Chapter 9-1 〜 黄熱病


スティーブン、充実した観察の後で艦に戻るが、体調をくずす

コビトカバ、アカカワイノシシ、チャモモザル, チンパンジー、スティーブンを追いかけてバオバブの木に登らせた怒りっぽい象。クルー・パイソン、サイチョウ、センザンコウ、タイヨウチョウ、ハタオリドリ、魚食ハゲタカ、月夜に発見したけど、どうしても撃つことができなかった愛らしいポト

フィリップ・アイランドでの観察は、短いけれど充実したものになり、山ほどの標本を持ってベローナ号に戻ったドクター。戻ってからしばらくは、拿捕奴隷船やマラリアが発生したシックバースで忙しかったのですが、ようやくそれが一段落ついたところで、記憶の薄れないうちに観察記録を書いてしまおうと机に向かいました。ところが、いつもならすらすらと出てくる文章が、なぜかさっぱり浮かびません。

ディナーでワインを飲みすぎたせいかと思って、コーヒーを飲んだり、コカの葉を噛んだりするのですが、さっぱり治らず、頭に霧がかかったようでした。悪い予感がして鏡のところへ行き、舌を出してみると…思ったとおり真っ赤になっていました。目の周りも赤く、唇も紅を引いたように真っ赤です。熱はまだ微熱程度なのですが、これはもしかして…

スティーブン、黄熱病にかかる。

スティーブンはシックバースへ行き、助手のスミスに訊ねました。「君は西インド諸島で黄熱病の患者を診た経験があるね?」「はい、最も死者の多い病気でした。」「手が空いたら、明るいところで私を診察してくれないか。」

上司が相手ながら、スミスは落ち着いて念入りにスティーブンを診察して、言いました。「黄熱病の初期症状が当てはまるようです。私の経験不足からくる間違いだといいのですが…」

スティーブンは、自分の治療に関してスミスに指示を与えました。「私は黄熱病は感染しないと信じているが、シップメイトたちを心配させないために、オーロップ(最下甲板)の自分の部屋で寝ることにする。掃除して、風を入れておいてくれ。西アフリカの巨大ゴキブリは、一匹なら興味深い昆虫だが、沢山いると厄介なものだからな。」(ひえ〜)

スミスがオーロップを用意する間、彼は誰もいないワードルームに行き、艦尾窓から航跡を見つめながら考えに沈みました。黄熱病の死亡率はほぼ八割。彼は英国を発つ前、ローレンス弁護士のすすめで「鉄壁の遺言状」を作ってきている。ダイアナとブリジッドとクラリッサと他の人々(パディーンとサラ&エミリー)の面倒を見てくれるように、信頼できる紳士を指名してある…(それってサー・ジョセフ?)

黄熱病に関しては、医者として見てきた限りでは、同じ症状なら、人生に執着の強い患者の方が生き残る可能性が高い。…例えば、すばらしい娘や、豊富な財産や、おそらく新種である顕花植物の標本を持っている者なら…「何だ?」

「艦隊司令官から伝言です。お時間があれば、おいでいただきたいとのことです。」使いの士官候補生が言いました。

黄熱病(yellow fever、yellow jack)に関しては、またもウィキペディアですが、リンクを参照。

ウィキペディア 黄熱病

スティーブンは黄熱病が「感染しない」と言っていて、「あれ、伝染病じゃなかったのか?」と思ったのですが…この場合の「感染」は空気感染のことを言っているようですね。黄熱病はマラリアと同じく蚊が媒介して伝染するので、空気感染や接触感染はしません。その意味では「感染しない」というのは正しいのです。この当時は、蚊が媒介するということはわかっていなかったのですが。(私もこれまで知らなかった。)

あと…私の世代の日本人なら野口英世の伝記を必ず読んでいると思うので、黄熱病といえば野口英世なのですが…彼は黄熱病の治療法を発見したとか、そういうわけじゃないのね。今までなんとなく勘違いしていたようです。

ジャック、スティーブンをグレートキャビンに寝かせる

すでにガクガクする脚をひきずって、グレートキャビンまでたどり着いたスティーブンを、ジャックとプリングズがニコニコと迎えました。「今までの経緯を報告書にまとめたんだが、君に読んで直して欲しいんだ。君のエレガントなフレーズを入れてほしい。」とジャック。

「…『できるかぎり急襲的に(expendiently)』とはどういう意味だい?」「できるだけ速くってことです。『急襲作戦(expedition)』とか言うでしょう?」とトム。「『できるだけ速く』ではだめなのか?」「いえ、それでは下品です。」「『可及的速やかに(with the utmost celerity)』では?」「それです。」トムはにっこりしました。「綴りを教えてくれますか?綴りは…ドクター、大丈夫ですか?

