Chapter 2-2 〜 バーラム・ダウンズ


スティーブン、バーラム・ダウンズ(ダイアナの買った屋敷&牧場)へ行く。

アッシュグローブを後にして、スティーブンはついに家族のもとへと向かいました。彼とパディーン、サラ、エミリーを乗せた馬車は、途中で何度か道に迷い、到着した時には日が落ちていました。

胸の動悸をおさえながら大きな家のベルを鳴らすと、犬の吠える声と、クラリッサの声が聞こえました。「どなたですか?」「スティーブン・マチュリンだ、マイディア。遅くなってすまない。」クラリッサはドアを開けると、手にしていたピストルを置いて、ドクターとハグしました。「お変わりありませんね、ドクター。」「あなた一人なのですか?」「ええ…ブリジッドが一緒ですけど。」

サラエミとパディーンは、知っている顔に再会して少しほっとしたようですが、この屋敷の一種異様な雰囲気に戸惑った様子でした。それは現代風に改装されていない古風な大邸宅で、ホールは屋根まで吹き抜けになっていて、がらんとしていて暗い…要は「ゴシック」な感じでしょうか。

クラリッサは居間に4人を案内しました。暖炉のそばのテーブルで、小さな女の子がカードの家を作っていました。「口をきかなくても、お気になさらないで下さい。」クラリッサが言いました。

スティーブン、初めて娘のブリジッドに会う

…金髪の、並外れて美しい子供がいた。しかしそれは、人を不安にさせる、妖精のような、「取替えっ子」のような美しさだった。カードを扱う彼女の動きは完全に均整が取れていた。彼女は一瞬スティーブンたちに目を向けたが、まったく何の興味も示さず、カードを積み上げる手をほとんど止めもせずに、五層目を積みはじめた。


「お父様にご挨拶しなさい」とクラリッサが言って、手を引いてスティーブンのところへ連れてくると、子供はまったく抵抗なく連れてこられて、お辞儀をしましたが、スティーブンが頬にキスした時も、かすかに身を縮める以外は何の反応もしませんでした。

サラとエミリーがお辞儀をした時も、彼女は何の反応もしなかったのですが、なぜかパディーンの顔だけは、一瞬まっすぐ見つめました。その後、召使たちがご主人に挨拶に来て、キッチンで飼われているらしい白い犬が一緒に部屋に入って来ました。

スティーブンの感じていた極めて強い苦痛(同じ性質の、あるいは同じ強さのものを経験したことがないという意味で極めて強い苦痛)を、最初に和らげたのは、老犬がブリジッドの脚の後をくんくんと嗅いだとき、彼女が左手の繊細な動きを止めることなく、もう一方の手を下ろして犬の頭を掻き、その厳粛な表情の中に、喜びのようなものが見えたことだった。

すきま風でカードの家が倒れても、ブリジッドは何の感情も見せず…その後、サラエミと一緒に(二人に何の興味も示さずに)パンとミルクを食べ(サラエミの方は興味津々でブリジッドを見つめていましたが)、言われた通りに寝室へ行きました。

スティーブンは、ブリジッドと目が合っても、まるで彫像か何かを見たように視線が素通りしてしまうことに、また心を痛めるのでした。

ブリジッドについて

14巻10章でその誕生を知ってから…いえその前に、13巻1章で妊娠を知ってから、3年以上/地球一周/合計約800ページ以上にわたって、ずっとずっとスティーブンの心の底にあり、その存在が幸せの源になっていた娘と、彼はようやく現実に会ったわけです。同時に、15巻3章以来ずっと気になってた、ソフィーの手紙の「様子がおかしい」という意味も、ここで明かされるのですが…

ブリジッドについては、もちろん山ほど書くことがあって、この先はしばらく彼女のことばかりになると思います。でも…えーと、まずは細かい引っかかりを片付けてしまおうと思います。

彼女の名前について。前巻まで、たしか「ブリジッ(Brigit)」になっていました。17巻では「ブリジッ(Brigid)」になっていて、「あれ?」と思ったのですが…

オブライアンは自分のつけた名前を間違えることがよくあるのですが…まあ、この場合、BrigitとBrigidはどちらもカトリックの聖女、聖ブリジッドからきている同じ名前の別綴りに過ぎないし、英語で発音するとまず区別がつかないので、まあいいのかな…?

