Chapter 8-2 〜 イギリス人の脾臓


ジャック、フランス艦コルネリー号を見に行って、昔の知り合いに会う

「私を憶えていらっしゃらないでしょうね。デュメニルと申します。一度だけお目にかかりました−伯父のクリスティ=パリエールが指揮していたダセイ号で。」「ピエールか!」フランス軍の捕虜になった時(1巻12章)紹介された士官候補生を、ジャックはおぼろげに思い出しました。今は見違えるように成長して、コルネリー号の海尉になっています。「会えて嬉しいよ。伯父さんはお元気かな?」

デュメニルは、伯父が今提督になっていること、しかしデスクワークの方に回されてパリでくさっていることを話しましたが、ジャックとクリスティ=パリエール艦長はお互いの活躍を新聞などでつぶさに追っていたので、言われなくても近況は知っているのでした。

コルネリー号は、埠頭も二又起重船もないところで無理に傾船修理したため、損傷が余計に深刻になったらしく、少なくとも次の大潮までは出航できそうにないそうです。「ですから、コルネリーに斬り込もうなどとはお考えになりませんように…お互い、無駄な流血になりますから。」

デュメニルは驚くほど率直に、自艦の窮状を打ち明けました。備蓄食糧はほとんど食べ尽くしてしまい、金がないので買うこともできない。この島で銀行業を取り仕切っている中国商人が、彼らの手形を(額面を割り引いてさえ)受け取ってくれないので。幸い、このへんでは美味しい魚が釣れるのでいくらか助かっているが…

彼らの手形が通用しないのは、フランス人水兵たちが乱痴気騒ぎで島の人たちの信用を失ったこともあるけど、スティーブンが(ラッフルズのコネも効かせて)この島の中国人銀行家を二人とも英国の味方につけてしまったためでしょう。ちょっと気の毒なデュメニルさんたちです。スティーブンの有能さも、時に罪作り。

ジャックは物資援助を申し出るのですが、デュメニルは「公式には敵である人に助けを求めるわけにはゆきません」と断りました。「馬鹿なことを。私が捕虜になった時、君の伯父さんに援助を頂かなかったと思うかい?お金だけでなく、人生で一番美味しい食事を何度も頂いたよ。アメリカ軍の捕虜になった時も、敵の艦長に金をもらった。どうか受け取ってくれ。」

ジャック、艦に戻って久しぶりにスティーブンに会う

翌日の夕方、艦に戻ったジャックは、やはり艦に戻っていたスティーブンと久しぶりに会いました。「スティーブン、いたのか!あのものすごい階段から、無事に降りてきたんだな。よかった、よかった。君の売春宿はどうした?女の子がみんな梅毒持ちだったか?それとも、急に福音伝道師になったのか?ああ、君が女の子たちに説教しているところを想像すると…」笑い出すと止まらないジャックを、呆れて眺めるスティーブン。

やっと笑い終わると、ジャックはクリスティ=パリエールの甥に会ったこと、コルネリー号が当分出航できそうもないことをスティーブンに話しました。「帰り際にコルネリー号を待ち伏せることも考えていたんだが、無駄のようだな。次の大潮を待っていたらサプライズ号との2度目のランデブー(1度目はもう過ぎた)に間に合わなくなってしまうし。どちらにしても、こっちもそれまでに出航できないかもしれないな。フォックスとサルタンがもう少し帆を張り上げてくれないと…」

「それが、そうでもなさそうだ。アブドゥルを憶えているか?」「おれが艦尾甲板から蹴落としてやろうかと思ったあのクソガキか?」「そうだ。彼がレッドワードたちといるところを捕まった。レッドワードは王宮に出入り禁止になっただけだが、マレー語が話せる彼がいないと、フランス側はお手上げだ。王宮は身分の低い通訳を謁見室に入れるのを許さないから。条約はもう間もなく決着がつくかもしれない。レッドワードは逮捕されていないが、もちろんもう破滅したも同然だ。レイも同様だ。しかし、フォックスの憎悪はちっとも収まっていない。レッドワードがアブドゥルと同じ方法で処刑されなかったことにひどく失望している。二人の間には根深い反目があるようだ。レッドワードは、どうやら頭がおかしくなっているようだ。今となっては、我々を暗殺しても彼らの立場は好転するわけではないのに、二度も暗殺を企ててきた。」