椅子に座ったまま、苦しそうに息をついでいるスティーブンを見て、驚き心配する二人。ジャックはベルを鳴らして、キリックたちに寝台と寝間着と室内便器の用意を命じました。

スティーブンは、オーロップの部屋に行くと主張するのですが、今は身体も心も弱っているため、ジャックとプリングズの断固たる優しさには逆らえないのでした。「感染が何だ。おれは子供の頃、ジャマイカでちょっとやった。だからメンエキがある。それに、この病気は感染しないんだ。」「ドクター、顔色が真っ青です。オーロップなんかじゃなくて、新鮮な空気の入るところじゃないとだめですよ。」

スティーブンは結局、艦尾楼の日よけをつけた天窓の下に吊るした寝台に寝かされるのでした。

スティーブン、黄熱病と戦う。

倒れて二日目、スティーブンは自分を症例にして、助手のスミスとマコーレーに黄熱病の各段階の症状を暗唱させるのでした。

第一期: 1日目、眠気、悪寒、微熱、著しい発汗、筋肉痛。2日目、尿にくもり、または血尿、抑鬱状態。3日目、嘔吐、衰弱。

第二期: 心拍衰弱、体温低下、黄疸、黒色嘔吐、ますます強い抑鬱、譫妄状態。期間は一定せず、この後は回復するか、第三期に移行する。

第三期: 再び高熱、発汗。心拍衰弱、不整脈、呼吸困難、嚥下困難。8〜10日の昏睡状態の後、死に至る。

重病になっても、さすがはスティーブンという感じですが…その後は衰弱がひどくなり、寝台に横たわったまま、意識と無意識の間を行ったり来たりしていました。艦尾楼の天窓の真下という、おそらく艦内では最も静かで環境のよい場所に寝ているとはいえ、艦尾甲板や艦尾楼で仕事をする水兵たちの会話が、時折彼のぼんやりした意識に入ってきました。

「ドクターはおれたちが熱病にかからないようにって上陸を禁止したのに、自分がかかっちまった!」元サプライズ号ではない、ドクターとはあまり親しくない水兵が笑うと、別の水兵が「バレット・ボンデンに聞こえるところでは、そんなことは言わねえ方がいいぞ。」と忠告しました。「ディックみたいに、顔の残り半分で笑うはめになりたくなけりゃあな。」

そんな意地悪を言う人は少なくても、水兵たちは艦尾楼に用事がある時は、天窓の近くはなるべく避けるようにしていました。「そこは近づかない方がいいぜ。下に軍医が寝ている。」「キリックはうつらねえって言ってたぞ。」「うつらねえなら、何で奴さんは炭を口に入れて、顔に酢とグレゴリーの万能薬を塗っているんだ?キャビンに用事がある時は息を止めて駆け足してるんだ?うつらねえが聞いて呆れらあ。

「第二期」に入ったスティーブンは、譫妄状態に近くなりながら、多分コカの葉の効果で、半分ぐらい意識を保っていました。…まあ、こういう極端な状況なら、コカを使うのを許可してもいいかな。(<二回目。)

実は私、最近ちょっと体調がすぐれないので…と言っても、私の「体調が悪い」は免疫(アレルギー)が暴走しているだけなんですけど…病気のことを書くのは(本当はそれより蚊やゴキブリのことを書くのが)、ちょっとしんどいのですけど…でも、看病ネタは好きです。うふふ。

こういう時は特に優しくて頼りになるジャックとプリングズも、病床のドクターを笑うヤツに思わず手が出るボンデンも、心配はしているのだろうけど、こういうとこは相変わらずなキリックも、素敵です。家族だなあ〜。

ジャック、スティーブンを看病する

スティーブンは常に、心慰められるジャックの存在を意識していた。彼は部屋の中を静かに歩き回り、時々、低い声で話し、彼に水を飲ませ、嘔吐するときに身体を支え…


…何日かたったか判然としない頃、天窓から「あんなに黄色い身体は見たことがねえ」という声が聞こえました。「体中、ギニー金貨みてえだ。ムラサキのぶつぶつつきの…ドクター(軍医助手)たちは、2日以内によくならねえなら、日曜には葬式だと言っていた。」

