Chapter 9-1 〜 高慢と偏屈


ディアンヌ号、サプライズ号とのランデブー地点に向かう。

ディアンヌ号はサプライズ号との2度目のランデブー地点(1度目はプロ・プラバン島に滞在中に過ぎた)である「偽ナテュナス(False Natunas)」へ向かいました。まずそこでサプライズ号と(出来れば)落ち合い、それからジャワへ戻ってフォックスと三馬鹿を降ろし、フォックスはそこから東インド会社の船で本国へ戻る予定。

先にジャワへ行った方が距離的には近いので、早く本国へ帰りたいフォックスは不満そうですが、ジャックは「この風なら、ランデブー地点経由で行った方が速い」と説明しています。まあ、それは嘘ではないのですが、ジャックとしては、とにかく早くサプライズ号と再会したいので、今度のランデブーを逃したくないという気持ちもあるのでした。

「偽ナテュナス」は島というより、大きな岩が海面につきだしているだけの場所。何でこんな変な名前なのかというと、「ナテュナス島」というちゃんとした島が他にあり、濃霧で迷ったオランダ船が、ここをナテュナス島だと思ったからでした。今でもまともな海図がない南シナ海には、この種の地名が満ち溢れているそうです。

さて、ディアンヌ号とサプライズ号は、ヨーロッパからそれぞれ東と西に向かい、地球をそれぞれ半周してアジアで会うという、なんとも壮大な待ち合わせをしているのですが…この「ランデブー」には、ちゃんと考え抜かれたやり方があるようです。

これほど遠い航海、長い時間の後に会うのだから、どちらかの予定が何らかの理由で狂うということは大いにあり得るわけです。そこで、ある程度の間隔を置いた期間と場所をいくつも決めておきます。(今回は5回。)

近くに陸地がある場所を選び、先に来た方があらかじめ決めた印とメッセージを残して行きます。そこで会えなかった場合は、次の期間・次の地点へ…最終ランデブーまで、それを繰り返す。最終ランデブーはちゃんとした港に設定し(今回はシドニー港)、そこで最終期限まで待ち、それでも相手が現れなければ(おそらく最悪の事態が起こったということなので)諦めて国へ帰ることになります。

今回(2度目)のランデブーとなる偽ナテュナスでは、相手がいなかった場合、その緯度に沿って(マストの天辺に見張りを置いて)一週間ほど行ったり来たりしながら待つ−という予定でした。

フォックス、乗員にますます嫌われている

さて、フォックスと三馬鹿大将はと言えば、条約の調印以来、喜びにほとんど恍惚状態。ディアンヌ号乗員の全員が彼らを激しく嫌っているのにも気づいていません。

三馬鹿トリオについては、もちろん前から嫌われていたのですが、彼らは「所詮は馬鹿なオカモノ」と軽蔑されているだけ。しかし、フォックスに対する乗員の嫌悪感は、もっと根深いものがあるのでした。アジアまでの長い航海の間も、フォックスは好かれていなかったのですが、それがもっと徹底した嫌悪に変わったのは、条約調印時に彼がしたこと−いえむしろ、しなかったことに原因がありました。

この条約締結は、ディアンヌ号乗員たちにとっても勝利でした。もちろん、海戦の勝利や敵船拿捕とは比べられないけど、それも乗員たちはこの勝利を喜んでいました。

ところがフォックスは、勝利を乗員たちと分かち合うということをしませんでした。ディアンヌ号の士官や士官候補生をディナーに招待もせず、水兵にも酒一杯おごらず、彼らの貢献に対して礼の一言もなく、それどころか乗員に「任務は成功した、みんなもご苦労だった」と、一言報告することすらなかったのです。

そもそも、条約の成功は、ディアンヌ乗員たちの貢献も大きいはず。昼夜働いて彼を間に合うように島に連れて行き、着いてからも、楽しい港を目の前に「条約のため」と言われて上陸して遊ぶこともできず、ずっと艦にこもったまま我慢するという…彼らにとっては究極の犠牲を払ったのに。

