ブリジッド・マチュリン嬢についてのあれこれ−その2(17巻5章ネタバレ)



これはパトリック・オブライアン著「The Commodore」(オーブリー&マチュリン シリーズ17巻)の登場人物であるブリジッド・マチュリン嬢に関して、管理人(Kumiko)が翻訳家のニキ リンコさんにメールでした質問とそのお答え(サイト用に編集ずみ)を、許可を頂いて転載しているものです。黒字の部分がニキさんの、オリーブ色の部分が管理人の発言です。

質問1:カードのお家(17巻3章までのネタバレ 【 】内は17巻5章までのネタバレ)

質問2:ブリジッドとパディーン(同上)

質問3:ブリジッドの変化(17巻5章までのネタバレ)

ニキ リンコさんのサイト:自閉連邦在地球領事館附属図書館



質問3:一番ききたかったことは…「ブリジッドのように劇的に状態が変わることは、あることなんでしょうか?」ということでした。Gunroomでブリジッドのことを検索すると、この点が引っかかって「ブリジッドはAutismではない」と主張している人もいるようです。誰かとの出会いがきっかけで短期間で変わることもあるのかな〜とは思うのですが、ブリジッドちゃんの場合、それにしてもすごい急速なような…



これも、いろんなテーマがまざって入ってますから、分けましょうね。

まず、1) 文章の記述を読んでautisticか否かを判断することが可能かどうか、ということ。
次に、2) 判断できたとして、それをネットで発表してかまわないのかどうか、ということ(まあ、相手が実在の著名人などとちがって、架空の人物だという特殊な事情はありますけどね)。
それから、3) 判断するにしても、実際、どこで、そして、何を基準に線を引くのか? ということ。

それからようやく、4) 作者は実際、どっちを意図してただろうか? ということと、
5) (作者の意図はどうあれ、)実際に書かれてるブリジッドちゃんの記述が、どれくらい不自然か(あるいは、ドラマチックか)という話ができるようになるんじゃないかしら。

1)と2) は何だかしんどくて先延ばししたいし(こらこら)、4)と5)を考えるには先に3)が予備知識としてあった方がよさそうだから、まずは3)から始めちゃいますね。線引き問題です。

「ブリジッドちゃんがautisticか否か」は、ブリジットちゃんの状態像だけいくら見ても、それだけじゃ決まりません。「そもそもどこからどこまでをautismとよぶか」って問題との兼ね合いです。

ところがこれが、そんなにしゃきっと線の引けるものじゃないのです。

「妊娠しているか、していないか」「ダウン症候群かどうか」なんてのは、0か1かに切り分けることができます。「ちょっとだけ妊娠してる」とか、「ダウン症候群とそうでない人の境界線上」なんてことはありません。

でも、「視力が低いかどうか」「身長が低いかどうか」「血圧が高いかどうか」なんてのは、そんなに○か×かに分けられません。「視力がこの数値以下の場合を、『低い』ということにしよう」などと、人為的に基準を決めなきゃいけません。それも、使いみちによって基準はなん種類もあったりする。「車を運転するのにメガネをかけなきゃいけない視力」と、「パイロットに採用してもらえなくなる視力」と、「視覚障害者として、障害者手帳が発行される視力」とでは基準がそれぞれちがう。いや、もしかしたら、パイロットの採用基準だって、空軍と民間じゃちがうかもしれない。人員不足になったら、基準が変わるかもしれない……。

身長が「低い」とされる基準になると、国によって(というか、民族によって)ちがってきそうです。

世の中、背の高い人と背の低い人しかいないわけじゃない。あいだに山ほど、どっちでもない「中ぐらい」の人たちがいて。血圧だってそうです。低血圧の人たちと高血圧の人たちのあいだに、正常血圧の人たちがわんさかといる。そして、正常と高血圧のあいだにもまた、「境界領域」の人たちがいる。それどころか、血圧は日によって変動までしちゃったりしますからねー。

「自閉症」も、こっち側に属します。「自閉症スペクトラム」なんて言葉があるくらいですから。自閉度ってのは、「濃いか薄いか」の問題であって、「あるかないか」の問題ではないのです。

Wikipedia の「自閉症」の項目の中に、「AQ」という概念が出てきました。詳しいことはそちらをごらんいただくとして、これ、50点満点です。みんなどっちかに決まるなら、0か1しかないんだから、1点満点でいいはず。そして、非自閉の人が全員零点かっていうと、そんなことはないわけです。むしろ、零点なんてかえって少ない。

