Chapter 6 〜 夫婦喧嘩


財産をコルーニャの友人の銀行に預け、ブリジッド・クラリッサ・パディーンを安全にアヴィラの尼僧院に送ったスティーブン。娘と別れるのは淋しいけど、とりあえず安心して、艦隊とのランデブー地点へ向かうのでした。

リングル号、艦隊に追いつく。

その後も、リングル号は快調に航海を続け、ランデブー地点のバーリングに近づきました。岩が見えるか見えないかのところへ来ると、艦隊は見えるより前に、聞こえてきました。大海戦を戦っているような、舷側砲の轟音が響き渡っていたのです。

もし海戦なら、終わる前になんとか追いついて参加したいキャプテン・リードは、帆を張り上げて急ぐのですが…モールドがマストに登って確認したところによると、砲撃訓練をしているだけでした。しかし、その訓練は「両舷の砲を同時に撃つ」という、めったに行われない大掛かりなものでした。

ベローナに戻ったスティーブンを、元サプライズ号のシップメイトたちと、勅任艦長の軍服を着たトム・プリングズが温かく迎えました。「おかえりなさい、ドクター、早かったですね。艦長…いえ、艦隊司令官がお喜びになります。」「その上着、とてもよく似合うよ。」「ええ、正直に言って、とても気に入っています。」彼は嬉しそうな笑い声をあげました。

スティーブンがキャビンに入った時、背を向けて書類仕事をしているジャックがあまりに不幸そうな顔をしていたので、スティーブンは一瞬、声をかけるのをためらったほどでした。

しかし、スティーブンに気づくと、彼はいつもより強く彼を抱きしめて「ああ、スティーブン!会えてどんなに嬉しいか!」と叫びました。「旅はどうだった?家から手紙を持ってきてくれたか?」「いいや。がっかりさせてすまない。」「気にするな。つい一昨日、リスボンから来たばかりだ。それが、とても不愉快な手紙で…」

ソフィーからの手紙がなぜ不愉快だったか、理由はご想像の通り。でも、手紙を出さないのではなくて、不愉快でも出すってところが、ソフィーですねえ。いやなんとなく。

ベローナ号、艦隊に砲撃の「お手本」を見せる。

そこへ、プリングズが砲撃訓練の結果を持ってきましたが、あまり思わしい成績ではなかったようです。特にテームズ号は、海戦経験のないトーマス艦長が砲撃の重要性を理解していないので、今までほとんど実射訓練をしたことがなく、ひどい成績でした。

そこで、ジャックは旗艦のベローナ号に、両舷同時砲撃の「模範演技」をさせることにしました。ベローナの各砲の砲手長は、ほとんどがジャックの鍛えた元サプライズ号なのですが、さすがに両舷同時はあまりやったことがなく、「お手本を示せ」と言われてすごいプレッシャー。でも、われらが艦隊司令官に軽蔑されたくない気持ちは強いので、みんなは全力を尽くしました。

プリングズ艦長とてその気持ちは同じ。模範演技が終わった時、いかにも心配そうな顔のプリングズに、艦隊司令官は言いました。「5分で3回の標準にはまだ及ばないが…これからもっと速くなる見込みはあるな。少なくとも、艦隊に見本を見せることはできた。ドクター、どうだった?」

「片舷の砲撃なら見たことがあるが、両舷を同時に撃つのが、こんなに大変なことだとは思わなかった。ガンデッキは地獄のようだろう。」「何にでも慣れるものだ。君の鋸とか、血でいっぱいのバケツに耐えられる者は少ないが、君は髪の毛一本動かさないじゃないか。」

ジャックはそう言うけど…どっちも、慣れるのはすごく大変そうです。ある程度、もともとの適性がないと、それこそ地獄だろうなあ。元々の適性がまったくない人が医者になることはないでしょうけど、軍艦の砲手となると、適性もへったくれもなくムリヤリならされることがあるからねえ。

キリックとボンデン、フォアトップでつもる話をする

その夕方、キリックはボンデンとフォアトップで待ち合わせをしていました。つもる話を交換するためです。艦上では「艦隊司令官の艇長」の威光はすごいので、フォアトップでゲームをしていた若い水兵たちは、ボンデンの「どけ」とひとことで、そそくさと去って行きました。

キリックとボンデンって、年齢も性格もまるで違うし、この二人が「親友」だと示すようなシーンは、今まで特になかったのですが…まあ、長年にわたってほぼ常にオーブリー艦長についてきているのはこの二人だけだから、違いを乗り越えて、自然と親しくなったのでしょうね。

「いったい、このフネはどうしちまったんだ?」人払いをしたトップで、ボンデンはキリックに聞きました。「ポーツマスを出る時はハッピーな艦だったのに。みんな、提督の査察の直前みたいにぴりぴりしてる。」「あのマヌケなテームズ号の『紫の皇帝』のせいもあるし、ステートリー号のオカマどものせいもあるが…本当は艦隊司令官の家庭争議のせいだ。」「家庭争議?」