そもそも普段から、自分を乗せて陸と艦を往復するボートの乗員にも「おはよう」「ありがとう」すら言わない人であることも災いして、すっかり憎まれてしまっているのでした。そうか、彼が能力はあるのに今までこれといった官職につけなかったのはこのせいかな。人の上に立つ人は、こういうことを忘れちゃ絶対に駄目ですなあ。

スティーブンに対してもそうでした。ヴァン・ブーレンや中国人銀行家やワン=ダ(宴会で彼と森の話をしていた王宮官吏)のコネを利用して、妃や大臣をはじめサルタンの側近の全員を英国の味方につけたのはスティーブンの活躍で、それがなければアブドゥルが処刑されても役に立たなかったはず。条約調印の前には、フォックスもスティーブンの助力にちゃんと感謝していたのですが…一旦成功を収めた後は、まるで何もかも自分の手柄であったかのように、スティーブンのことをほとんど無視しています。

自分の扱いについては、スティーブンはあまり気にしていないのですが…彼はフォックスの変貌に危険なものを感じていました。ディアンヌ号の他の人たちは、フォックスは元からこういう性格だと思っているのですが、スティーブンだけは彼が以前とは変わったように感じていたのです。以前は三馬鹿大将を軽蔑し、彼らのことでジャックに謝るほどの良識があったフォックスなのに、今はどう見ても、三人のミエミエのおべんちゃらに大喜びしている。どこぞの総督の座につけるとか、ナイトの称号は確実だとか…「今のフォックスを見たら、ラッフルズはどう思うだろう?ブレインは?」

フォックスはナイトの称号をおかしいほど熱望していて、一刻も早く本国に凱旋したいと思っていました。なので、ジャックがサプライズ号とのランデブーを優先して遠回りしていることに不満の様子。政治的には、条約が結ばれた時点でプロ・プラバンの状況は片付いているので、本国への告知をそれほど急ぐ必要もないのですが。

ジャックとスティーブン、フォックスのことを話し合う

ある日、艦が回頭している最中に、三馬鹿大将のひとりが勝手に艦尾甲板に来て「『もっと帆を上げたらスピードが出る』と艦長にアドバイスしてはどうか」などとヌカしてみんなを激怒させたので、ジャックはフォックスに苦情を言いに行きます。ところが以前とは違って、フォックスはこの苦情を素直に受けなかったようです。ジャックは暗い顔で帰ってきて「不愉快な会見だった」とスティーブンに言いました。

「まったく、早く連中を降ろしたいよ。でも、この調子なら明日にもランデブー地点に着ける。トム・プリングズがまだ来てなかったら、一週間待って…その後は二日でバタヴィアへ行ける。バタヴィアには家から手紙が届いているだろうな。早く読みたいよ。」「僕もだ。もっとも、まだ娘が生まれたという知らせは届いていないだろうけど。時々、赤ん坊のことを考えるだけで涙が出そうになるんだ。」「夜泣きとオムツの洗濯にしばらくつき合えば、そんな気持ちも治るよ。赤ん坊を我慢するには、女にならなくちゃならない。(You have to be a woman to bear babies.)」「僕は前からそう思っていた。(So I have always understood.)」(<ここ、なんか好きです…意味深長で。)

ある凪の午後、ジャックはスティーブンと一緒にボートを出して、艦を少し離れたところで水泳を楽しみました。艦長室で話すとフォックスたちに筒抜けなので、こういう時しかぶっちゃけた話はできないのです。「ジャック…フォックスは本国へ帰ったら、少なくともしばらくは政府の要人たちに影響を与えることになる。根に持つタイプだから、あまり不興を買わないほうがいい。」「それはよく分かっているよ。」「ギリシア語にhybrisという言葉があるのを知ってるかい?自分の力や成功を傲慢に誇ったり、むやみに勝利に酔いしれることだ。」「それは何より悪運を招くことだ。」「それに、何より不敬なことだ。考えてみれば、それは同じことなのかもしれないな。」

ジャックたちが艦に帰ると、海尉と士官候補生がさっと集まって目隠しになり、タオルで彼を包みました。自分たちの見かけにはとんとかまわない彼らですが、フォックスと三馬鹿大将に艦長の全裸を見られることだけは我慢できないのでした。(<なんか…愛されてるね。)

