Chapter 5-2 〜 ドクターのお嬢ちゃん


突然やってきたスティーブンに、いきなり「一時間以内にスペインに出発する」なんて言われたのに、さすがはクラリッサ、一瞬驚いたものの、すぐに事情をのみこんで、さっさと準備を整えました。ブリジッドちゃんはと言えば、馬車に乗れることが嬉しくて、他のことは目に入っていないようです。

スティーブン、クラリッサに状況説明する。

馬車の中で、スティーブンはクラリッサに状況を説明しました。

「…そういうわけで、恩赦が通るまで、敵の手の届かない国外にいた方がいいのです。ブリジッドをドクター・リャーズに見せたいとも思っていましたし−しかし、もう医者の手は必要なさそうですね。神に感謝を。」「こんなに喜びを感じたのは生まれて初めてです。毎日、花が開くようでした。最初はパディーンと動物とだけ話していたのですが、そのうちに英語を話すようになって、私やメイドとも話すようになって…」スティーブンは喜びのあまり、例の「きしるような、おかしな笑い声」を上げました。

「あなた方を、私の大叔母が院長をしているアヴィラの尼僧院にお連れします。あまり厳しい所ではありません。イングランド人やアイルランド人の尼僧もいますし、素晴らしい聖歌隊とブドウ畑があって、宿坊には貴婦人たちも滞在しています。退屈な暮らしでしょうが、少なくとも安全です。」「それで十分です。」

クラリッサって、やっぱりいい人だなあ…と思いました、ここを読んで。いや、「こんな喜びを感じたのは生まれて初めて」って、単なる表現じゃなくて、文字通りの真実なんじゃないかと思って。彼女は今まで、「我慢できないほど辛い状況から逃れられてよかった」という意味で「嬉しい」ことはあっても(流刑地から脱出した時みたいに)、本当の「喜び」を感じたことはなかったのではないかと…いや、オークスくんには悪いけど。

どう考えても不幸な生い立ちなのに、「悲劇のヒロイン」みたいな顔は全然しないで、しれっとしているのが彼女の素敵なところですけど。そして、「生まれて初めて喜びを感じた」のが、自分のことや自分の子供や恋人や夫ことではなく、友人の子供のことだというのが、なんかいいなあと思って。

クラリッサ、ソフィーとトラブルがあったことを語る

馬車は、アッシュグローブの近くを通りました。

「ミセス・オーブリーにご挨拶をして行ってよろしいですか?何も言わずに行ったら、敵意があると思われます。」「時間がありません。…敵意?」「実は、不運なことがありまして…」

「彼女はときどき、私とブリジッドの様子を見に来て下さっていたので、ある時ディナーにご招待したのです。私は一番いいドレスを…結婚式の時、オーブリー艦長が下さった赤い絹のドレスを着たのですが、ミセス・オーブリーがまったく同じドレスを着ていらしたのです。私たちはあっけにとられて、ばかみたいに見つめ合っているうちに、他のお客が来てしまいまして…愛人の残り物をもらったと思い込んでしまわれたと思います。」

やれやれ。ドジですな〜…ジャックは。

映画で、ジャックの乾杯の音頭「To wives and sweethearts...May they never meet.(妻たち、恋人たちに…彼女たちが顔を合わせることがありませんように)」に、「鉢合わせは勘弁」というステキな字幕がついていましたが…これも一種の「鉢合わせ?」

まあ、ジャックにしてみれば、(彼女に関しては)やましい所がないからこそ、こういう「鉢合わせ」が起こる可能性を思いつきもしなかったのでしょうけど。でも、ソフィーが怒るのは当然だよなあ…気をつけましょうね、プレゼントする時は。

ブリジッドちゃん、初めての海に大はしゃぎする

ボートの待つ砂浜まで来ると、生まれて初めて海を見たブリジッドは「うみ!うみ!」と叫びました。砂浜を走り回って、海藻を拾い集め、服の胸のところにしまったかと思うと、ボンデンに駆け寄って、小さな手を差し出して言いました。「はじめまして。」

ボートの乗組員たちは、限りない愛情をもってブリジッドを歓迎しました。「ドクターの嬢ちゃんを船首に座らせろ。」

ブリジッドはボートの舳先に座らせてもらって大はしゃぎ。リングル号に乗船してからも、キャビンでじっとしていないで、「うごいてる!」とはしゃいで、狭い甲板をとことこ走り回り、落っこちたりしないように、スティーブンとパディーンと水兵たちが後をついてまわらなければなりませんでした。

その後は、老水兵のモールドの首につかまってマストに登らせてもらったり、風上に進むリングル号が傾いて海水をかぶるたびに、よろこんで声を上げたり…遊び疲れて、夕食の席でちいさな手に堅パンを持ったまま寝てしまい、小さいハンモックに運ばれてゆきました。

