Chapter 3-1 〜 ブリジッド


最初に。この巻(特に2章〜5章)の感想を書くに当たり、翻訳家(であり、長年のオブライアン愛読者でもいらっしゃる)ニキ リンコさんにたいへんお世話になりました。改めて御礼申し上げます。

アッシュグローブに艦隊司令官の軍服が届く。

一方、アッシュグローブでは…

子供たちのハシカはすぐに治ったらしく、元気に走り回っています。今日は艦隊司令官の軍服が届いたので、パパに「着て見せて」「触らせて」と、ひとしきり大騒ぎ。

ジャックが子供たちに急かされて家に入ると、ドレッシングルームにはソフィーとウィリアムズ夫人と、その友人モリス夫人までが揃っていて、素晴らしい軍服一式を、キリックがいとおしげに並べていました。

その後は、立派な軍服に身を包んだジャックを、みんなで口々に誉めそやす「ファッション・ショー」のはじまり。

ミセス・ウィリアムズ、クラリッサを尋問する

その後、ジャックに来客があったので、ソフィーは母とモリス夫人と一緒に残され、お茶と噂話につきあうはめに。

モリス夫人の従者で、ブリッグズという男がいます。競馬に詳しい男で、ウィリアムズ夫人とモリス夫人がやっているレディ相手のノミ屋稼業に欠かせないパートナーなのですが、二人のお気に入りだけあってお喋りの噂好き。とにかく、人の告げ口ばかりする男です。

そのブリッグズから、「バーラムへ弁護士が行った」という噂を聞きつけたW夫人。とっさに「ダイアナの離婚の件」かと思ったのですが、そうではなくミセス・オークスのことらしいと聞いて興味をそそられました。「子供の様子を見る」と口実をつけて図々しくバーラムに押しかけ、クラリッサを根掘り葉掘り尋問したらしい。

しかしさすがはクラリッサ、のらりくらりと返答を拒否し、きっぱり追い返したので、W夫人はおかんむり。「ダイアナがいない間は、私があの子供の保護者ですからね。一番近い親族ですもの。あの家に好ましからざる繋がりを持った者がいるなら、追い出すのは私の責任です。」

「ママ、忘れてない?あの子の保護者はドクター・マチュリンよ。」「ドクター・マチュリン!帰ってきたと思ったら、また出かけて6週間も戻らないような人に、子供の面倒は見られませんよ。」「ドクターなら、明日の午後にいらっしゃるわ。出航予定日が近づいているから。」

クラリッサを訊問するのは「よくあるゴシップ好き」と、まだ許せるのですが(クラリッサは強いから、追い返すことができるし)…「ブリジッドの保護者」だなんて言うのはやめてほしいなあ。ダイアナが出て行った後、クラリッサがいなかったら、ウィリアムズ夫人がブリジッドの「面倒を見ていた」かと思うと、ぞっとします。(でも、クラリッサがいなかったらダイアナはW夫人を警戒して出て行かなかったかな。でも、それだとダイアナ自身がますます参ってしまったかもしれないし…)

ちょっと不満なのは、ソフィーの態度。もともと友達じゃないから、ダイアナに対して冷たいのはしょうがないかもしれないけど、ブリジッドにはもうちょっと同情してくれてもよさそうなもんですが。母親を止められないものだろうか。現代とは母娘の力関係が違うから、しょうがないかなあ。

もっとも、ソフィーはソフィーで大変なのでした。ジャックが父のマナー(領地・荘園)を相続して、すぐ海に出てしまったので、彼女が管理の責任を負っているので。ウールコムは借地人が大勢いる立派な荘園で、一口に管理といっても、中小企業の経営のような大仕事なのです。ソフィーってそういう仕事、けっこう向いてそうですが、楽しんではいないようです。自分にも父親(ほぼ)不在の子供が3人いるわけだし、もともと疎遠なイトコの子まで、気を遣っていられないのはしょうがないかな〜。

スティーブン、ダイアナを探しに行くが見つからず帰る

さて、スティーブンが6週間何をしていたかというと…サラエミをグレープス亭に送り届けた後、ダイアナを探しにイングランド北部へ行っていたのでした。彼女の友人関係を訪ね歩いたのですが、預けられた馬たちがいただけで、本人の行方は分からず。

ダイアナの残した馬の一頭(「ララ」という名の牝馬)に乗り、失望をかかえて帰って来たスティーブン。その上、バーラムに着くと、クラリッサからウィリアムズ夫人の侵略のことを聞かされ、頭を痛めているところ。

それでも、スティーブンの心には、心配の中に明るい光が射していました。バーラムで今まで放ったらかしていた標本を整理していた時、素晴らしいことが起こったからです。

ダイアナが彼の標本を入れていた二階の部屋の向かいに、「子供部屋」と呼ばれる、人形・木馬・輪投げ・ボールなどのおもちゃが、使われないまま放置されている部屋がありました。シドニーから送った膨大な植物標本を整理している時、その部屋から、パディーンがアイルランド語で喋っている声がしました。「よくなった…もうちょっと高く…だめだ、落とした…これで4…次は5…」