ジャック、フォックスたちをディナーに招待するが断られる

フォックスが無礼だからといって、こちらから故意に無礼にする意志はないので、ジャックは調印式後のディナーの返礼として、フォックスたちをディナーに招待しました。

その後すぐエドワーズ(フォックスの秘書)が伝言を持って来て、ジャックはてっきり承諾の返事かと思うのですが、それは「水兵たちのダンスがうるさいのでやめさせて欲しい」という苦情でした。ジャックは音楽とダンスは水兵たちの士気の維持にとても大事だと知っているので、水を差したくないのですが…仕方なく「音を半分にしろ」と命じるのでした。

そんなこんなで、フォックスとジャックの関係は悪化の一途を辿っていたのですが、それでもディナーの前日になってフォックスが出席を断ってきた時、ジャックは驚きました。「艦長の招待は絶対に断れない」というのが軍艦の常識ですが…そうでなくても「仕事が忙しい」というあからさまな嘘で招待を断るのは、ちょっと考えられないほど失礼なことだったので。

「フォックスほど教育のある人が、これほど下品な真似をするとはな。この間、よっぽどきついことを言ったのか?」「そんなことはない。きつかったのは『私が国王の名代だということをわかっているのですか?』と言われて『いいえ、陸ではそうですが、艦の上では艦長が国王の名代、私が神の下で唯一の艦長です』と答えた時ぐらいだ。」

断られるとは思ってもみなかったので、ジャックはもうディナーの準備を命じていました。キリックは一番いい銀食器せっせと磨いているし、家禽係はとっておきの鴨と海亀をつぶしてしまったし、コックも準備万端整えているし…

仕方なく、ジャックはフィールディング副長を呼び、代わりに士官たちを招待しました。「こんな無作法な招待で申し訳ないが…」副長は喜んで受け、銀食器はガンルームに運ばれました。

無作法な招待とはいえ、それは最高のディナーになりました。テーブルを埋め尽くすピカピカの銀食器、ジャワ産の最上の鴨と海亀。この豪華さが一種のお祭り気分を生んだのか、艦長と士官が同席するディナーにつきものの堅苦しさも消え、最初から最後まで会話と笑い声の絶えない、この上なく楽しいディナー。後ろに立っているサーバントたちも、普段よりたくさんご相伴にあずかり、テーブルで交わされるたわいのない冗談に、遠慮なく笑い声を加えていました。

ディナーの後、スティーブンが艦尾甲板に向かうと、三馬鹿トリオの一人ローダー(一番マシな人)が彼に声をかけました。「ディナーは楽しかったようですね。」「とても愉快でした。鴨と海亀は、今まで海上で食べた食事のうちて最高でしたよ。」ローダーは切なそうに「ああ」とだけ答えましたが…この「ああ」には「私も鴨と海亀を食べたかった、フォックスが三人の分まで勝手にディナーを断ったのは職権濫用だ、フォックスのこの失礼な態度には、私は一切関係ありませんから」という心の叫びがこもっていた…ように、スティーブンは感じるのでした。

今では、三馬鹿トリオは一時のはしゃぎようからすっかり醒めて、以前の状態に戻っていました。しかしフォックスだけは、調印式からずっと、一種異様に高揚した精神状態のままで…

スティーブンは助手のマクミランに精神医学関係の書物を探させ、「嘆きや絶望と同様に、極端な幸運や成功も精神的障害の原因になりうる」という部分を読んだりしています。彼はフォックスの精神状態に何かの異常を感じているようですが、精神医学は彼の専門外なので、はっきりした診断は下せないのでした。「ドクター・ウィリス(※)がご存命なら、彼を質問攻めにするだろうな。」

※ドクター・フランシス・ウィリス(1718-1807):たびたび「狂気の発作」に苦しんでいた当時の国王ジョージ三世を先進的な治療で一時は全快させ、名を馳せた精神科医。スティーブンが若い頃に「親切にしてもらった」そうです。