学校の朝礼で、身長の順に整列したことがありませんか? あれと同じ要領で、バリバリの健常者から最重度の自閉症の人までひっくるめて、AQの順番に並んでもらうことができちゃう。健常者たちも、AQの順番に一列に並ぶことができてしまうんです。

そして、人が自閉症圏(広義の自閉症)に入るかどうかというのは、必要に迫られて、というか、必要に応じて、どっかで線を引くものです。どうやって線を引くのかというと、素質としての自閉度の順じゃなく、現場での困り感に応じて引くんですね。だって、人は「自閉度が高いから」って理由でどっかに相談に訪れるんじゃなく、「困ったから」って理由で相談に訪れるわけだから。

で、人の困り度、困り感の切実度は本人の素因だけでは決まりません。環境や、偶然のめぐりあわせや、別の素因(重複障害のあるなしや健康状態など)との相性にも左右されます。だから、線の前後あたりでは、自閉度の順番と困り度の順番は前後したりもします。

「困り度」「困り感の切実度」が環境によっても左右されるということは、同じ人でも年齢によって変わりうるってことです。人口の少ない田舎の学校で学んでいるうちは「子どもなんてこんなもの」ですんでいた子が、統廃合で人数の多い学校になると問題がはっきりしてきたり、大学までは、言われたことをやっていればいいから何でもないと思われていたのに、就職したら、今まではパターンをなぞっていただけで実は基本的なことがわかっていなかったことが露呈したり、いろんなケースがあります。子どものときに言葉が話せて、ブリジッドちゃんよりはるかに問題の目立たなかった人でさえ、大人になって再診断がつくことはあるんですね。

でも、そういう人だって、おうちが代々職人さんで、お父さまの工房に弟子入りしていたら、なんの問題もなかったかもしれないのです。ほかの職人さんを差配するようになるとトラブルは起きるかもしれないけれど、生まれつき親方になる身分だったら、まわりが迷惑するだけで、クビにはなりません(弟子入りする側だったら……う〜ん、親方との相性しだいでしょうかね)。

でも逆に、手先が不器用で、工房だとだめだったかもしれない子が、お坊さんだと「なんとかなっちゃった」かもしれません。長いお経とか、ややこしいお作法さえ暗記すれば、少々失礼な言動があっても、「ガクのある人なんてそんなもんか」ですんじゃったり、お寺に田畑を借りている手前、がまんしてくれたり。

なんだか長い割に要領を得なくてすみません。ブリジッドちゃんがほんとにautisticかどうかについては、「一生のうちに、何かあって周囲か本人かがせっぱつまって相談にきたときに診察したお医者さんにしか(それも、十分な経験と知識のあるお医者さんにしか)わからないこと」だと思うのです。

ブリジッドちゃんについては、私には、それくらいしか言えません。ただ、次のふたつは言えます。「子どものときにブリジッドちゃんよりたいしたことなさそうに見えた人で、大きくなってから悩んで相談に行き、さかのぼって診断を受ける人がいる」こと。それと、「17巻の範囲では、彼女がもし自閉っぽさの濃い子どもだったなら一番ボロが出やすい場面(一番ごまかしのきかない場面)を、私たちは目撃していない」ということ。

一番ボロが出やすい場面って、なにかって? それは、

・同じくらいの年ごろの子どもたち(しかも、あまり面倒見がよくもなく、保護者ぶってもいない子どもたち)と、
・三人以上で、
・大人の指導もなしに、子どもだけで、
・差し迫った課題や目的もなしに、対等にやりとりする(つまり、ただ遊ぶ)こと

です。

相手が大人や年齢差の大きい年上の子、逆に、まだ幼くて事情がよくわからず、子分になってくれるい小さい子となら、あるいは、一対一なら、対人関係の力不足が露呈しないことはよくあるのです。

また、みんなにやるべき課題が与えられていたら、各自で課題にとりくむばかりで、何もやりとりをしなくてすんじゃいます。課題がなくても、一見みんなで遊んでいるように見えて、実は全員がひとりで遊んでいるなんてことは、年齢の低いうちにはよくあることです(「平行遊び」というらしい)。

やりとりをすることになっても、その場のテーマが、本人だけがみんなより圧倒的に得意なことだったりすると(たとえば、ひとりだけが土地っ子でみんなを道案内できるとか、ゲームの達人だとか)、少々マナーがなっていなくても、特技に免じてまわりが大目に見てくれることがあります。

