Chapter 5-1 〜 リングル号


パディーンとクラリッサを流刑地から逃がしたことで、法的に弱い立場になっているスティーブンに対し、敵の親玉「H公爵」が攻撃を準備している−という情報を掴んだサー・ジョセフ。「逮捕されたり、財産が凍結される前に、持ち出せるものは全部持って、被保護者を連れて、一刻も早く国外脱出し、ほとぼりが冷めるまで戻らないように」−と彼にアドバイスしました。

というわけで、ジャックにある頼みごとをしようと、ポーツマスへと戻るスティーブン。

スティーブン、ポーツマスへ向かう

スティーブンは愛馬のララを駆ってポーツマスに向かいながら、とりとめもなく、あれこれ考えをめぐらしていました。

オブライアン氏は、こういう「主人公のとりとめもない考え」の中で、後のストーリーに重要になる背景を説明したりするので…書きにくい(笑)。で、かなりムリヤリなんですが、箇条書きにしておきます。(こうして文学をぶち壊す私。)

(1) 実は、ジャックの艦隊の使命はアフリカ沖で奴隷船を妨害することだけではなく、後でアイルランドに向かうフランス艦隊を妨害することになっていました。(このことは、まだジャックには知らされていない。)2章でサー・ジョセフがスティーブンに「フランスがアイルランドに侵攻した場合、君の立場は?」と訊いていたのは、このことだったのです。

もちろん、フランス艦隊の動きについての情報は、在フランスの優秀な英国エージェントとからもたらされたわけです。このことからスティーブンは諜報活動全般に思いをめぐらせ、デュアメルのことを思い出したりもしています。

(2) スティーブンは、これからジャックに大きな頼みごとをしなければならないのですが…タイミング悪く、ジャックの機嫌はあまり良くないことが予想されます。というのは、ヒンクゼイ牧師のことで、ジャックは今まであまり縁のなかった感情(嫉妬)にとらわれ、かなり苦しんでいるらしいので…

ムダなことで悩んでるな〜、ジャック。どうしちゃったの?ソフィーが浮気なんてするはずないのに。好意的に解釈すれば、自分が家を離れているためにウールコムのことで苦労をかけているという罪悪感の裏返しなのかな。

スティーブン、ジャックに頼みごとをする

スティーブンがベローナ号に戻ると、トーマス艦長が自艦へ帰るところでした。どうやら、艦隊司令官に呼び出されて叱責を受けていたらしく、怒りに顔色を変えていました。

「スティーブン、戻ったのか!」ジャックはスティーブンの顔を見て喜びますが、やはりストレスのたまった表情をしていました。「…まったく、誰彼かまわず鞭打ち刑にする奴は大嫌いだ。」「君に頼みたいことがあったのだが、タイミングが悪かったようだな。」「何でも言ってくれ。」「急いでロンドンまで行きたいので、リングル号を貸して欲しい。適当なクルーをつけて。」

ジャックはスティーブンをじっと見つめました。「艦隊が水曜に出航するのは知っているな?」「ああ。しかし、風に恵まれれば、後でランデブーできるだろう。…これは個人的なことだ。個人的な緊急事態なんだ。」「そうらしいな。よろしい、貸そう。」

ジャックはプリングズを呼んで命令しました。「ドクターがリングル号を借りたいそうだ。ボンデンとリードと、口の堅い古い仲間を揃えて、装備を整えてくれ。」

「恩に着るよ、ジャック。(I am very deeply obliged to you, Jack).」「兄弟、君とぼくの間には、恩義なんていうものはない。(There is no such thing as obligation between you and me, brother.)」



……

………

ジャック、やっぱりあなたはスバラシイ。

お互いの命を救ったことも一度や二度ではないこの二人。もう、貸しとか借りとか恩とか報いとか、そういうことは超越してしまった仲なのですね。まさに兄弟というか、兄弟以上というか…じーん。

リングル号の名前の由来

あ、そうだ。ここで、一章で書かなかった「リングル号の名前の由来」を。

リングル号(Ringle)は、ワシントン・ポスト紙の評論家ケン・リングル(Ken Ringle)氏からつけられたという、珍しい由来の船名です。

リングル氏は高名な評論家であると同時にオブライアンの長年のファンで、メーリングリスト「Gunroom」の初期の常連でもあったそうです。アメリカではほとんど知られていなかったパトリック・オブライアンが全米ベストセラーになるまでになったのも、リングル氏が1992年にワシントン・ポスト紙に書いた書評がきっかけであったそうです。

そして、オブライアンがこの「リングル号」を思いついたきっかけは、リングル氏がオブライアンに「ボルティモア・クリッパー」と呼ばれる船に関する本を送ったことだったそうです。それで、オブライアンは感謝のしるしに、この「ボルティモア・クリッパー」にリングル氏の名前をつけたのですね。

と、ここまでは微笑ましい話なのですが、でも…あ、以下はかなり横道にそれる上、どうしても実在の人物の悪口になってしまうので、別ページに隔離しました。長くてしつこくて性格悪い文章でもよいという方のみ(笑)、お読み下さい。

リングル号、ポーツマスからロンドンを目指す

リードが指揮し、ボンデンが舵を取るリングル号は、飛ぶようにポーツマスの港を離れ、一路ドーバーへ向かいました。「キャプテン」リードは、朝の上潮までにテームズ川の河口に着こうと、夜通し頑張りました。

そう、こんな小さな船でも、指揮をとる人はCaptainと呼ばれるのですね。「艦長」でなく「艇長」と訳されるようですが、そうするとCaptain's coxswain(艦長付き艇長:ボンデンとかの役職)と紛らわしいのよね〜。