ブリジッドちゃん、「スキリーガリーの歌」を歌う

翌朝、スティーブンが起きて甲板に行くと、リード君がクラリッサと話をしていました。「私としては、もっとスピードを上げたいのですが、みんなが渋っているのです。『お嬢ちゃんの初めての船旅だから、やさしく走らせる』とか言って。どんなに揺れても、あの子が気にするとは思えないのですが。…ドクター、おはようございます。お嬢さんは朝食に何を召し上がりますか?」

「さあ、何だろう。」と、頼りない父親のドクター。「ミセス・オークス、子供は何を食べるものですか?」「ミルクです。」それを聞いた水兵たちは、「知っていれば持って来たのに」「親戚にヤギを借りたのに」などと、さんざん悔しがるのでした(笑)。

結局、「堅パンとビール」という案(おいおい)をミセス・オークスが却下した後、ブリジッドの朝食はスキリーガリーに落ち着きました。

幸い、ブリジッドはスキリーガリーが大いに気に入ったようです。今まで食べたものの中で一番美味しい、誕生日のごちそうよりすてき、と思ったようで…がつがつと食べ、おかわりをねだり、食事が終わると、甲板でスキップをしながら、昼食までずっと、「♪スキリーガリー、スキリーガルー、スキリーガリー、オー、ホー、ホー、ホー」と、何度も何度も、リングル号のクルーのように気がよくて忍耐強い人々でなければとても我慢できないだろうという勢いで、繰り返し繰り返し歌いつづけるのでした。

ブリジッドちゃんがこれほど気に入った「スキリーガリー」、どんなもんかと思って、例によって「Lobscouse & Spotted Dog」のレシピで作ってみました。

<スキリーガリーのつくりかた>
大さじ2杯のオートミールを細かい粉に挽き、冷水大さじ4杯とよく混ぜ合わせて30分おく。1カップの熱湯を少しずつ混ぜ入れる。混ぜながら沸騰させた後、さらに混ぜながら中火で10分。火からおろして、塩小さじ4分の1、バター大さじ2杯、砂糖小さじ2杯を入れて溶けるまで混ぜる。


私が作ったものの写真はコレ。(…うーん、写真を撮る意味はまったくなかったかも。)残念ながら、私はブリジッドちゃんほど美味しいと思わなかったのですが…塩気と砂糖の組み合せが、好みじゃなかったみたい。でも、よろしかったらお試しください。

ブリジッドちゃん、あっという間に海上生活に馴染む

リングル号は英仏海峡を12ノットで疾走し、ブリジッドはほとんど一日中を船首に座り、ずぶ濡れになるのも気にせずに、リングルが胸躍るスピードで波を越えて行くのを楽しんで過ごしました。(スピード狂のところは、ダイアナの血を引いているか?)

スティーブンは時々、娘にネズミイルカやミズナギドリを指差して見せてあげるのでした。(スティーブンのDNAをついで動物好きかどうかは、まだ不明。バーラムの馬やブタやニワトリは好きだったみたいだけど。)

また彼女は船の揺れにも強く、けっこう大きく揺れている甲板を平気で走っています。スレード(水兵のひとり)が、「君は生まれつきのシーレッグ(船上歩行能力)を持っているね。」というと、ブリジッドは「わたし、もうずっと海にいる!」と言うのでした。(ダイアナもスティーブンもシーレッグは持っていないが…これは誰の遺伝子だ?)

スペインまでの短い航海の間に、たちまちリングル号の全員をめろめろにしてしまったブリジッドちゃん。(つか、私もめろめろです。)この破壊的な可愛さは、やっぱりスティーブンのDNAかもしれない(笑)。リード君だけは、そうでもないようですけど。自身がまだ若いし、今は別のカワイコちゃんに夢中なので(リングル号のことです)。

スティーブン、パディーンにブリジッドとクラリッサのことを頼む

スペインの北岸が遠くに見えてきたある早朝、スティーブンとパディーンは釣りをしながら話をしました。

「あれがスペインだ。あそこに上陸すれば、もう捕まることもないし、流刑地に戻されることもない。それに、一年以内には恩赦がおりるだろうから、そうすればどこでも好きなところへ行ける…しかし、パディーン、今はブリジッドとミセス・オークスと一緒にアヴィラへ行って、二人を守ってほしいんだ。1年間、二人を忠実に守ってくれたら、私がアイルランドのクレア郡に持っている農場をあげよう。17エーカーの農地と、家と、牝牛が3頭、ロバと豚もいる。」

「ブリディーンのことなら、何ももらえなくても千年だって守りますけど、土地をもらえるのは素晴らしいです。昔、じいちゃんが3エーカーの農地を持っていました…」

夜明けの薄明かりの中で、二人は農業のすばらしさ、作物が育つのを見る楽しさ、収穫の喜びについて語り合いました。…というより、珍しくパディーンが語るのをスティーブンが聞いていました。パディーンは、今まであまり出てこなかったけど、本当は先祖代々、根っからの農夫なのですね。船乗りの生活にもまあまあ適応しているけど、繊細で動揺しやすく、誰かが怪我をすると同情しておいおい泣いてしまうような彼の性格は、過酷な軍艦生活には本当はあまりむいていないのかも…