「同年齢の子どもだけで、大人ぬきで、ただ遊ぶ場面」って、親にはなかなか観察しにくいものです。だから、ブリジッドちゃんとはちがって、小さいうちから言葉が話せた子なんかだと、「大人とのやりとりはふつうにできていたから」「兄や姉の友だちとはトラブルを起こしてなかったから」親はてっきり何ともないはずだと思っていて、発見が遅れた、なんて話はよくあります。それくらい、「大人とのつき合い」と「子どもどうしのつき合い」の難易度の差は大きい。

言葉を覚えてしゃべるのも大変ですが、「同年齢集団で対等のおつきあいをこなすこと」は、しゃべれる子でさえつまずくほど難しい課題なのです。

さて、小さいうちから言葉がしゃべれて、最初は(ちょっと変だけど)何でもないはずだと思われていた子が、大きくなるにつれてついて行けなくなり、とうとう破綻したのをきっかけにさかのぼり診断を受け、謎がとける例があるということ。

ひとたびそれを知ってしまうと、最初に五つに分けたうちの、(2)の問題を前よりはちょっと慎重に考えざるを得なくなると思うのです。

「自閉症の困り方とは何だかタイプがちがうから、原因は別の○○かも」という方向ならともかく、「こんなこともできるのだから、こんなに能力が高いのだから、こんなに急速に能力が伸びたから、最初から自閉症ではなかったのだろう」という方向の発想は取り扱い注意です。

ブリジッドちゃんとよく似た経過をたどった実在の人、ブリジッドちゃんと同じくらい能力の高い実在の人、ブリジッドちゃんよりもっと困難の軽かった実在の人――でもどうしてもうまくいかなくて、何かわけがあるのではと思い、ようやく福祉や医療との接点ができはじめた人。そんな人の目にだってふれるかもしれないのですから。あるいは、ソフィーのママみたいに、「強情なだけ。シゴけば治る」と思っている人が目にするかもしれないのですから。

あるいは、オブライアン氏が実際に参考にした、実在のモデルがいたかもしれません。その方がご存命で、ネットにアクセスしていらしたら。

私は臨床家じゃないし、おおぜいの例を見ているわけじゃないので、ブリジッドちゃんの例がどれくらい珍しい例にあたるのか、このような急速な学習が可能かどうか、さっぱりわかりません。

でも、もし仮に私にそんな知識があったとして、さらに、もし仮に「ブリジッドちゃんの学習スピードってすごすぎー」と思ったとしても、「こんなのは絶対に不可能」みたいなこと、私はそう簡単に言う気にはなれないでしょう。だって、私には「こんなの無理」と思えたとしても、広い世の中なんだから、ほんとにそれと似たような経過をたどった人が、どっかにいないとはかぎらないと思ってしまうから。

2000年にTBSの『君が教えてくれたこと』のお手伝いをしたときに、こんなことがありました。あのドラマではともさかりえが天気予報の天才女性を演じていたんですが、ドラマで描かれたその天才ぶりを見て、「いくらなんでもあんな能力は現実にはあり得ない」という感想を述べる方もおられました。私から見ても、「かなり無理っぽいよなあ。でもまあ、お話だから」と思えるような能力でした。物心ついてから今までに見た空模様は全部直観像で記憶しているという設定でしたから。

ところが実際には、ともさかりえが演じた女性の能力の設定には、実在のモデルがいらしたのでした。主人公の女性とはちがって、男の方なんですが、彼は子どものときから水滴の感触が大嫌いで、準備なしに雨にあって濡れるのが怖かった。それで、雨が降った恐怖のシーンは克明に記憶に焼きついてしまったのですね。何月何日に雨が降る30分前はこんな空だった、1時間前はこんな空だったと思い出し、「あの日とそっくりの雲だから、あと45分で降る」とわかるようになってしまったのだとか。その後、直観だけではなく、理論の勉強も重ね、気象学の道に進まれました。

モデルになった男性が、「あんな能力はあり得ない」「現実にはあんな人はいない」という反響をご存じだったかどうかは知りません。でも、「そんな人は存在しない」という言葉って、ご本人にとって、あるいは、その方とたまたまそっくりな方にとって、大変な重みを持つ言葉です。

そんなわけで、よほど物理的にあるいは生理学的に不可能なこと(たとえば、明らかに骨端点が閉じた後に身長が目立って伸びたとか、切断した腕が生えてきたとか、トラやウシとのあいだにできた子供を産んだり)じゃないかぎり、「絶対ちがう」とか「あり得ない」とかいった断定的なことは、怖くて言えないなあと思うようになりました。

