Chapter 3-2 〜 艦隊とバイオリン


ミセス・ウィリアムズを、とっても分かりやすい具体的な意思表明(脅迫とも言う)で適切に追っ払ったスティーブン。W夫人は負けを悟ったのか、モリス夫人とブリッグズを連れてバースの別荘へ引き上げて行きました。

その夕方、スティーブンはジャックの観測台から望遠鏡で艦隊を見せてもらい、途中で日が落ちたので、家に入って夕食をとりました。

スティーブン、アッシュグローブに泊まり、夜中にジャックがバイオリンを弾いているのを聞く

その夜、コテージのいつもの部屋に泊めてもらったスティーブンですが、夜中の3時に目を覚まし、バルコニーに出ました。彼を起こしたのは、そこから見下ろせるあずま屋から聞こえてくる、バイオリンの音色でした−それも、長年一緒に演奏している彼でさえ、聞いたことがない見事な技術で。

いつも艦の上で弾いている旅行用のバイオリンではなく、宝物のグアルネリを弾いているせいもあるけど、それだけではない…

ジャックは確かに、一緒に演奏する時にはスティーブンの平凡なレベルに合わせて腕を隠していた。スティーブンの両手が、メノルカ島のフランス軍防諜将校たちによって使われた「親指締め具」などの器具の傷からようやく回復した時、このことは完璧に明らかになった。しかし、考えてみると、もっと前からそうだった。あの時期の彼の細やかな気遣いを別にしても、ジャックはひけらかすのが嫌いなのだ。

今、この暖かい夜に、慰める相手も、気を遣う相手もなく、技巧を尽くしても冷笑する者もなく、彼は完全に自分を解放し、厳粛な、繊細な音楽を生み出し続けていた。スティーブンは改めて、一見して矛盾とも思えるこの対照を思った。大柄な、陽気な、血色の良い、ほとんどの人が一目で好感を持つが、誰も繊細だとは−繊細にもなりうる人間だとは思わない(おそらく、彼と海戦を戦って生き残った敵は別だろうが)この海軍士官と、いま彼が作り出している、この複雑な、内省的な音楽と。

語彙が貧弱で、時としてほとんど意味不明になる彼の言語表現力とは似ても似つかない。

「僕の手は、捕まる前に持っていた控えめな能力を取り戻した。しかし、彼は思いもよらなかったところまで到達してしまった−手も、心も。まったく驚きだ。ある意味では、彼は誰よりも大きな秘密を抱えた人間なのだ。それにしても、もっと楽しい音楽ならよかったのに。」


長々と引用してしまいましたが、この一節、大好きなんですよね。ジャックを表現した文章としては、全巻で一番好きな一節です。一見、単純明快な男が、バイオリンを弾く時だけその内面の深さを表すということ。夜中にふと起きだしたスティーブンが、それを垣間見てしまうところ。スティーブンと演奏する時は、彼に気遣って自分の腕を隠しているという細やかな優しさ。その優しさに自分で気づいていないところ。

ジャックってば、ほんとうにあなたは…何て言ったらいいんだろ。そして、その、「何て言ったらいいんだろ」な所を分かっているのはスティーブンだけ、というのがまた…何て言ったらいいか。(<ほとんど意味不明)

ラッセル・クロウがこのシーンを演じているところを見たいな〜、という気持ちと、これは映画では表現不可能だろうな、という気持ちの両方があります。

彼の音楽がハッピーでなかった理由については…後で、意外な理由があったことが判明するのですが。

スティーブン、ジャックに艦隊を見せてもらう

翌朝、ジャックとスティーブンは再び観測台に行って、望遠鏡で艦隊を見ました。

ここで、彼の艦隊の構成をまとめておきます。(あとで参照しやすいように、このシーンでは出てこないけど後で加わる艦も入れておきます。)

・旗艦ベローナ号 (戦列艦74門)トム・プリングズ艦長: 1760年製と古いが、状態はよく美しい船。

ステートリー号 (戦列艦64門)ウィリアム・ダフ艦長: 1782年製だが、封鎖任務が多かったためボロボロ。艦長のダフは海軍内でも有名な同性愛者。「…なのはかまわないのだが、若い水兵に手を出すのが困る。」(ジャック談)

・ピラマス号(フリゲート艦36門)ホールデン艦長: 新型の性能のいい艦。⇒単独で巡航に出るため、もっと古いテームズ号に取りえられてしまう。

テームズ号(フリゲート艦32門)トーマス艦長: ピラマス号の代わりに押し付けられた古い艦。艦長のトーマスは「紫の皇帝」と言われる暴君タイプ。

オーロラ号(フリゲート艦24門)フランシス・ハワード艦長: 1771年製と古く、規模はサプライズに似ているが、彼女ほど航行性能がよくない

カミラ号(スループ艦20門)スミス艦長

オレステス号(ブリック型スループ艦16門)カーロウ艦長

ニンブル号(カッター)マイケル・フィトン艇長: 13巻でジャックたちがスペインから帰ってくる時乗った艦。

ローレル号(スループ艦20門)リチャードソン艦長: リチャードソンはジャックと昔馴染みの「スポテッド・ディック」(4・11・13巻)。

「…思っていたより、すごい艦隊だな。」「そうだろう?大変な責任だ。モーリシャスの時は、離れているとはいえ上に提督がいたが、今回はおれ一人だ。」

ソフィー、スティーブンに愚痴る

朝食の後、スティーブンはようやくソフィーとゆっくり話す時間がとれました。今まではお互いに忙しく、子供のハシカや母親のジャマもあって、せっかく来ているのに話す時間もなかったのでした。