「…汚い仕事だな、スティーブン。」「まったくだ。」「…今夜は久しぶりに合奏しないか?クマイの話も聞きたいし。」「いや…残念だが、今夜は用事がある。」

スティーブン、ヴァン・ブーレンに解剖用標本をプレゼントする

その日の夜半−研究で夜更かししていたヴァン・ブーレンの家を、スティーブンが突然たずねて来ました。

「起きていてくれてよかった。解剖用死体を持って来た。二体ある。」「親切にありがとう。これはヨーロッパ人かい?」「そうだ。ロンドンで知り合いだったイギリス人で、レイという名前だ。」「イギリス人の脾臓!ついに手に入ったぞ!一番名高い脾臓だ。新鮮な死体だな…ほとんど損傷はない…死因は両方ともライフルの銃創だな。」「ああ、決闘していたのかもしれない。」「もう一体はレッドワードじゃないか。これは大臣の許可を得ているのか?」「大丈夫だ。この二人への安全保障は、すでに正式に撤回されている。大臣は、王宮はこの件にはまったくかかわらないので好きにしていい、ただし表沙汰にしないように、証拠を残さないようにと言われている。」「それなら結構だ。頭から始めるか?

それから二人は、夜を徹して解剖に取り組みました。ほとんど口をきく必要もなく、素早く能率的なメスさばきで、切り開き、臓器を摘出し、あとで役に立ちそうなものを保存し、残った部分を始末しました。スティーブンも今まで、数え切れないほどの解剖をこなしてきましたが、これほどのスピードと技術を見たのは初めてでした。解剖台がきれいに片付いて、2個の貴重な脾臓がアルコール漬けの標本になってヴァン・ブーレンのコレクションに加えられた時、まだ夜が明けていないことにスティーブンは驚きました。

ヴァン・ブーレンは「これほど有意義な解剖は初めてだ」と満足そうでした。「ヨーロッパ人の標本はもう二度と手に入らないだろうと諦めかけていたんだ。」二人は庭に出て、気持ちのいい夜風にあたりながら、クマイの動物たちのことや、イギリス人の脾臓のことなどを脈絡なく語り合った後、わざとらしいほどのさり気なさで、ヴァン・ブーレンが言いました−「今ごろ、大臣たちは条約を清書させているだろう。明日の午後には調印式だ。」

さて…この二体の解剖用死体、いやレッドワードとレイを、誰が殺したかについては、はっきりとしたことがどこにも書かれていないので、ファンサイト掲示板などでもいろいろ意見が出ています。

次の章に「フォックスは、レッドワードとレイのことではスティーブンの助力に深く感謝していた」という文があるのですが、これはいろいろな解釈ができます。

(a) フォックスが単独で殺した。「助力」というのは、死体を始末したことを指す
(b) スティーブンが単独で殺した。「助力」というのは二人を殺したことそのものを指す
(c) 二人で殺した。「助力」というのは殺すのを手伝ったことを指す
(d) 二人以外の人が殺したか、お互いを撃ち合って死んだ。「助力」は死体を始末したことを指す

(d)は一応書きましたが、それなら死体を始末する必要もないので、あり得ないでしょう。可能性は(a)〜(c)ですが…私は個人的に、(c)だと思っています。スティーブンが「今夜は用事がある」と言って出かけたのは、レッドワードたちがもう一度襲撃してくる可能性が高いと考え、フォックスの宿舎で一緒に張っていた−そこへ案の定やってきたので殺した(半ば防衛、半ば罠という感じ)−というのが、一番無理のない解釈だと思います。フォックスがライフル射撃の名手だということは何度も強調されていますし。単に、一人で二人を殺すのは難しいだろうというのもありますが。