中には、「『障害だ』と断定するのは失礼だが、『障害ではない』と言うのなら、ほめているんだから失礼なはずがない」なんて思ってる人もいるんですよね〜。自分の診断名にそれなりに納得して、そのつもりで生きている者にしてみたら、「障害ではないと言う=ほめたことになる」という図式自体がめちゃくちゃ失礼なのにね。

本当に受け入れ難くて言うのなら、(早く通りすぎてはほしいが)まだしょうがないとも思えるけど、社交辞令で言われちゃあねえ……。陰で人一倍努力も工夫もして、どうにか表面的には目立たなくなっている人に対して、「あなたの現状は、天然の能力がそのまま発現しているだけであって、努力の成果じゃありません」と言ってるのに。

おっと。愚痴がすぎました。

さて、それじゃ、有名人とか架空の人物とかの診断について、お医者さんでもないしろうとがネット等で論じることはどうなのかな? と考えてみると。

まず、身近な知り合いなんかを無資格で診断しちゃさすがにまずいだろうというのは、たいがいの方が同意するところだと思います(診断とまではいかないけど「疑い」を口にするとか、グレーゾーンはいっぱいあるんですけどね)。

じゃあ、著名人だったら? これ、ほかの人はどう考えるかわかりませんが、私は、ほんとだったときに怖いと思う。もしかして、ご本人がとうに診断ずみで、でも、カミングアウトしてないだけだったら? そんなときに「あの人は××障害」「○○病」って書くのって、実は推測にすぎないのに、情報もれと区別がつかなくなってしまいます。隠している人には何かしら隠したい理由があるんだから、それは尊重しなきゃ。

一方、まだ診断を受けていなくて、かつ、言われてみればそれらしい自覚があるなあとご本人が思ったとしても、そんなこと、自分のファンサイトの掲示板や、評論家の書いた解説本からじゃなくて、自分の主治医の口から先に聞きたいよね。不意討ちじゃなくて、何かの啓発記事や、知り合いの体験談に思い当たる点があって、自分から相談に行く決心がついたときに――つまり、自分の選んだタイミングで――聞かされる権利があると思う。

カムアウトしていない著名人を例にあげることは、別の理由からも批判されることがあります。つまり、そのー……。著名になる人って、王族のように世襲の人や、事件・事故に巻きこまれて奇跡的に助かった人などを除けば、ほとんどが、お仕事で目立った業績をあげた人です。だから、「自分たち(自分の子どもたち)を偉人にたとえるとはおこがましい」「権威を借りる行為でイタい」という批判が出がちなんですよね。

まあ、本当にそんな例がまったくないわけじゃないんだろうけど、著名人を例に使うことには、気分を盛り上げるだけじゃなくて、もっと実用的な効用もあるからフクザツなんです。

ぱっと見ですぐに区別のつけられない障害、言葉で説明されても意味のわかりづらい障害の「雰囲気をつかむ」には、だれもが知ってるエピソードの方ってお役立ちです。著名な専門家の先生が地方へ講演に招かれて、「ほれ、駅前の歯医者の先代の大先生が、次男坊の婚礼の日にああやったみたいに」なんて言ったって、だれもわからない。偉人はエピソードが保存・共有されてますが、市井の人々のエピソードは保存されていないし、共有されてないからです。

それを考えると、架空のキャラなら、「自分を偉人とくらべている」と嘲笑されることもないし、「平凡なわが子に、偉人のようになれとプレッシャーをかけている」と批判されることもない。それでいて、雰囲気をつかむ素材としては役に立つ。困る人、傷つく人もいない。

だから、「それ自体としては」、悪いことでも危ないことでもないと思います。

ただし、話の流れをかならず全体で受けとってもらえるなら。「本当は、たとえ専門医でも、診察せずに診断することはできないんですよ」という前置きまで伝わるなら。

あるいは、そんなことは当然の大前提として、みんなに共有されているなら。だれかがうっかり、(その専門家のまねをしたつもりで)身近なだれかのことを「あの人は××障害だから」なんて言っても、すぐにほかのだれかがたしなめてくれそうな環境ができているなら。

架空のキャラを説明に使うことが、「すべりやすい坂道」にさえならなければ。

ただし、上の話が当てはまるのは、質的な議論、雰囲気をつかんでもらうための説明の場合です。量的な判断、線引きに持ち出すのは、やっぱりとっても危険だと思う。努力とか根性とか愛情不足とかいった地雷に近すぎるような気がするんですよ。まして、もしも実在モデルがいたりしたらなおさら。