パディーンは船でも、一人で遊んだり作業する時、よく独り言を言っていたので、スティーブンは気にとめず、その声を心地よいBGMとして聞いていました。しかし、突然、小さな子供の声がアイルランド語で「12!」と言ったので、彼は驚き、持っていた標本が床に落ちました。

ブリジッド、パディーンと遊ぶ

「だめだよ、ブリード(※)、ハニー、ア・ドゥー・イェイグって言わなくちゃ。よく聞いて。ア・ヘイン、ア・ドゥー、ア・トゥリー、ア・カーヘア、ア・クーイグ、ア・シェイ、ア・シャヘット、ア・ホヘット、ア・ニーイ、ア・ジェイ、ア・ヘイン・ジェイグ、ア・ドゥー・イェイグ…イェイグ、だよ。 (A haon、a dó、a trí、a ceathir, a cúig、a sé、a seacht、a hocht、a naoi、a deich、a haon déag、a do dhéag)(※)

小さい高い声が、「ア・ヘイン、ア・ドゥー…」とはじめ、パディーンのマンスター訛りもそのままに、「ア・ドゥー・イェイグ」までを数え上げた。「いい子だね、金の子羊ちゃん、神と聖母と聖パトリックの祝福を。さあ、4のところに輪を投げよう。そうすれば12だ。8たす4は12だからね。」


スティーブンはあまりに必死で耳を澄ませていたので、ディナー・ベルの音に電撃のようなショックを受けて、頭がぼーっとなり、パディーンとその肩に乗ったブリジッドが、お互いの耳に囁き合いながら階段を降りる音をぼんやり聞いていました。

※ブリード:ブリジッドの愛称のひとつ。他にブリーディ、ブリディーン、ブリーンなど。パトリック→パディーンと似たパターンなので、アイルランド式の愛称なのかも。日本式なら「ブリちゃん」かしら…(それではブリトニー・スピアース。)
※A haon...: アイルランド語の1〜12。発音は一応調べたのですが、地方によって違うそうなので、マンスターがこうかどうかは自信なし。


クラリッサとスティーブン、食事しながらブリジッドのことを話す

「ウィリアムズ夫人のこと、お話しなければよかったわ。食欲が無くなってしまいましたね。でも、『ああいうのは、しっかり揺さぶってやれば治る』と言って、強引にブリジッドの部屋に入ろうとしたのです。大声で騒ぐものですから、あの子は驚いてしまって…」「言って下さってよかった。放っておいたらまた侵略して来ます。そうなったら、被害は計り知れない。」

彼は無意識にフォークでワインをかき混ぜていたのですが、自分が何をしているのか気づいて、しばしフォークをじっと見つめた後、ナプキンで拭いて、テーブルにまっすぐ置きました。(彼の心の感情的ジェットコースターを表している仕草で、可笑しいとか可愛いとか言うのは不謹慎ですが…でもカワイイ。)

「食欲がなかったのは、怒りではなく喜びのせいなのです。ブリジッドがパディーンと話しているのを聞きました。」「それはよかった…でも、意味の通る言葉でしたか?」「はい。」「私も聞きましたけど、子供の作るでたらめな言葉かと…」「純然たるアイルランド語です。」「まあ、本当に嬉しいわ。」「今はデリケートな時期です。焦って邪魔をしたくない。花を開かせましょう。ウィリアムズ夫人の干渉は絶対に避けなければならない。方法を考えます。」

なので、ブリジッドとパディーンが食堂に入ってきた時も、スティーブンは特に話し掛けたりせず、グーズベリー・フール(菓子)を取り分けてやっただけでした。しかし、スティーブンがパディーンにアイルランド語で話しかけると、ブリジッドはぱっと振り向いて彼を見たのでした。

スティーブン、ジャックにダイアナとブリジッドのことを話す

スティーブンが馬でアッシュグローブに着いた時、ジャックは彼の天文観測台で、ポーツマスに入港した彼の艦隊を眺めているところでした。

「スティーブン、お帰り!旅はどうだった?」「残念ながら、ダイアナを見つけることはできなかった。…彼女を非難するつもりはないんだ。彼女は二つの大きな誤解をしているだけだから。…ブリジッドは知的障害と言われているが、それは間違っている。特殊な形の発達過程で、一般の子供より遅い。ダイアナは知的障害だと誤解して、それに耐えられなかった…自分がいるとかえって害になると思って、出て行ってしまったんだ。そして、その事で僕が責めると思っている。

「この種の子供は、普通の知的障害よりは少ないが、それほど珍しいわけではないんだ。パディーンの故郷の村にも二人いて(アイルランドではラナイ・シイェ(leanaí sídhe=子供の妖精)と呼ばれている)、二人とも、治ったとは言わないが、自分のだけ世界からこの世界に出てきている。タイミングが肝心だ。パディーンには、そういう子供を外に連れ出す不思議な才能がある。」「そういえば、罠にかかった猫をひっかかれもせずに救い出したことがあったな。サルタンの暴れ馬を大人しくさせたことも…」

