Chapter 4 〜 出航準備


キリック、執事とケンカする

さて、こちらはアッシュグローブ・コテージ。

アッシュグローブ・コテージは、主人が海に出ているときも、老齢や手足の喪失(またはその両方)により引退した元水兵が海軍式に切り回していたので、いわゆるお屋敷の伝統的スタッフ(執事、従僕、メイド頭、メイド)というのはいませんでした。(料理人はいたかも。)

しかし、父の死によりジャックが相続した屋敷ウールコム・ハウスには、もちろんちゃんと執事がいます。名前はムナソン。ジャックが家にいて、人を招待したりする時は、彼がアッシュグローブに手伝いに来ていました。

当然、ムナソン執事とアッシュグローブの水兵・元水兵たちは、犬猿の仲でした。何しろ、この執事はウールコムのお屋敷を「荒れ果てるにまかせて」いたのですから…家具を全部外に出す大掃除を、一年に一回しかしないなんて!海軍の基準では、それは毎日夜明け前にするのが当然なのでした。

特に、アッシュグローブの執事格を自認していたキリックは、ムナソンを激しく敵視していました。で、今日も今日とて、包丁を振りかざして大喧嘩をやらかしています。ムナソンが、キリックの命より大事な銀食器に息を吹きかけて、「執事式の磨き方」をしたと言うので。

その喧嘩をおさめて回るのは、もちろん女主人たるソフィーの役目。ほんと、彼女もたいへんです。

アッシュグローブで、艦隊の艦長たちを集めたディナーが行われる

さて、今日は艦隊の艦長たちを集めたディナーです。ソフィーは女主人として、ジャックがバタビアから買ってきた赤いシルクで作ったドレスを着て、お客を迎えています。

この日のお客は、勅任艦長が4人--プリングズ、ステートリー号のダフ、テームズ号のトーマス、オーロラ号のハワード。若い海尉艦長が3人--ニンブル号のフィトン、オレステス号のカーロウ、カミラ号のスミス。「艦長」でない客は、スティーブンひとり。

例によって途中で鳥に見惚れていて遅れたスティーブンを、キリックが引っ張ってきて、ようやくディナーが始まりました。スティーブンはあまり会話に参加せず、艦長たちをじっくり観察していました。

ウィリアム・ダフ(ステートリー号艦長)=背高くハンサムで逞しく、女性も惹きつけるだろう…見かけからは、彼の趣味はわからない。しかし、それを言うならアキレスもそうだった。スティーブンはこのことに関しては「地中海的」な寛容さを持っていて、「北へ来るほどこれが厳しくなるのはなぜだろう」と考えたりしています。

海尉艦長たち=フィトンとスミスは海軍にはよくいる陽気な、丸顔の、日焼けした、気持ちのいい若者たち。カーロウはシャイなお坊ちゃま。

トーマス(テームズ号艦長)=長いコマンダー生活の末、やっと勅任艦長になった人。この場では最年長であり、気難しい。船乗りとしては無能だが艦の規律にはやたら厳しく、「紫の皇帝」と呼ばれている。

「皇帝」は分かるけど、なんで「紫」なんでしょう。怒ると顔色がムラサキになるのかな。

そうこうするうちに、メインディッシュの子牛肉が運ばれ、スティーブンが切り分けました。トーマス艦長が、その手際に感心して褒めました。「あなたは、まるで軍医のようにきれいに肉を切りますね。」「私は軍医ですから。マチュリンと申します。」

このやりとりに、スティーブンの後にサーバントとして立っていたジョー・プライスが噴出しそうになっていて、トーマスは憤然としました。「このディナーは任官士官の、艦を率いている海軍士官だけのディナーかと思っていました。」彼はそう言って、その後はディナーの終りまで黙り込んでしまいました。

トム・プリングズ、トーマスの悪口を言う

「ソフィー、すばらしいディナーだったよ。」「ありがとう、スティーブン。でも、あなたをあの気難しい人の隣に座らせなければよかったわ。ジャックが言うには、いつも何かに不満を見つけている人らしいわ。」

船乗りには、「シップメイトの陰口を叩いてはいけない」という道徳律があるのですが、同じ艦隊の人間でも、艦が違えばシップメイトではない。というわけで、翌朝スティーブンを馬車で港まで送ったトム・プリングズも、トーマス艦長について遠慮なく考えを述べました。

「あんな人間は、航海士より上の地位につけちゃいけなかったのです。権力の使い方を知らないから、知っているフリをするために、常に何か命令している。いつも誰かに怒っていて、侮辱されたと思っている。艦尾甲板で屁をしたら、たとえ風下にしたのでも、個人的侮辱ととるでしょう。おまけに、彼は海戦に参加したことがありません。」