(モデル話でいうと、なんだかこの子には実在のモデルがどっかにいてもおかしくない気はするんですけどね。ひとりだったか複数のエピソードを合成したのか、また、直接のお知り合いかだったか文献で読んだだけなのかまではわかりませんが。少なくとも、「外国人の使用人から外国語を先に覚えてしまった」という部分には、なんとなくどっかに元ネタがありそうな気が……。いや、別に根拠があるわけじゃないんですけどね)


さて、今日は、ブリジッドちゃんが「自閉っぽい」かどうかのお話。

あくまでも、「自閉っぽい」かどうか、です。つまり、狭義の自閉症や広義の自閉症と診断されるかどうかは、診断上の線引きの話になっちゃって、私にはなんとも言いようがないし。

ブリジッドちゃんは言葉の育ちが遅れていました。

自閉度がとっても強いと確かに言葉は遅れやすいんですが、ほかの理由でも言葉は遅れます。だって世の中には、自閉症でなくても言葉の遅れる子どもたちがいますから。聴覚障害や知的障害でも遅れるし、発達性失語症とか発達性言語障害とかよばれる子どもたちだって上手にお話しできません。でも、この子たちの場合、大好きなママやパパにまとわりついてきて、言葉が使えないなりに、あの手この手で工夫するそうです。伝えたいことがあるのにうまく表せなくて、じれたりするのが気の毒だったりします。

ところがその一方で、それなりに自閉度は濃いと思われるのに、一人前にしゃべれる子どもたちがいます。アスペルガー症候群といわれる子どもたちがそうなんですが、この子たちの場合、「しゃべれるけど、コミュニケーションにはなってない」。

中には、言葉を覚えるタイミングがちょっとアンラッキーだったばっかりに、伝えたいことがあるわけじゃないのに、「せっかく覚えたから」みたいな感じで、心にもないことを空虚にしゃべってしまう子もいます。本人は大まじめなんですが、「言葉とは、言いたいことがあるから使うものらしい、伝えたいときに使うものらしい」ということに気がつくよりも、言葉の方が先に出てしまうと、状況をわきまえずに猿まねする時期ができちゃうのです。こうなっちゃうと、事情を釈明しなさいと言われているのがわからなくてお気に入りの物語を暗誦してしまい、うそをついたと叱られたり、欲しくない物を断れなかったり、これはこれで、しゃべれるからかえってナンギな、という苦労もします。だいたいにおいてこのタイプの子どもたちは、しゃべれる割に理解はしてません。よく聞くと会話もあんまり会話になってません。大人とか、専門家とか、その子のことを深ーく愛してる人となら対話が続くし(相手が続けてくれるから)、一方的な演説はできるんですが、一番うまくいかないのが、同年代の子どもたちとのやりとりなんです。

この逆転が起きちゃう子どもたちって、たぶん、認知スタイルの得意不得意を見ると、「耳から暗記する力」が一点豪華主義になっちゃってる子なんじゃないかと私は考えています。

自閉度は濃いから「コミュニケーションの遅れ」はあるんですが、それが耳の強さで相殺されて、「しゃべりはじめの遅れ」っていう形では反映されないんですね。実用には使えない、いまいち役に立たない(ときに迷惑にもなる)だけで、覚えることは覚えるんです。

そして、ふつうに誰が見ても自閉症、という子どもたちだと、コミュニケーションの遅れがあって、かつ、言葉もなかなか出てきません。

まず、認知スタイルが「耳よりも目」だったり(こういう子は多いですね。テンプルさんもこのタイプです)、「耳よりも目よりも体や手」(ドナさんはこのタイプだそうです)という子だと、耳に余剰のパワーが回ってませんから、コミュニケーションの遅れがそのまんますなおに反映されることになるのでしょう。

かつ、知的障害も重なっていると、状況の理解や、記憶も効率がわるくなりますから、言葉を覚えるには、さらに時間とエネルギーがかかってしまいます。

でもね、これは私個人の感じなんですけど、「リソースが耳によぶんに回ってて、わからないくせにしゃべれる子」にも「よぶんに回ってないので普通にしゃべれない子」にも共通してると私が思うのは、《コミュニケーションにしろ言葉そのものにしろ、その「わからなさ」が、単なるパワー不足じゃなさそうなこと》なのです。

自閉のまざってない、純粋な知的障害の子や、純粋な聴覚障害の子、純粋な言語障害の子は、言葉を学ぶために必要などっかのパワーが足りないわけです。ところが、自閉の入ってる子は、パワー不足よりも(あるいはパワー不足だけじゃなく)、どこか、「注目するポイントをはずしまくっている感」があるんですよね。

