃が満足した頃には、美しい顔もガゼルのような瞳も、跡形もなかったよ。彼は男色の罪で胡椒の袋をかぶせられた(6章-2参照)。レッドワードとレイは今のところ無事だ…逮捕されるという噂もあるが、確かなところは分からない。」

この処刑方法って、要は殴り殺すわけで、残酷なことはわかるのですが…「頭にコショウの入った袋をかぶせる」ということにどういう意味があるのかはよくわかりません。とにかく苦しそうなことはたしかだけど。

ジャック、プロ・プラバンを測量する。そのついでに、フランスのコルネリー号を偵察に行く

さて、スティーブンがクマイを満喫している間、ジャックはジャックで楽しんでいました。何をしていたかと言うと…艦載カッターで島を一周して、測量をしていました。

もちろん、いまだ正確な海図がひとつも存在しない南シナ海を測量することは、海軍の一員としての大事な仕事でもあるわけですが…ジャックはこういう仕事は大好きでした。舵の動きひとつも自分の手に感じられるような小さな艇を操り、穏やかな風を最大限に利用して航海するのは、もっと大きな艦を動かすこととはまた違った楽しさで−実はジャックがいちばん好きな、でもめったに楽しむ機会のない「一番純粋な形でのセーリング」でした。

航海長とボンデンたち数人の水兵を連れて、昼は測量、その合間に水泳と魚釣り。夕方には浜辺で魚を焼いて食べ、夜はテントか椰子の木に吊るしたハンモックで寝る。ピクニックのような仕事を、心ゆくまで楽しんでいるジャックでした。

彼らを乗せたカッターは、フランスのフリゲート艦コルネリー号の碇泊している小さな港の近くを通りかかりました。コルネリー号は、水兵たちがこの島に上陸した時に乱痴気騒ぎをやらかし、(娼婦ではない)普通の女性の胸を触ったりするふとどき者が続出したために、街から離れた島の反対側に「隔離」されていたのでした。ジャックは「敵情視察」しようと、一人で上陸しました。

現在、コルネリー号は浜に引き上げられ、傾船修理中です。ジャックは入江を隔てた反対側の、崖の下の岩場に陣取り、望遠鏡で敵艦を観察しました。艦が修理中にもかかわらず、忙しく働いている者は少数で、ほとんどの者がブール(標的のボールにできるだけ近い位置に鉄球を投げるフランスのポピュラーなゲーム)をしたり、それを眺めたり、木陰で寝そべったりとのんびりしているを、ジャックはいぶかしく思いました。

ジャックがいる岩場は釣り場らしく、そこここに竹の釣竿をもった男たちが見えました。ジャックがそこにいる間にも、新たに3人の釣り人が崖を降りて来ましたが、そのうち1人はヨーロッパ人−フランス人でした。彼はジャックに向って、微笑んで言いました−「オーブリー艦長でいらっしゃいますね?」