その時、艦尾からボンデンの叫ぶ声が聞こえました。「総員、総員!甲板へ集合!」

フランスの私掠船ラガーが現れる

キャプテン・リードが寝間着のまま飛び出してきて、次々に命令を下しています。(おお、かっこいい!)半マイルほど後に、一隻のラガー(三本マストの縦帆船)が見え、このあたりに詳しい水兵たちによると、それはマリー=ポール号というフランスの私掠船だそうです。

スティーブンは、状況が絶望的であることを察知しました。リングル号の行く手には、ケープ・ヴァレスという名の岬が立ちはだかっており、このままのコースではとても岬の先を回れない。岬を避けるためにコースを変えて外海に向かえば、フランスのラガーに追いつかれてしまう…戦闘員を満載した私掠船は、刻々と近づいてきています。

彼は、このリングル号に乗っている彼の(ほとんど)全財産のことを思い、娘のことを思い、この金があるとないでは、自分と娘の未来に天と地の差がでるだろうと考えました。自分がこれほど、金を大事に思うようになるとは思わなかった…

リングル号、ヴァレス岬を「ビスケット・トス」で通過する

ところが、スティーブンがこれほど心配しているというのに、彼の方を振り返ったキャプテン・リードの顔は、どこか幸せそうな輝きを宿していました。そう、このような危機に直面した時のジャック・オーブリーそっくりな、ワイルドな喜びの表情。「ドクター、下がって。見ていて下さい。」彼はスレードに、ビスケット(堅パン)がどうのこうの、と命令し、ボンデンと二人で慎重に舵を操りはじめました。

そびえ立つ岬の断崖はどんどん近くなり、外海に突き出た岬の先端を、9メートルも離れていないまさにギリギリのところで、リングル号は回り込みました。ちょうど先端を通り過ぎる瞬間、リードがスレードに命令しました-「思い切り投げろ。」スレードの投げた航海用ビスケットは岩に命中し、リングル号の水兵たちは一斉に大きな笑い声を上げました。

岬を越えて安全圏に逃れたリングル号は、敵をどんどん引き離し、昼頃にはラガーは見えなくなりました。船乗りたちは「おれたちはヴァレス岬を『ビスケット・トスで』回った」と笑い合っていましたが、きょとんとしているクラリッサとブリジッドに、その意味をうまく説明することはできなかったのでした。

「ビスケット・トス(within a biscuit toss)=ビスケットを投げれば届くぐらいの」というのは、「とても近い、ぎりぎりのところを」という船乗り的表現なのですが…リードくんはこれを実地で証明したのですね。それにしてもこの表現、なぜ「ビスケット・トス」なのか?ま、航海用ビスケット(堅パン)なら必ず船にあるし、食品以外の備品をやたらに投げるわけにもゆかないし、「必ずある食品」でも肉を投げるのはもったいないし、乾燥豆は小さすぎて投げにくいし…ということかな?

リングル号、スペインのコルーニャに到着。スティーブン、ブリジッドたちと別れる

そうこうする間に、リングル号はスペイン北岸のコルーニャ港に到着しました。

スペインには親戚も友人もコネも豊富なスティーブン。さっそく、当地の友人が頭取をしている銀行に財産を預け、従兄弟の陸軍大佐に頼んで、ブリジッドたちをアヴィラまで送る馬車を手配してもらいました。

そういうわけで、陸軍のものものしい護衛を従えた、八頭立ての豪華な馬車が、ブリジッド・パディーン・クラリッサを乗せてアヴィラへ向かいました。リングル号の艦首に立ったスティーブンは、馬車から振られる二枚の白いハンカチが見えなくなるまで見送っていました。

「あの、ドクター…」淋しそうなスティーブンに、リードが遠慮がちに話し掛けました。「コルーニャで艦隊に会えなかった場合の、次のランデブー地点をうかがっていませんでしたが…」

「あ、言っていなかったか?それは……ジーサズ、メリーアンドジョセフ、名前を忘れてしまった。えーと、海上につきでた岩で、ミズナギドリとツノメドリがいて、コウモリが沢山いる洞窟のあるところだ。えーと…バーリングだ!思い出した、バーリングだ。」


ブリジッドについて(その2)

ここで、お約束どおり「ニキさんへの質問」の続きです。「5章のブリジッドちゃんはめちゃくちゃカワイイけど、なんか初登場時とは別人みたいじゃん?こんなに急に変わるもんなの?」という質問でした。ニキさん、またまた丁寧で分かりやすいお答え、まことにありがとうございました。

ブリジッド・マチュリン嬢について