前便でドナさんに言及したときに書いたかどうか忘れたんですが、ドナさんは子どものとき、人がしゃべってるのを聞いて、てっきり、音楽みたいに音のやりとりを楽しんでいるのだとばっかり思っていたそうです。それで、お祖父さんとお祖母さんの会話をひとりで再現していたけど、それに意味や内容があることを知らなかったそうです。

テンプル・グランディンさんの『自閉症の才能開発』(学研)のどっかに、ジム・シンクレアの発言が引用されています。今、出先なので本が手元になくて引用できないんですが、彼は、言葉が遅れているからと言語訓練に通っていて、かなりの長さの、かつ、文法的にも整った文を、言われるままにいくつも復唱し、暗記していたのに、その音声が、用事をこなすのに使えるものだとは気づかなかったそうです(彼の場合、文字は読めて本から情報を得ていたし、教科書があるから学校の授業も理解していたんですが)。

そういう、目ざめてからふり返ると自分で「何やねん、そこに注目するもんやったんかい!」「だからそれを先に教えてくれてれば!」と言いたくなりそうな、まわりも「なんでそないなるねん!」とつっこみたくなるような「ポイントはずし感」が、自閉っ子にはありがちなんです。

だからこそ、しゃべり始めたら急だったりするんですね。「気がついちゃったら一発」みたいなところがあるから(もちろん、「耳よりも他の感覚」の偏りがある子だと、「一発」のあともそれなりに苦労はするんですが、言語障害の子どもたちほど純粋に苦労だけ、ってことはなさそうです)。

ここまでが、私の考える、「自閉度」と「言葉の遅れの出る・出ない」の関係です。

で、これをブリジッドちゃんに当てはめると。

こないだお話しした、「パディーンだと言葉が覚えられた」の部分に、この「なんでやねんと言いたくなるポイントはずし感」を私は感じてしまうのです。

ブリジッドちゃんって、自閉度そのものは濃いのか薄いのか私にはよくわかりません。もしかしたら、そんなにキツくないんかもしれません(自閉度はかなり薄くても、「耳より目」や「耳より手」の偏りが濃いと、言葉の遅れはその分だけ底上げされるからです)。でも、これは、専門家でもなければ援助職に就いているわけでもない私の受けた印象なんですが、どうもこの「いったん覚えたら急」というとこらへんに、「ツボのはずしっぷり」が感じられるんですね。

そして、それまでスティーブンに無関心だったのに、スティーブンがパディーンにアイルランド語で話しかけたとたん、「あれ。しゃべれるいきもの、もう1ぴきはっけーん!」という表情で見るところ。このときの彼女にとっては、「アイルランド語の音を出すもの=にんげん」なんだろうなあ。

見のがし、とりこぼしは多いんだけど、というより、見えている範囲の方が圧倒的に狭いんだけど、自分にわかった範囲で、その狭い狭い狭い窓から自分なりに世界を解釈するところ。この「窓の狭さ」が、なにより自閉っぽいなあと思えるのでした。

オブライアン氏がブリジッドちゃんを今でいう自閉症と設定していたかどうかについては、ほんというと、小説を鑑賞する場で語ってもしょうがないんですけどね。作者がそのつもりだったとしても描写がそう見えなかったらなんにもならないし、逆に自閉症なんか知らなくても、たまたま未診断の自閉症のお子さんをモデルにして正確な描写をすればいくらでも自閉症っぽいキャラはできちゃうんですから。

……なんて前置きしておきながら、やっぱり言ってしまうと、そのつもりで設定してたんじゃないかと思えるポイントはあります。妖精にたとえている点とか、あと、目鼻立ちが驚くほど整っているとされている点とか。実は、ほんのちょっと前まで、目鼻立ちが整っているのが自閉症児の特徴だなんて大まじめに言われていたという歴史(?)があるのです。診断例が増え、データが蓄積されるにつれ、別に美少年・美少女ばかりじゃないことがわかってきたんですが、ほんとについこのあいだまでのことらしいですよ。いったい何がきっかけだったのやら。

さて、そんなブリジッドちゃんの変化の急速さについて。

私も、ちょっと急かなあとは思います。

ただ、急とはいっても、「転換点の角度が鋭い」ってことじゃなく、「転換点の後の上達が速い」の方の意味で。「急激だとは思わないけど、急速だとは思う」と言えばいいかしら。

転換点の角度が鋭いことは、むしろデフォルトだと思う。この種の子どもたちの遅れをうむ要因には、能力不足だけじゃなく(ときには能力不足がないことも)、「注目しどころをはずしまくってる」がたいがい伴ってるので。「え、そこを見るんだったの? それならそうと、なぜ先に教えてくれないかなあ体験」を経れば、急に変化して当たり前ですよね(それが外から見えるかどうかは別として。変化が現れたのがたまたま外から見えない箇所だった場合、一見したところ角度が急とは見えないでしょうから)。