「艦長…いや艦隊司令官が海に出ていた間、ミセス・オーブリーはアッシュグローブだけじゃなく、ウールコムの面倒も一人で見ていなさったんだ。弁護士が年寄りで頼りにならないもんでな。で、借地の相続の件で、艦長の指示がはっきりしないところがあって…帰って来たら、奥様の采配と艦長の意志が違っているところがあったんだ。それで、ちょくちょく言い争いをなさってた。」

「ま、そんなこたあ普通なら何でもないんだが、意見の食い違った点で奥様に助言していたのが、あのヒンクゼイ牧師だったんだ。艦長がいない間、牧師は毎週のようにアッシュグローブに来て、艦長の椅子に座っていたそうだ。でも、そんなこととは比べ物にならねえのが、ミセス・オークスの一件よ。」

「艦長がロンドンに行っていた時、ソフィーさんはバーラムに行ったんだ。ドクターのかわいそうな私生児の面倒を見に…」「私生児じゃねえよ。見たこともねえくらい、可愛らしい嬢ちゃんだ。パディーンとは二人の言葉でしゃべくって、おれたちにはちゃんとした言葉で話すんだ。船に水が飛んでくると笑うし、モールドじいさんの肩に乗ってマストに登ったし、ちっとも船酔いしねえし…海が大好きな子だ。ほんとうに可愛い嬢ちゃんで、ドクターはそりゃあ幸せそうで、まるで…」(ああ、ボンデンもめろめろなのね。)

「何があったか、詳しくはわからねえんだが…」ブリジッドに会っていない(従って興味もない)キリックは、ボンデンを遮って続けました。「なんでも、艦長がジャワで買いなさったあの絹のことらしい。とにかく、奥様は帰ってくるなりドレスを脱ぎ捨てて、もう二度と着ないって、メイドにやっちまったんだ。」

「艦長が戻った時、またウールコムの借地の話が出て、艦長は『夫よりヒンクゼイ牧師の言う事を重んじるようなら、もう会うべきじゃない』とかなんとか言ったんだ。それで奥様はついに堪忍袋の緒が切れて、『私はあなたの売春婦のおさがりをもらった上に、彼女に礼儀正しくしているのに、そんな言いがかりをつけられるなら』とかなんとか言って、結婚指輪を外して窓の外に投げたのさ。まったく、あんなに度胸のある人とは、みんな思ってもみなかったぜ。涙も流さず、汚い言葉も使わず、物を壊したりもしてねえのに、艦長をあれだけ振り回しちまうとは…それから出航するまで、艦長はサマーハウスで、奥様はドレッシングルームに鍵をかけて寝て、出発の時もケンカ別れだったそうだ。」

いいぞソフィー!がんばれソフィー!偉いぞソフィー!この際、思い切り言ってやれ!

…いや、ジャックには悪いのですが(笑)。でも、この「結婚指輪を庭に投げた」というところを読んで、私は初めて、心からソフィーが大好きになりました。それまでも嫌いだったわけじゃないけど。怒ると怖いことは前から分かっていたのですが、十年に一度ぐらいしか爆発しないからな、この人。(<火山みたいな言い方ですが。)

というわけで、艦隊司令官の機嫌が悪いために、艦隊全体がピリピリしたムードに包まれているのでした。…ジャックを振り回すことは、同時に彼の艦隊の乗員千人以上を振り回すことにもなるのですね。

ジャックとスティーブン、食事をしながら話をする

その後、ジャックとスティーブンは一緒に夕食。ジャックはうちしおれた様子で、気の毒なほどです。その原因を知らないフリで、スティーブンはロンドンでヒンクゼイ牧師と偶然会って食事した話をしました。

「ヒンクゼイはハンサムだと思われているようだな。そう言われているのを聞いた。」「彼のどこがいいのか、おれにはわからん。」ジャックは不機嫌に言いました。「女性は魅力を感じるらしい。少なくとも、ルーシー・スミス嬢は。東インド会社の重役の娘で、彼の求婚を承諾したそうだ。彼が得意そうに話してくれたよ。スミス嬢の父親はこの結婚をとても喜んで、コネで彼をボンベイの司教に抜擢したらしい。すぐに夫婦で赴任すると言っていた。」

それを聞いたジャックは、ゲンキンなものであっという間に機嫌が直り、たちまち目の輝きがもどってきました。「スティーブン、それを教えてくれて、どんなに嬉しいか…君に馬鹿げたことを言う所だった。」「言わなくてよかった。」「しかし…はっきり糾弾したわけではないし…」「兄弟、それでは、尻を蹴っておいて『顔は叩いていない』と言うようなものだ。」「でも…それにしたって、『あなたの売春婦』は言い過ぎだと思わないか?おれが無罪なのはソフィーもよく知っているのに。」「彼女とはな。でも、他に何人有罪の相手がいる?今回のことはただの不運だが、それで君の道徳的立場が上がるわけじゃない。君にできることは、這いつくばって胸をたたいてPeccavi(ラテン語:私が悪かった)と叫ぶことぐらいだ。」

「君がぼくに相談なんてしなくてよかった。どちらにせよ、君に同情はできなかっただろう。ぼくは明日、難しい結石の手術をする予定だ。患者は苦しんで死ぬことになるかもしれない。それに比べたら夫婦喧嘩なんて、とりわけ、お互いの単なる勘違いから生まれた夫婦喧嘩なんて、ささいな問題に思えるよ。」