その日曜が無事に過ぎ、次の火曜日。彼の寝台のそばに座ったスミスとマコーレーは嬉しそうでした。

「サー、あなたは第三期を回避されました。あなたの脈を取るのも、排泄物を調べるのも喜びです。金曜以来、下血はほんの僅かだし、体力もグラスを持ち上げられるほどに回復しています。森をうろうろできるようになるまでには、まだ長い時間がかかるでしょうけど、回復おめでとうと申し上げてよろしいかと思います。」「回復おめでとうございます、サー。」スミスとマコーレーはやさしくスティーブンの手を握りました。

「あなたの排泄物を調べるのは喜びです」って…いや、状況を勘案すると全然ヘンじゃないのですけどね。でも、この表現はスティーブンの教育という気がする(笑)。

ジャックのcomforting presenceいう表現が好きです。スティーブンにとって、ジャックがかけがえのない存在であるのに加えて…前に「危機的状況では、なるべくジャックにくっついていたい」と書いたことがありますが、病気とかで心身が弱っているときにも、そばにいてくれればありがたい人かなあと。「ああ、いるな」と思うだけで、心強い存在という気がするのです。縁起物というか。プラスのエネルギーの発生源というか。歩くパワースポットというか(なんじゃそりゃ)

スティーブン回復し、ジャックから寝込んでいた間の成果を聞く

スティーブンが、ふくらはぎのない棒のような脚で立って、艦尾船室をうろうろできるようになるまでにも長い時間がかかりましたが(私のふくらはぎを半分わけてあげたい…)、ようやくジャックと食事しながら、寝込んでいた間のことを聞けるまでに回復しました。

「助手たちが、君を興奮させてはいけないと言ったし、面白いことがあった時には君は寝ていたしなあ。」ジャックは言いました。スティーブンが見逃した戦果は赫赫たるもので、18隻の奴隷船を拿捕してシエラレオネに回航し、なんと男女あわせて6120人の黒人を解放したそうです。すごい!

「それは素晴らしい!」と、スティーブンは叫びました。「後でヒューエルが報告に来るから、拿捕した奴隷船ごとの詳しい話をしてもらうといい。」「しかし、大成功を収めたわりに、君は悲しそうだな。この何週間か、スターンギャラリーから聞こえる君のバイオリンの音に支えられてきたが、ピアニッシモでDマイナーばかりだった。船が沈むのかい?」「まあ、悲しいのは確かだ。後方で指揮をとるのは嫌いだし、若い連中に犠牲が出たことも悲しいし…でも、悲しいというより心配なんだ。

「ひとつには、風の状態が思わしくなくて、もしかしたらフランス艦隊のランデブー地点に間に合うように到着できないかもしれないことだ。もうひとつは、たとえ間に合ったとしても、ちゃんと戦えるかどうか…艦隊の勢力の大きな部分を占める二隻が…ステートリー号とテームズ号があんな状態では。

「ダフのことは好きだし、いい船乗りだし、男色家でもかまわんのだが…軍艦の上ではつつしんでくれないと。女が1人乗っただけで軍艦はおかしくなる。女が5、6人も乗っていたら、艦はめちゃくちゃだ。…それが、相手が男となると、艦の全員が対象だ!これを何とか分からせようとしているのだが、おれは言葉の表現が下手だから、うまくいかなかったんだ。ダフは男らしさや、戦闘での勇気さえあればいいと思っている。ステートリーの士官たちは軍法会議に訴えると言い出している。証拠があるそうだ。有罪なら絞首刑は免れない。それはよくない。海軍全体のために、あらゆる意味でよくないことだ。

「テームズ号の『紫の皇帝』の方は(当然、ダフとは犬猿の仲だ)相変わらずで、おれが始終介入していなければ、とっくに反乱が起きているところだ。おまけに、自分と同じように無能で横暴な士官たちをとりまきに揃えている。英国海軍の艦で、あんなに徹底して無能揃いの士官たちは見たことも聞いたこともないよ。」「北への長い航海が始まって、忙しくなればましになるんじゃないか?」「そうだといいが。」

スティーブン、チェロを弾く。

「スティーブン、背中にクッションを当ててロープをまわしたら、チェロを支えられるんじゃないか?海は穏やかだし。」

そこへ、ヒューエルが報告にやってきました。彼は今や立派な海尉で、セストス号というカッターを指揮している「キャプテン・ヒューエル」です。専門知識を生かせる作戦に恵まれ、水を得た魚のようで、沿岸艦隊の小型艦艇を指揮しています。

「ドクターのお具合はいかがですか?」彼は艦隊司令官に聞きました。ジャックは、少しおぼつかないチェロの音色の聞こえてくるキャビンの方を指し、嬉しそうに言いました。「彼にとどめをさすには、黄熱病ぐらいじゃ足りないようだ。