でも、急転換のあとで追いつく方は、それまでの蓄積とか、今のその子の実力とか、どっちにせよチカラワザになります。現実のケースだと、今まで、理解できないなりに音として丸暗記しておいた日本語が解凍されてあふれ出してくるなんてこともあるんだけど、ブリジッドちゃんの場合、パディーンに会う前にアイリッシュを聞いて暗記していたはずはない。てことは、全部一から覚えたとしか考えられない。

その辺は、どうかなあ……。でも子どもって大人とは記憶力がくらべものにならないしなあ。知能が高かったらなおさらですよね。

あー。ここまで書いちゃってから、今ごろ気がついた。でも前に戻って書き直そうとするとまた日が経ってしまいかねないから、くっつけて補足だけでごまかしとさせてください。

「変化」っていっても、「今の達成度」の変化と、「持てる基本能力」の変化とあるでしょう? 今までちっともそれを分けて言って来なかったなと気がつきました。

ブリジッドちゃんの状態が急に変化したとはいっても、持てる基本能力が伸びたとは全然思わないんですよね。はずしてたポイントに気がついてから、持てる基本能力を活用できるようになって、今の達成度はすごく伸びたんですけど。要するに、「表面的にやってることは急激に変わってるけど、素質はべつに変わってない」といった感じでしょうか。

だいぶ前の便で、ブリジッドちゃんはもともと頭もいいし、健康で体力もあるし、性格も大胆そうだという意味のことを述べました。彼女、しゃべれなかったころから、「家のルーティンがわからないがゆえの混乱」を全然してませんでしたよね。言葉で言われていることはわからないだろうに(クラリッサが「理解できているんだろう」と思ってしまったくらいに)、いろんなことの手順を観察し、意味がわからないなりに丸暗記して、「この家じゃ、とんでもなく危険なことは起こりそうにないなあ」と安心してる感じがしました。

ただ、あやされたりかまわれたり、教えてもらったこともない「子どもらしい反応」を期待されてがっかりされたりするのが迷惑なだけで、不安そうなところはみじんもなかった。

これって、もともと頭がよい上に性格も明るくて図太いって条件がそろってないとできない、けっこうすごいことなんです。

原理がわかってないルーティンを棒暗記するには、原理のわかっているルーティンを覚えるよりもずっとメモリを食います。情報を整理するツールがない分、チカラワザで乗りきってきたってことです。つまり、ツボをはずしていなかったら相当の余力になっていたはずの記憶力と推理力を、ムダの多い形でしか使えなくて、それでもぎりぎり間に合ってたんですね。

そんなわけで、「もともと素質のある子がコツをつかんだ」という意味ではそんなに驚きません。一方、その後の達成度の上がり方は、ちょっと「普通じゃない」とは思います(「普通じゃない」からといって、そう簡単に「あり得ない」とは、前に述べた理由から言いたくないし、実際言えないと思うんですけどね)。

言語能力の方じゃなくて、パディーンや船員たちへのなつき方は……。

これは、「激しさ」と「広がりの速さ」に分けましょうか。

激しさについては、あんなものでしょう。私たちのお仲間って、調子に乗ると限度がないんですよね。なにかと極端に走る人たちですので。なんというか、我らが一族は基本的に「やり込み体質」なんです。ツボに入った本はぼろぼろにし、ツボに入ったゲームはやり込み、ツボに入った曲は一曲でリピートし、ツボに入ったテーマを追求しまくり、ツボに入った物品を使い倒し、ツボに入った店に通いつめてツボに入った料理だけを注文し続けるのと同様、ツボに入った人を使い倒すんですよ。ストーカー扱いされることにもなりがちだし(ていうか実際にストーカーにしか見えない行動を知らずにとってしまう人もいる)。最初に気を許した相手がまいっちゃうこともけっこうあるんですよね。パディーンなら大丈夫でしょうけど。

ただ、「パディーン」から「パディーン以外」にも広まるのはちょっと急激かなあ。パディーンを手がかり、足がかり、ヒントにして、応用編を覚えるのは、かなり速い方ですよね。でも、もともと図太そうな子だからなあ……。