スティーブンは出航前ダイアナに「子供が生まれたらBrigitと名付けるように」と言い残して行ったけど、口頭で言ったので、ダイアナはどちらか分からなくなり、より一般的なBrigidにした。スティーブン自身も、長旅のうちに、どちらを言ったのか曖昧になってきた…ということだったりしてね。(<勝手な想像です。)

聖ブリジッドは、「アイルランド、赤ちゃん、鍛冶屋、非嫡出子、酪農、養鶏、助産婦、旅人、船乗り、学者、尼僧」の守護聖女だそうです。スティーブンにぴったりですね。そういえば、ジャックの息子ジョージ(George)はドラゴン退治で有名な聖ジョージ(ゲオルギウス)、イングランドの守護聖人でした。

彼女の髪の色について。スティーブンもダイアナも黒髪なのに、「金髪」(fair-haired)となっているので、これも「あれ?」と思いました。

でもねー、スティーブンが航海に出てしまった後で、「微妙な時期」に妊娠を知らされたというのならともかく…彼女が妊娠したのは、明らかに二人が第二のハネムーンでべったり一緒にいた時期ですし。まあその、他にもいろいろあって(?)…ブリジッドがスティーブンの子供であることはまず間違いないと思います。

白人って、なぜか幼児期には大人になってからより髪の色が明るいことが多いのですよね。それに、ダイアナもスティーブンも髪は黒いのに瞳は青(または「薄い色」)なので、色素の薄い遺伝子をもっていることは間違いないし。

Gunroomでこの話題が出たとき、「私も主人も黒髪なのに子供が小さい頃金髪で、騒ぐ人が多いのでうんざりして『そうよ、でも牛乳配達人も黒髪だったのよ!』と答えることにしていた」という女性からの投稿があって、笑ってしまいました。

彼女の年齢について。ジャックのとこの3人も含め、子供たちの年齢について、オブライアン氏はちっとも具体的に書いてくれません。でも、私の大雑把な計算では、スティーブンの世界一周の旅が3年ちょっと、つまりブリジッドはこの時3歳ぐらいではないかな−と思っています。

スティーブンとクラリッサ、ブリジッドとダイアナのことを話す

召使たちとパディーンが寝た後、スティーブンとクラリッサはブリジッドのことを話しました。

「口をきくことはあるのですか?」「喋っているような声が聞こえることもありますが、私が部屋に入ると止めてしまいます。」「人の話は理解しているのですか?」「完全に理解していると思います。特に機嫌の悪い日を除いて、たいてい言うことをききますし、素直で、ほとんど…」「優しい?」「かもしれません。でも、表現が分からないのです。」

「ダイアナの事を話してくれますか?友達になったのでしょう?」「ええ。とても親切にしてくれました。夫が戦死してからは特に…でも、その時にはブリジッドが普通の人とは違うということがわかっていて、彼女はひどく悩んで、深酒をするようになっていました。それでも、私には優しくて、乗馬を教えてくれました。でも…私がドクターの愛人だったと思っているようでした。Les hommes, c'est difficile de s'endormir sans(フランス語:男というのは油断できない)と言って…違うと説明しても、信じてくれなかったようです。」

「いつ頃から沈んでいたのだと思いますか?」「私が来るずっと前からです。あなたがいなくて淋しかったのだと…お産は普通よりずっと難産だったそうです。でも、乳母の所から戻った時は、それは可愛らしい赤ちゃんで、きっと愛するだろうと思ったそうです。でも、その時からあの子の完全な無関心は始まっていました。愛することも、愛されることも望まない子供だったのです。

「ダイアナはあのような子供を見たことがなくて、ひどく混乱して、傷ついたようです。私が来たことはいくらか慰めになったようですが、とても十分ではなくて…ウィリアムズ夫人が、本当に酷い事を言ったようです。時が経っても、ブリジッドは改善するどころかますます悪化して…無関心から、はっきり嫌うようになってきたそうです。」

「私の手紙は届いていたのですか?」「いいえ、一通も。私が持ってきたものだけです。手紙が来ていたら、助けになったでしょうに。彼女は諦めかけていました。多くの船が難破して…一方で、あなたが帰っていらっしゃるのを怖れていました。だんだんこの家を嫌うようになって、とうとう馬もよそへやってしまって、出て行かれました。私にブリジッドと一緒に残って欲しいと頼んで、かなりのお金を残して行かれました。よそに家を見つけたら手紙を書くとおっしゃっていたのですが、1通来たきりで、最近は途絶えています。」