それにしてもこの二人、哀れな最後ですね。極悪人というわけではないけど、結局のところ敵にも味方にも(異国の少年にも)迷惑をかけてばかりのどうしょうもない連中でしたが…最後に「イギリス人の脾臓」として科学の役に立てたのがせめてもの救い。(いや、それはあんまりかな。)

最初に読んだとき、この巻で最も印象に残っていたのは7章の「聖地への訪問」と、8章のこの「イギリス人の脾臓」の件でした。聖と俗の極地って感じで、あまりに対照的なエピソードだと思っていたのですが、読み返してみると共通するテーマがあるのかもしれないと思いました。それは「人間であるということの本質って何?」ということです。

比較解剖学者のヴァン・ブーレン氏は、他の霊長類と人間を比べて、その臓器には「ほとんど違いがない」と言っています。スティーブンは聖地で「単なる動物の一種としての人間」になることを経験し、下界では人間の臓器標本がオランウータンの臓器標本の横に、何の区別もなく並べられるのを見る。興味深い対比です。

それと、もう一つ…フォックスがあれほど激しくレッドワードを憎んでいた理由について、オブライアン氏は最後まで具体的に書いてくれなかったのですが、私は地位や権力に執着するフォックスの性格からみて、「フォックスの狙っていた地位をレッドワードが取った」とか、そういう原因だろうと想像していたのです。

しかし最近Gunroomで、「フォックスは隠れ同性愛者(または、自分でもそれを否定している抑圧された同性愛者)であり、それ絡みで過去にレッドワードと何かあったのではないか」という議論を読んで…改めて考えてみると、非常にあり得ることのように思えてきました。「地位を奪われた」恨みなら、レッドワードが国を追われ、敵国での立場も失った段階でどうでもよくなるはずなのに、フォックスはレッドワードが死ぬまで激しい憎しみを捨てなかった。もっと個人的な原因の憎悪と考えた方が、納得がゆくような。…まあ、どちらも本文にはっきり書いてあるわけではないので、読者の勝手な想像の範疇なのですが。

条約が締結される。その後、フォックスは祝宴を開く

ヴァン・ブーレンの言葉通り、翌朝、「今日の午後1時に調印式があるので出席するように」というフォックスからのメッセージが届きました。ほとんど眠れないうちに叩き起こされ、ぶつぶつ言っているスティーブンを、キリックとボンデンが強引に身支度させました。ジャックは船倉からサルタンへの貢ぎ物を出し、浜辺でフォックスたちと落ち合って、全員が王宮に向かいました。

調印式は、ごくあっさりと行われました。大臣は価値のある条約を結べた上にアブドゥルを厄介払い出来て嬉しそうですが、サルタンは疲れて悲しそうな顔で、調印がすむとさっさと謁見室から出て行きました。(やっぱり、アブドゥルのことがこたえている模様。)

宮殿を下がった後、一行はフォックスに招かれて、彼の宿舎で祝賀のディナーをとりました。三馬鹿トリオはもちろん有頂天で、祝杯を重ね、酔っ払って、大声で喋り続けました。フォックスもこの勝利に上機嫌なので、彼らをたしなめるどころか、「これでバス勲章は確実ですね。準男爵位も、総督の仕事も…」とおだてられてニコニコしている始末。

三馬鹿トリオが今回の大勝利、特にハフサ妃にアブドゥルとレッドワードたちのこと教えたという「外交上の勝利」のことを(チクったのはこいつららしい)あまりにあからさまにべらべらと喋り、男色に関して下品なジョークを連発するので、スティーブンはすぐに辟易し、彼らが「英国で姦通罪に『胡椒の刑』を課すことにしたら、胡椒の相場が暴騰するでしょうね!」いう下品なジョークに大笑いしている隙に、ジャックに合図してそっと抜け出し、ヴァン・ブーレンと中国人の友人たちに別れの挨拶をしに行きました。

ディアンヌ号、プロ・プラバンを出航する

一刻も早くこの勝利を持って本国に凱旋したいフォックスの希望を受けて、ディアンヌ号はその日の夕方にはプロ・プラバン島を後にしました。ジャックとしても、今から行けばサプライズ号との2度目のランデブーに間に合うので、早く出航するのは大歓迎だったのですが…