「あなたたちがせっかく帰って来たのに、ちっとも落ち着いて話せないわ。」と、ソフィーは愚痴るのでした。「あなたとだけじゃなくて、ジャックとも…艦隊のことや、ウールコムのことや、国会のことや…いつも忙しくしていて。貧乏な時の方が幸せだったわ。

「ジャックは変わってしまったみたいなの。忙しいだけじゃなくて、何かが心にあるような…冷たいというのではないのだけれど。書類仕事で夜更かしして、そのまま書斎で寝てしまうし、夜中は庭を歩き回っているのよ。」

ここでスティーブンは、「海に出ればまた元気になるよ」と言ってしまい、ソフィーに睨まれるのでした。

あーーもう、スティーブン、それは言っちゃだめだってば。

久しぶりに会ったこの二人、かつての友情が感じられない会話で、ちょっと淋しいですね…ソフィーは自分の愚痴ばかりで、ダイアナやブリジッドのことを気遣う言葉がないし、スティーブンはスティーブンで、彼女の気持ちがわかってあげられないようだし。

もっとも、二人とも、問題の根本原因は配偶者にあるようですが。

ジャック、ヒンクゼイ牧師に嫉妬している

実は、ジャックとソフィーの問題は、「長く離れていたために心がすれ違っている」というような抽象的なことだけではありませんでした。

皆様、ヒンクゼイ(ヒンクシー)牧師をご記憶でしょうか?3巻でジャックたちがインドに行っている時、ソフィーにプロポーズしていた牧師です。頭よし顔よし性格よしの強力ライバルで、彼のことを手紙で読んだスティーブンが、ジャックが振られるのではないかと心配していた、あの人です。

二人が世界一周の旅をしている間に、彼がアッシュグローブの属する教区の牧師として赴任して来ています。彼はいまだ独身で、よい教区を得て今は金持ち。ソフィーは昔の知り合いの気安さで、ウールコムの管理が手に余った時、彼に頼っていたようです。そういうわけで、ジャックの留守中、牧師は頻繁にアッシュグローブを訪れ、ジャック専用の椅子に座っていたとかいなかったとか…

もちろんジャックだって、ソフィーが浮気しているなんて本気で思っているわけではないでしょうけど、嫉妬というのはどうしようもないもので…ジャックは、男と女のことでも、それ以外のことでも、あまり嫉妬という感情を持ったことがないので、慣れない感情を余計にもてあましてイライラしているのでした。

彼のバイオリンが悲しかったのは、このようなけっこう浅いワケがあったのでした。まあ、それだけではないでしょうけど。

ジャックとスティーブン、ベローナ号へ。スティーブン、ベローナ号のシックバースに激怒

その日、二人はボンデンのボートでベローナ号へ行きました。スティーブンにとっては、ベローナに足を踏み入れるのは初めてでした。旗艦艦長のプリングズに迎えられる二人。

スティーブンはさっそくシックバース(病室)に行って、二人の助手(スミスとマコーレー)に紹介されました。が、助手より、彼の目を引いたのは−というか、カンカンに怒らせたのは−シックバースの環境でした。

そのシックバースには光がまったく入らず、空気は淀んでいて、カーテン一枚隔てたところは水兵の寝場所で、ぎゅうづめで100人がハンモックを並べ、かき分けないとヘッド(トイレ)にも行けない。そのすぐ向こうにはブタを飼育する囲いがあり、不衛生極まりない。

調剤室の薬品棚も、小さいのが一つしかない。「ジーザス、メリーアンドジョーセフ。こんなちっぽけな棚一つから、590人分の薬を出せというのか!艦長に報告する。」

怒りに青白い顔をした彼を見て、ジャックとプリングズはびっくりしました。「こんなにひどいシックバースとは、一切のかかわりを持ちたくない。助けるより殺す役にしか立たないようなシックバースが、少しでもマシにならないなら、ぼくは手を引く。」

「まあ、座って。ワインを飲め。」とジャック。一方、この艦の責任者であるプリングズは、気の毒に、すっかりうろたえていました。「病人は全員病院に移したので…そんなに悪いなんて気づきませんでした。」

この艦のシックバースのどこが悪いのかを一つ一つ細かく説明したスティーブンは、少し落ち着いたようでした。「ドクター、ひとこと言ってくだされば、すぐに船匠とその助手たちを呼びます。指示して下されば、今日のうちにも、理想のシックバースを作りますよ。」

スティーブンの顔色は、蒼白から元の青白い黄色に戻って(笑)、笑顔になりました。「今日は他の艦を回って、艦長と士官たちに君を紹介しようと思っていたが…シックバースを作るのに忙しいだろうな。」とジャック。

スティーブンがこの種の怒りを爆発させるのは、なんか久しぶりな気がして、ちょっと懐かしかったです。

ふつう、艦長というのは、艦上では絶対権力者、神のごとき存在であるはずなのに…旗艦艦長は上に艦隊司令官がいるうえに、軍医にまでこんなにずけずけ意見されてしまうのですね。(って、これはドクター・マチュリンがいる艦だけの特殊事情ですが。)

でも、そういう立場って、プリングズにはこの上なく似合っているような気がします。…って、言ってしまっては気の毒ですが(笑)。