とにかく、いつの間にかすっかり成長したリード君のがんばりと技術と、ボンデンの愛情をこめた舵さばきのおかげで、リングル号は10ノット、時には12ノットを超える猛スピードで英仏海峡を東へ駆け抜け、夜明けにスティーブンが目を覚ました時には、風待ちの商船が何百隻も錨を入れているダウンズ錨地に到着していました。首尾よく朝の上潮をつかまえ、すばらしいスピードでテムズ川を上るリングル号。

その日の夕暮れ頃にはロンドンに到着。スティーブンがローレンス弁護士のところに寄ってからグレープス亭に着いた頃には、サラとエミリーはもう寝ていましたが、翌朝二人は彼と一緒に朝食を取りました。

サラエミは元気も元気、もうすっかりこのグレープス亭になじんだようです。二人はコーヒーを淹れたりトーストを運んだり、その間ひっきりなしに、ロンドンの面白さ素晴らしさ、また南米やホーン岬の思い出話を喋りつづけるのでした。

グレープス亭がぴったり性に合った感じのサラ&エミリー。よかったね〜。ほらね、やっぱりシドニーに置いてこなくてよかったじゃん。

夕刻にスティーブンはローレンス弁護士と会い、彼がスティーブンの信任状にもとづいて銀行から出して準備を整えてくれていた財産(金塊をつめた箱)をリングル号に積み込み、今度はシェルマーストンに向かって出発しました。

リングル号、ダウンズで足止めをくった後、シェルマーストンへ

その後、リングル号はテムズ川を下ってダウンズ錨地へ戻りました。ここまでの素晴らしいスピードにキャプテン・リードは大得意で、ログ(航海日誌)の該当箇所にスティーブンの署名をもらいに来ました。「ドクターが証明して下さらなければ、このスピードを信じてもらえないでしょう!」彼は言いました。

…と、ここまでは順調にきたスティーブンの急ぎ旅ですが、ダウンズ錨地で、多くの商船を錨地に釘付けにしている逆風にリングル号も捕まってしまいました。

リングル号はそれから一週間をダウンズで過ごし、スティーブンはイライラのあまりコカに戻ったりしていたのですが(ありゃ〜)、いくらか風が変わったある日、ボンデンがリードに進言しました。「サー、乗員のモールドとヴァガースは元密輸業者です。いえ、もちろん今は更正していますが…このあたりで関税局のカッターから逃げるために覚えたワザがあるそうです。風がもう少しだけ西へ回れば、性能のいい縦帆艤装の艇なら、脱出できるコースがあるそうです。」

そこでリングル号は、動けない商船の群れを尻目に、「金槌と金床」と呼ばれる狭い水路をすり抜けてダウンズを脱出。あとは英仏海峡を飛ぶように走り、シェルマーストンまであっという間でした。

ジャックは「昔馴染みの乗員を」と言ったのに、モールドとヴァガースなんていう、あまり聞かない名前の人が乗っているのはなぜだろう?と思っていたのですが…もしかして、こういう事態をあらかじめ予想して、元密輸業者の彼らを選んでおいたのかな。さすがはプリングズ艦長。

スティーブン、バーラム・ダウンズへブリジッドたちを連れに行く

スティーブンがシェルマーストンから馬車でバーラムに着くと、クラリッサが一人で食事していました。スティーブンがドン・ラモーンから相続した素晴らしい銀食器をずらりと並べて。

「私がニュー・サウス・ウェールズを脱出した記念日ですの。」と彼女は言いました。「ワインでも召し上がります?」「そうだね。マイディア、聞いてくれ。我々は一時間以内にスペインへ発たなければならない。」

クラリッサが何も言えない間に、パディーンとブリジッドがバタバタと駆け込んで来ました。「うま!」ブリジッドが英語で叫びましたが、スティーブンを見て驚いて、黙ってしまいました。

あ、ブリジッドちゃんのセリフは「馬」です。幼児の言葉だからひらがなの方がいいかな、と思ったのですが…変かしら。パディーンと二階で遊んでいた時、スティーブンの馬車が入ってくるのが窓から見えたのですね。(彼女、両親のどちらに似ても、馬は大好きになるのではないかと。)

パディーンがブリジッドの手を取って、スティーブンのところへ連れて来ました。彼女は父親を明らかに興味を持って、微笑みさえ浮かべて見ると、アイルランド語で「神さまと聖母さまがともにありますように、おとうさま」と言いました。(パディーンが教えたあいさつなのでしょうね。)「神と聖母と聖パトリックが共にありますように、わが娘よ。これからみんなでスペインに行くんだよ。」

スティーブン、ブリジッドの変化に驚く

その後、家政婦がブリジッドにプディングをもってきました。

ここでブリジッドちゃんに供された「プディング」は、触るとぷるんぷるんと震えるやつだったようで、日本でいう「プリン」に近いものかな?ブリジッドはプディングを熱心にスプーンで叩いては、ぷるぷる揺らして遊んでいました。

「ブリジッド、食べ物で遊んではだめよ。お父様が何と思うでしょう。」クラリッサが叱ると、ブリジッドは恥ずかしそうにうつむきましたが、アイルランド語で父に囁きました。「すこしたべる?」「では、ほんの少しだけ。」

スティーブンはブリジッドの変化に驚き、魅了されていました。少しでも進歩があればいいと、あらゆる聖人に祈りを捧げていたが、これほど短期間で「外の世界」に住むようになるとは。

ブリジッドはプディングを食べ終わり、「馬車をみにいっていい?おとうさまも馬車をみる?」と言いました。「ハニー、ぼくはその馬車に乗って来たんだよ。それに、もうすぐみんなで馬車に乗って出発するんだ。」「パディーンとわたし、うしろの高い席にのっていい?」