「ブリジッドの成長に関しては、今が非常に微妙な時期だ。どちらに転ぶか分からない。バルセロナのドクター・リャーズに相談する。この問題の権威だ。とにかく、ウィリアムズ夫人は遠ざけないと。彼女と話をする。」

スティーブン、ミセス・ウィリアムズを脅迫する

コテージに行くと、ウィリアムズ夫人は彼を待ち構えていました。と言うのは、例の従者ブリッグズが、上陸中の水兵たちについて告げ口をしすぎて彼らを怒らせ、ボコボコにされていたので。

スティーブンはブリッグズを診察し、しばらく安静にしていれば心配ないと言った後、ウィリアムズ夫人と二人になりました。

「ミセス・ウィリアムズ…私の娘のブリジッドは、ご存知のように、精神状態が非常にデリケートです。今後は、あなたの善意の訪問を中止していただきたく存じます。」

「私の姪の子に会わせないと言うんですの?一番近い親族ですのに!言っておきますが、ドクター、あのような強情な、頑固な子は、厳しく接した方がいいのですよ。しっかり揺さぶって、暗い所において、パンと水の食事と、もしかしたら鞭もいいかもしれません。」「誠に残念ですが、我が家への立ち入りを禁止させていただきます。」

「子供の世話をしている若い女はどうですの?怪しい噂が立っています。」「ミセス・オークスの身元はよく知っております。この話はこれで終わりにしましょう。」「私が正式な後見人になるべきですわ。法的にも…」

「そうは思いません。言っておきますが、今後、万一あなたが不法侵入を犯したら−そのようなことは起こり得ないと信じておりますが−力持ちの、極めて危険な私のアイルランド人従者が追い出すだけでなく、あなたを告訴します。不法侵入および、無認可の賭博仲介業を営んだ罪で。また、ブリッグズは必ずや海軍に強制徴募され、乱暴な船乗りたちと共に、西インド諸島かボタニー湾へ向かうことになるでしょう。」

まったく、何ちゅうヒドいことを言うんでしょう、ウィリアムズ夫人は。(まあ、当時の精神医療の状況を考えると、それほど著しく常識に外れた発言ではなかったのかもしれないけど…それにしても。)

ウィリアムズ夫人にもよくわかる現実的なコトバでしっかりと脅しつけ、ついにこのオバハンを黙らせたスティーブン。カッコいいぞ。


パディーンとブリジッドについて

前章でもお名前を出させていただいたニキ リンコさんは、私がオブライアンに出会うずっと以前からこのシリーズの愛読者でいらっしゃった「先輩」です。映画公開時、例の宣伝問題がきっかけでこのサイトにお越し下さり、その後、時折メールのやりとりをさせて頂いております。

内容はと言えば、スティーブンとサー・ジョセフに関することが多かったりするのですが…私がブリジッドちゃんについてややこしい質問をした時も、とても丁寧で分かりやすい(かつ読みやすく面白い)お答えを頂き、感謝感激しております。

今回、許可を頂いて、その質問とお答え(サイト用に編集済み)をアップさせて頂いております。ぜひお読み下さい。

ブリジッド・マチュリン嬢について

私は以前、「このシリーズを読んでいて、声を上げて笑うことはよくあるけれど、泣いたのは17巻が初めて」と書いたことがありました。もうおわかりかと思いますが、それはこの章の、ブリジッドがアイルランド語で「12!」と言うシーンです。

この巻を初めて読んだ頃、私はニキさんのサイトも本も読んだことがなく、1990年代に急速に世に出てきた(らしい)発達障害に関する情報に触れたこともありませんでした。(実は、ブリジッドについて読んで、最初にイメージしたのは…70年代の少女漫画「はみだしっ子」に登場する「クークー」という少女でした。)

で、初読時のこのシーンは、イメージとしては「奇跡」というものだったと思います。

その後、いろいろ読んだり教えて頂いたりして、このシーンの「見方」は変わってきました。(多角的に見るようになった。)でも、今はちょっと違う意味で「奇跡」だと思うし、むしろ、より大きな感動を覚えるようになっています。

うまく言えないのですが…なんというか、今までずっと続いてきた物語の「鎖」、その一つの結実がこのシーンにあるように感じるのです。

10巻でパディーンが精神病院からサプライズ号に送られてこなければ…スティーブンが見つけて従者にしなければ…流刑地に送られた後、スティーブンが会いに行かなければ…スティーブンがあの時、カモノハシに刺されなければ。

どれか一つでも輪が切れていれば、ブリジッドとパディーンが「このタイミングで」出会うという幸運は起こらなかったかもしれません。

結局、奇跡と言われるものは、完全に理屈で説明のつく偶然が重なったに過ぎなかったりする…けど、だからといってそれは奇跡であることをやめはしない、と思っているので。