「ほとんどの海軍士官はそうだよ。」「ええ、でも、彼はそのことで馬鹿にされていると思い込んで、誰も彼もに八つ当たりするのです。艦隊司令官が彼をお払い箱にできるといいのですが。我々に必要なのは戦う艦長です。乗員たちがどこまでもついてくるような…ソフィー号の連中が、ぼくたちについて来るように。本当に、あれはすごい日だったなあ!」カカフエゴ号を拿捕した日のことを思い出し、彼は言いました。

トーマス艦長の性格に関しての、プリングズのちょっとお下品なたとえ方が、なぜか可愛い…と思った私でした(笑)。(いや、彼はもう、何やってもカワイイのですが。)ま、彼は生まれも育ちも職場も、お上品と言えるようなところじゃないし、普段、ジャックたち目上の人に話す時以外は、特に上品な言葉遣いもしていないのでしょう。たぶん。

しかし…風下にならいいのですね。船乗り的で合理的?

その後、ジャックは港湾司令官のところへ行って、「トーマス艦長のテームズ号を他の艦と取り替えて欲しい」と交渉するのですが、断られます。でも、その代わりとして、今のメンバーにプラスして、昔馴染みのリチャードソンが艦長をしているスループ艦のローレル号をもらえることになったので、妥協したようです。

スティーブン、サー・ジョセフと密会する

艦隊の出航予定日もついに決定し、準備も着々と整っていたのですが…そんなある日。すっかり広くなった調剤室で、助手たちと薬品類の棚卸をしていたスティーブンのところへ、サー・ジョセフの使いが来ました。「至急、直接会いたい」と。

スティーブンは馬を駆り、サーの田舎の屋敷近くにある森まで行きました。ここはサーがいつも昆虫採集している森で、人目につかずに会って密談するのにちょうどいいのです。

「悪い知らせがある」サー・ジョセフは言いました。

悪い知らせというのは、ハバ…ハバチェ…えーと、つまり「H公爵」が、レイとレッドワードを殺したのがスティーブンであることと、自分をチクったのがクラリッサであることに気づいてしまった…ということでした。

レイたちが死んだ時にスティーブンがプロ・プラバンにいたのは、特に秘密もなんでもないので、スティーブンが彼の子分二人を殺したという推測をされたのは不思議ではないのですが…クラリッサのことがなぜバレたのかは、サー・ジョセフにも分からないそうです。

クラリッサとパディーンは恩赦になっていないし、二人を連れて帰って恩赦を申請したのがスティーブンであることもばれている。囚人を逃がした罪で告発されれば、死刑にはならないにしても、刑務所行きになったり、財産を没収されることはありえる。

それに、実は昔、スティーブン自身も1798年の暴動の共犯で訴追されていて、サーが手を回して恩赦になっていたのでした。新たな証拠が発見されれば、この恩赦を無効にすることもできるそうで…ダブリンに行けば、サー少佐(※)のような連中がまだ沢山うろついているから、金さえ出せば『新たな証拠』を手に入れるのは簡単だ。

この情報はプラット(11巻から登場しているThieftaker)と、ローレンス弁護士(こちらも11巻に登場)が教えてくれたそうです。H公爵は、スティーブンに対して法的手段を取ろうと、ヤクザな弁護士に相談しているし、いろいろ怪しげなことをするために本物のヤクザも使っているので、プラットは裏社会から、ローレンスは法曹界の噂から、それぞれ情報を得たのでした。

「大げさと思うかもしれないが、君はすぐに逃げるべきだ。移せる財産は全て持ち出して、被保護者を全員連れて。H公爵が法的手続きをはじめたら、君の財産は全て凍結されてしまう。状況を変えることができるまで、隠れていた方がいい。…すべては公爵の動き次第だ。これは彼の個人的な恨みによる動きで、彼ひとりがいなくなれば全て解決する。」

「ええ。彼は敵です。レッドワードやレイや、私が殺すか、殺されるよう誘導した何人かの人間と同様に。しかし、今回はその種の手段がとれるとは思えません。」「そうだな。残念だ。君の財産は金(きん)で持っているのだったね?」「ええ、スペインから来た時の箱のまま、銀行の金庫にしまってあります。」「安全なところへ動かすために、代理人を指名する書類にサインしてくれ…ローレンス弁護士が準備してくれた。すぐに準備を整えないと…一刻も無駄にできない。」

ちょっと…かなり怖い話をしているスティーブンとサー・ジョセフ。なんだかちょっとドキドキします。

※サー少佐(Major Sirr):ヘンリー・チャールズ・サー(1764-1841) アイルランド人だが、英国陸軍に従軍後、1796年から1826年までダブリンの警察署長を勤めた。1798年の反乱後、エドワード・フィッツジェラルド(スティーブンの親戚)を含むユナイテッド・アイリッシュマンのメンバーの多くを逮捕した。