「彼女は筆まめな方ではないから…」「そうですね。でも、あなたへの手紙を一通預かっています。もし万一、帰っていらしたら渡すようにと…」

「スティーブン、あなたが弱い女を嫌うことはわかっているけど、これ以上耐えられる勇気がありません。もしも、いつかあなたが帰ってくることがあるなら、どうか、どうか私を軽蔑しないで。」

ブリジッドの「障害」について

…については、もう少し先の章まで行かないと詳しい話を書きにくいので、少々お待ち下さい。

今回、例によって即席で(でも、いつもよりはちょっと力を入れて)調べたのですが…帆船や食べ物のこととはワケが違うので、私がいつもの「大雑把な説明」でまとめるのは、やっぱり無理があるようです。なので、下のサイトを是非お読み下さい。

外部リンクを読むのが「必須」になるのは、なんとも不親切な気もしますが…私の長々しい読みにくい文章にここまでつき合って下さった方々なら大丈夫かと思って(すみません)。

ウィキペディア 自閉症
総論的にまとまっています。

「君が教えてくれたこと」というドラマのサイトの中の解説ページ
私はこのドラマを見ていないのですが、このページはわかりやすかったので。

自閉連邦在地球領事館附属図書館
翻訳家ニキリンコさんのサイト。この巻の感想を書くにあたっては、ニキさんに大変お世話になりました。ニキさん、お忙しいところを質問ぜめにしてすみませんでした。心から感謝します。

ダイアナについて

さて、ブリジッドのことはまた後で書くとして、ここではダイアナのことを。

「子供を置いて出て行くなんて」と責めることは簡単だと思うのですが、私は可哀相だなあと思って。いえ、ブリジッドちゃんの障害自体じゃなくて、まわりの状況がね。

以前、ある小説で(たしかフレドリック・ブラウン)、「人間はどんなに恐ろしいものであっても、それに名前がついていれば心理的に処理できる。名前のないものこそ底なしの恐怖だ」という意味の事を読んで、なるほどな〜と思ったことがありました。ダイアナも、せめて「あなたのお子さんは、これこれこういう病気です」とか、「他にもこういう子供はいるんです」とか、言ってくれる人がいればよかった。

スティーブンは後で、「ダイアナはブリジッドのことを知的障害だと誤解していた」と言っていますが、そうじゃないと思う。周囲の人はブリジッドを知的障害(あるいは、ウィリアムズ夫人の場合「強情で口をきかない」)と思っているのですが、ダイアナは子供の様子を見て、そうじゃないと気づいていたと思います。普通の「ばかな子」とは違う。でも、違うから何なのかが分からない。だから余計につらい。

あと、誰かひとりでも、相談できる相手がいればよかった。乳母とか家政婦とかは、子供の世話はしてくれても、奥様のそういうややこしい相談には乗ってくれないだろうし。ウィリアムズ夫人は害にしかならんし、ソフィーとは仲違いしているようだし。めったなことでは動じない性格のクラリッサが来てくれたことは、たぶん大きな救いになっただろうけど。スティーブンの愛人だと誤解したことが、彼女に心を許す障害になっていたのなら、本当に残念なことです。

まあ、要するにスティーブンがいればよかったのだけど…それは言ってもしょうがない。

でも、せめてもの救いだと思うのは、当時(19世紀初頭)には、「母親の愛情が足りないからこうなったのだ」という発想自体が、まだなかったであろうことです。あれだけ悪意に満ちたウィリアムズ夫人でさえ、そういう言い方はしてない。逆に言えば、そういう風に言われた時代(1940〜60年代)の親御さんは辛かっただろうなあ。

それが医学的にはっきり否定されている現代でさえ、Gunroomの投稿で「赤ん坊の時にダイアナがネグレクトしたせい」とか書いている人もいて(クラリッサが「乳母のところから帰って来た時に既にそうだった」とはっきり言っているにもかかわらず)今でも誤解されていることが多いのだなあ、と思います。

逆に…クラリッサは「(ブリジッドは母親に対して)最初は無関心だったが、やがてはっきり嫌うようになった」と言っていますが、これはダイアナが最初のうち、一生懸命かまおう、愛情を示そうとしすぎたせいではないのかなあ。ブリジッドにしてみれば、「予告も脈絡もなく、やたらに触ってくる人」になっていたのかも。

スティーブン、クラリッサに感謝する

「クラリッサ、娘の面倒を見てくれて本当にありがとう。心から感謝します。明日にはサラとエミリーを連れてロンドンへ行かなくてはなりませんが、安全のためにパディーンを置いて行きます。出航の一週間前には戻ります。それまでに、必ず別の家を探しますから。」