何かね、パディーンとの出会いって、インターフェイス部分のつなぎ目なんですよ。今まではパソコンがあっても使い方がわからなかったのが、パディーンという「マウスが家にやってきた!」みたいな感じ。マウスが一個あると、パソコンでできることがいっぱい増えますよね(ていうより、ないとかなり大変……)。「ブリジッドちゃん、じょうぶなマウス買ってもらって良かったね!」みたいな感じでしょうか(パディーンごめんね)。

で、このように急速な変化はありうるかありえないかという話は逃げて通っちゃうとして、「かなり急激な方だよね」となら、言うことはできます。正規分布曲線のそうとう端に寄ってるよね、くらいの意味で。まあ、ブリジッドちゃんがそんなに端に寄ってるかどうかは、子どもの成長を見守った経験のない私にはいまいちよくわかんないんですけど。

一番すごいと思ったのは(そして、多少ひっかかりを感じたのは)、スティーブンにプディングを「食べる?」と言うところですね。これ、けっこう高度なことなんです。「大人も物を食べるんだ」とか、「大人も自分と同じ物を食べるんだ」とか、「大人だって食べ物をほしいと思うんだ」とか、「大人だって食べ物を勧められるとよろこぶものだ」とか、どれもこれも高度だから。

もしかして、犬や馬にエサ与えるのを応用したんでしょうかねぇ。それとも、パディーンにいつも自分が言われていて、かねがね自分も一度くらいだれかに「食べる?」って言ってみたいと思っていて、ちょうどスティーブンが現れたからそのとおりに言ってみたのかしら(しかし、そうだとしたら、スティーブンは子供にまで「世話を焼きたい」と思われちゃうキャラだということに……)。

そうだ、前にも書いたような気はするんですけど、私が、このように急な変化が「ありうるか、ありえないか」という図式にあんまり乗る気になれないのは、このシリーズ全体がもともと波瀾万丈の冒険小説だからでもあるのでした。だって、スティーブンみたいな人なんてめったにいないだろうし、ジャックの体験する海戦だって、当時としてはめったにないことだったわけだし。

たしかにブリジッドちゃんの進歩ぶりはドラマチックなんだけど、それ言うなら、くまの皮を着て四つ足で山脈を越えてしまったり、グレートキャビンの窓から海に落ちて不思議な島に流れついてしまったりする方が、もっとドラマチック(むしろ、ファンタスティック?)じゃない〜と、どうしても思っちゃうのでした。


(Kumiko)ニキさん、またも、ややこしい質問に適切なお答えをありがとうございました。ああ、かわいい。スティーブンが。(<それかい。)

それから、ブリジッドの場合、もしかして「一番ボロが出やすい場面」「困り度が切実な環境」を経験することは、これからもないかもしれないなあ、と思いました。当時の上流階級の令嬢は、大勢の同年代の子と対等にやりとりする、ということはあまりなさそうだからです。10歳ぐらいまでは乳母や家庭教師がつき、その後は「お嬢様学校」に行ったりするけど、それも現代の学校とは違って規模は小さい。例えば、次の巻でジャックの娘たちが行っている学校など、ソフィーの妹の経営で全校生徒20人ぐらいだそうです。クラリッサが退学になった学校はもう少し大きいかな。でも、どのみちどうしても行かなければならないこともないし。相性がよくて優秀な家庭教師にずっとみてもらうこともできるだろうし。

とにかく、19世紀初頭と現代では、女性に求められる「社会性」の質と量が大違いでしょうね。特に上流階級の女性は一生誰かに(父親、夫、事情によっては兄や親戚)に守られるのが当たり前で、特に社会性を身につける必要があるとは思われていなかった。それが良いとは言いませんよ。そういう社会では、ダイアナのようにわが道を行きたい女性はどうしてもはみだしてしまうし、「保護者」になる人が悪いやつだと、クラリッサのように性的虐待を受けたり、娼婦にならざるを得なくなったりします。また父親が、相性もなにも考えずにとにかく金や地位のある男とさっさと結婚させる、という方針だと、夫に理解されなくて苦しむこともありそうです。でも、スティーブンならその心配はないだろうし。

たまたま、守ってくれる人に恵まれなかった場合、とりあえず自分でなんとかやってく、というオプションが存在しない(あるいは、身体的にも精神的にもすご〜く強い女性でなければ選べない)という社会は、それはそれでキツいものだと思います。でも、現代も、十分にオプションがある社会じゃないのかなあ、とも思ったり。ひとつの規範が別の規範に置き換わるだけじゃなくて、広がるのがいいよね。

なんか話がそれてしまってすみません。とにかく、ブリジッドちゃんの人生に幸多かれと願ってやみません。(あ、これきり出てこないわけじゃないですよ。)